折々の法話

仏教から見る死(中)

 

V.F.グナラトネ師 訳:出村佳子

 今月は『心の連続性』について考察をすすめていきます。
 今の瞬間、あなたの心に、怒りが現れているとしましょう。でも次の瞬間には悲しみが生まれ、また次の瞬間には義務感のようなものが、それから次の瞬間には憎しみ‥‥‥などのように、違う心が隙間なく次から次へと繋がって、生まれては消えていくんですね。このような「連続的な流れ」を総称して、私たちは、「心」と呼んでいるのです。

 どの心も生まれ、留まり、滅するという3段階の性質を備えています。これをパーリ語ではuppâda,thiti,bhanga といいます。
今の心が生まれて滅するとすぐ、次の瞬間には別の心が生まれて滅します。この、目まぐるしい勢いで絶えることなく生滅する連続性を見て、私たちは、あたかも「心」とよばれる実体が存在するかのような錯覚を抱いているんですね。でも実際には連続的な流れがあるだけで、固定した永続的な心など、どこにもないのです。

 この急速な心の連鎖はよく川の流れにたとえられます。刻々と流れている川の水は、まるで「川」という実体があるかのように見えます。しかしこれは錯覚にすぎないんですね。

 ひとつ例をあげてみましょう。ある朝、川を渡り、その日の夕方、再び同じ川を渡ったとします。夕方渡った川は、朝渡った川と同じでしょうか? 朝の川の水のセットと、夕方のそれとは違うものですか? 2つのうちどちらかだけが「川」なのですか、あるいは「朝の川」と「夕方の川」という2つの川が別々に存在するのでしょうか? もし、昼にもその川を渡ったとすれば、「昼の川」という別のものが存在するのでしょうか?

 このことをよく考えてみてください。時間ごと、瞬間ごとに、川の水はまったく違うものに変化していませんか? では、「川」という実体はどこにあるのでしょう? 川岸や川底のことでしょうか? 結局「これが川です」とか「川」などと、明確に指摘できる実体は見つからないんですね。「川」というのは、絶え間ない水の流れにつけられた単なる名前にすぎないのです。

 心も川の流れと同様に、一瞬たりとも止まることなく変化しつづける流れのことをいうんですね。すぐに過ぎ去っていく流れの、ある瞬間をとって「これが私の心です。永遠の心です」と指し示すことができるでしょうか? たとえばある人にたいして‘怒り’の心が生まれました。この怒りは永遠に変化しないものでしょうか? しばらくすると同じ人に対して‘慈しみ’が生じることもありますね。もしこの慈しみも永遠なものならば、互いに対立する2つの心が、同時に実在するということでしょうか?

 この事実を探究していくと、「心」という実体はないという結論が、自ずと導きだされることでしょう。それは、猛烈なスピードで次から次へと生滅し多様に変化する流れにつけられた名前にすぎないのです。車も、川も、身体も、心も、すべてのものは原因と条件によって成り立っているんですね。それ自身の力で独立して存在するもの、永遠なるもの、変化しないもの、魂はどこにもないのです。

 このように「身体」とは、変化しつづける諸要素の集合に貼られたラベルであり、同様に「心」も、その生滅変化の連続性につけられたラベルのことなんですね。ですから、心と身体の集合体である「人間」というのも、実体として存在はしないのです。これもまた、単なる名前だけの存在なのです。また「車が動く」とか「人が歩く」という場合も、ただ適当な言葉を用いているにすぎず、究極的には「動く」とか「歩く」という行為だけがあるのです。

 『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』(清浄道論Visuddhi Magga)

 『業の主体者は存在しない。ただ行為だけがある。固定した人格は、存在しない。連続的な変化(因果関係)だけがある』この心と身体の分析は、「死」の問題とどのような関連があるのでしょうか? 結局『死ぬ主体者は存在しない。ただ、死という変化だけがある』という結論に至るんですね。動くことも歩くことも変化であり、同様に死ぬこともまた変化なのです。背後に隠れて、動くことや歩くこと、死ぬことをコントロールしている不変な実体は存在しないんですね。この超越した見方を少しずつ磨いていくことによってものごとに対する執着や、「行為の主体者として、私が存在する」という無知が、除々に軽減していくのです。

 『すべての存在は因果関係で成り立っている』という真理を理解することは簡単なことではありません。しかしこの見解を通して少しづつ悟りに近づくことができるのです。これは邪見から人々を目覚めさせる、きわめて重要な認識のひとつなんですね。理解と同時に、死にたいする恐れや不安が消滅します。光が現れると、暗闇は自ずと消えますね。そのように智慧と理解の光が、恐れや不安などの無明の闇を根こそぎ取り除いてしまうのです。

 この状態を、言葉で説明することはいとも簡単なのですが、直接経験をもって理解するのは困難なことです。なぜでしょうか? それは、私たちがあまりにも固定概念にしがみつき、がんじがらめになっているからなのです。誤った考えに気づくことがなく、真理の探究においても、事実とは違う目標を定め、間違った道をたどることに、心が慣れ親しんでいるからなのです。このように私たちは、新しい道を切り開くことに未だ抵抗し、みずから正見( sammâ-ditthi )を得ることを否定しているのです。

 『‘私’と‘行為’は同一のものである』と見なす根深い習慣が、すべての思考や行動の背後に「我が存在する」という誤解を生みだしているんですね。これこそが一切の苦悩の根源なのです。「私」という感覚は、常に生滅変化しつづけている意識の流れに他なりません。また一度生滅した心が再び現れることはけっしてないのです。私たちは、無知で覆われ、自我意識に固執し、そこから離れられないのです。そしてそれが「魂」や「私」という妄想概念を生み出しているのです。

 大念住経( Mahâ – satipatthâna – sutta )には、邪見(ものごとを曇らせ、歪めさせる見方)を直し、心を清らかにするための実践方法が、奥深く、丁寧に記述されています。お釈迦さまは幾度も忠告されました。「この方法にしたがい実践するならば、個々が大切に抱いてきた邪見を取り除き、ものごとの本来の在り方を明らかに知る智慧を、育てることができる」と。その智慧によってのみ、「生きること」と「死ぬこと」がただ因果関係によって成り立っているということを発見できるのです。そしてそこには、悩み苦しむ主体者は存在しないのです。

 これまで述べてきたことをよく考察し、実践してみてください。そうすれば、「身体と心が‘私’である」という根深い習慣を少しずつ手放していくことができるのです。そしてそれに代わって「これは私ではない、私のものではない」という無我(anatta )の考察が生まれてくるのです。その結果、今まで固く握りしめてきた「私」への執着がだんだん薄らいでいくんですね。そしてこの「私」という錯覚を抱くのをやめるとき、悟りに達することができるのです。

 このように『業(カルマ)の法則』や『形成(サンカーラ)の法則』を考察することは、死にたいする正しい見方を得、正しく死に直面することを、手助けしてくれるのです。  

 今回は『無常の法則』について考えてみます。これは四聖諦の第一番目の真理である「苦の真理」の基本となるものです。

 『すべての形成されたものは無常である』これはお釈迦さまの有名な言葉です。この世の中には、変化しないものはありません。時間は、私たちの好き嫌いにかかわらず、途切れることなく常に流れています。世界は絶えず変化し、私たちの心と身体もまた、一瞬一瞬変わり続けているのです。

 『生じたものは必ず滅する』とお釈迦さまはおっしゃいました。無常であるから成長する。無常であるから衰退する。無常であるから、成長は衰退へと至らしめる。健康な若者もやがて年老い、高層ビルもいつかは必ず崩壊します。鉄はさび、色はあせ、木は朽ち、家柄、権力、美、富などは、必ず衰えていきます。このように「壊れていくプロセス」が、無常の法則の側面なのです。

 巨大なロッキー山脈でさえ、いつまでも一定の状態に止まっていることはありません。徐々にすり減り、何千年か後には消えてしまうと、科学者たちは見ています。また地球も非常にゆっくりですが、確実に地熱が冷え、水を失いつつあるのです。何百億年か後には月のように冷たく、生命の存在しない惑星になるでしょう。このように、たとえ私たちの目には知覚できなくても、微細に、確かに「無常の法則」は働いているのです。

 また「無常の法則」には、成長や進歩の側面も見られます。種は草木へ、樹木へと成長し、つぼみがふくらんで、花が咲きます。でも成長はけっして持続しないのです。結局、破壊の方向へと進むのです。育った植物は必ず朽ち果て、開いた花は必ずしおれます。これが生と死、形成と分解、生起と消滅の終わりない循環なのです。これらの変化をコントロールする支配者はどこにも存在しません。無常は、すべてのものに本来備わっている性質なのです。

 あらゆる現象は諸要素の集まりで形成されています(行の法則)。その構成要素をさらに細かく見ると、その各々も常に変化しているのです。私たちの身体を含めたすべての物質は、四大要素(地水火風)から構成され、これら各要素もそれぞれ「無常」の対象として観察されるべきものなのです。お釈迦さまがおっしゃいました。「この一尋(約1.8m)の身体は何か?ここに‘私’とか‘私のもの’と指摘できるものはありますか? そんなものは微塵もありません」と。

 また、お釈迦さまは、存在が5つの要素(色受想行識)から成り立っているということを明らかにされました。それら各要素もそれぞれ、生まれては消えるという一時的なものであり、「無常」の対象として観察されるべきものです。

 次に、「無常の法則」の真の価値を考えてみましょう。無常であるが故に、私たちは自分自身の生き方(身・口・意の行為)を調整することが可能になり、それによって最高の利益を得ることができるのです。たとえば、こころに強い煩悩が生じたとします。でも無常を理解する人は、それがすぐに消滅することを知り、制御できるようになるのです。それから「何が善か」を絶えず考察することで、こころに善が育ち、不善が一掃されることも理解しているのです。

 戒律が清浄になり、集中力が深まり、智慧が磨かれ、少しづつこころが善い性質で満たされていくに従い、身・口・意の行為は自動的に、平和で調和のとれた清らかなものへと変化していきます。このように無常であるからこそ、悪は善へ、悪い人は善い人へと改善することが可能になるのです。こころの清らかな人は、来世への不安も、死の恐れもなく、いつも穏やかでいられます。このように無常の法則は、幸福をもたらす真の原因とも言えるのです。

 『善い行為をする人は、この世で喜び、あの世で喜び、2つの世において喜ぶ』(ダンマパダ16)

 こころを善い方向へ変化させれば、この身体が壊れた後には、確実に、より幸福な次元に生まれ変わることができます。さらに瞬間瞬間、自分の体と心の無常を確認し、また他人の体と心の無常を確認することで、無常を真に理解しはじめるのです。

 「死」をよく考察する人に、恐れは生じません。死に際しても、穏やかに、落ちついて直面することができるのです。

 今月は、無常の法則に関係のある『縁起の法則』から「死」にアプローチします。すべての現象は、諸要素の集合だけでなく、様々な条件が調って成り立っています。

『これがあるとき、かれがある。これが生じるとき、かれが生じる。これがないとき、かれがない。これが滅するとき、かれが滅する』

 これが縁起の法則です。生死の過程もこの原理の中で働いています。存在は12の支(12縁起)から構成されています。これは最も深い真理のひとつです。お釈迦さまはアーナンダ尊者に語りました。「縁起の法を理解せず、鋭い洞察がなければ、生命は絡まった糸のように輪廻の中でもがきつづける」 (長部経典・マハーニッダーナスッタ)。

 12縁起は次のように輪転します。
『無明に縁って行が生じ、行に縁って識が生じ、識に縁って名色が生じ、名色に縁って六処が生じ、六処に縁って触が生じ、触に縁って受が生じ、受に縁って愛が生じ、愛に縁って取が生じ、取に縁って有が生じ、有に縁って生が生じ、生に縁って老死が生じる』 
 この回転が無限に続いていくのです。

 「愚か者は幾度も再生を求める。生まれるたびに、死もまた訪れる。このように人は死の苦しみを何度も経験する」

 縁起の法則は、一見簡単に見えますが、その真意を理解するには熟考が必要です。ここでは「死」に関する誤った見解を取り除くために、12支の最初の「無明」と、死と再生に関わる「行」と「識」について考えてみます。 

 まず、12縁起は単なる時間に従った因果の系列ではないということを理解する必要があります。諸要素は同時に生じるので、原因というより縁(条件)になるのです。24種の縁起の仕方があります。どれも、縁 paccaya dhammaと、縁によって生じているもの paccaya uppanna dhamma の両方があり、その多くは相互に依存して同時に生じます。

 まず「無明」Avijjâ を見てみましょう。無明は12縁起の最初の支ですが、存在の始源という意味ではありません。お釈迦さまは言われました。「比丘たちよ、存在の始源は知りえない。それは無始である」と。また Bertrand Russell は「この世界に始まりがあると考える理由はない。そのように考えるのは思考が貧しいからである」と述べました。無明は、物事の起源ではなく、苦しみの起源なのです。12の支はどれも絶え間なく動き続けています。よく吟味すれば、この「無始」という真理を理解することができるでしょう。結局、「無明」とは、苦集滅道の真理、すなわち四聖諦について知らないことを指しています。無明は大変危険なものです。私たちは無明によって、世間の事象にただ振り回されているだけなのです。無明が、生死の苦しみの回転を無限に引き起こしているのです。

 2番目の支は「行」Sankhâra です。これは意志の行動を意味します。(無明に縁って行が生まれる) お釈迦さまは「四聖諦を理解すれば、物事を如実に見られるようになる」と言われました。私たちは、無明に妨げられて物事を正しく見ることができません。無明によって様々な行動を起こしています。存続する限りは、無明が、意志の行為の条件となるのです。縁起の注釈書には「行」は業を意味するとされています。

 12支のうち、最初の無明と行は過去時に、続く8支は現在時に、そして最後の2支は未来時に属します。

 3番目の支は「識」Viññâna です。ここでは結生識 patisandhi viññâna を意味します。(行に縁って識が生まれる)現在の意識は、過去の善悪の業に条件づけられています。つまり依存しているのです。今の生が過去と連結して成り立っている(再生)という意味で、ここは非常に重要なところです。どのように過去の行為が、今の誕生の条件になるのでしょうか。物質科学の分野では、その原因を現世だけに限って探求し、生物学者は、父と母の結合が誕生の因縁であると言います。お釈迦さまは、そのどちらも不適切であると言われました。人間は「心と身体の集合体」であり、心の働きを無視して、身体の機能(精子と卵子)だけから生命が誕生することは非論理的であると。ですから身体の機能のほかに「識」の要素が必要なのです。たとえば、ろうそくの芯と油だけで炎は生じません。たとえ多量の油に芯を浸しても、燃えやすい芯を使っても、炎は出ません。芯と油以外に、外部から炎をつける必要があるのです。

 過去の業は、行為の質に基づいた適切な場所に再生するためのエネルギーを生成し、そのエネルギーが「識」を生み出します。このエネルギーが身体の法則と協同して、母子宮で胎児を形成します。ちょうど睡眠が身体機能の流れを妨げることがないように、死が生存作用の流れを妨げることはありません。死とは、「生きたい」という意志の力によって、別の領域に生まれ変わることです。死の瞬間に、業のエネルギーが終息することはありません。業が、新たな領域で生存するために形を生み出し、それに特性を与え、空間と名称を確保するのです。種は地面に蒔かれて植物になりますが、そうなるためには、種と土以外にも、光や空気、湿度など、目に見えない様々な要素が必要です。生命は「生きていきたい」という意志の力が、次の世に生を結ぶ要素になるのです。

 過去の業に縁って、現在の「生」が生じていることや、ある生存での「行」に縁って、次の生存の「識」が生じることに何か疑問がありますか?

 もしあるなら、人間の行為と、その特質を静かに観察してください。行為とは、種々様々で、絶えることがないものです。では、いったい誰が、何が、行為をさせているのでしょう?

 それは、生存欲から生じる無数の欲望が行動を駆り立てているのです。「生きたい」という願望が、あらゆる行動の原動力になっているのです。食べる、稼ぐ、学ぶ、戦う、昇進する、憎む、愛する、企む、計画する、騙すなど、すべての行為は生き続けるためなのです。矛盾しているようですが、自殺でさえ、混乱や失望から解放されて「生きていきたい」という希望から生じているのです。私たちは、無始なる過去から、毎日、毎時、毎瞬と渇愛に駆られて行動しています。こうして蓄積された業が、次の世に生を結ぶための強烈な創造力になるのです。

 「渇愛が生存をもたらす」ことは理解しがたいことでしょう。どの瞬間にも、気づかぬ間に業を積み、潜在力が蓄積されています。この潜在力は、今の身体が滅びた後、次に結生するための強力な縁になります。結局「生きたい」という渇愛が、新しい「生」を生起させているのです。

 死ぬ瞬間の業は、その直後に、結生識を生み出します。それが新しい物質(精子と卵子)と結合して、次の「生」を生み出すのです。つまり結生識を主として新しい名色(心と身体)nâma-rûpa が生起するのです。臨終直後には、このように過去の意業の果が現れるのです。科学者たちは「エネルギーは不滅であり、形を変えながら保持し続ける」と言います。それでは何が生存から生存へと移転するのでしょう?

 業ですか、業の果ですか、識ですか?

 いずれも答えは否です。どれも移転しません。業には計り知れない力があります。それが次の生存に影響を与え、新しい「生」を生み出すのです。このとき、距離は妨げになりません。
「識は生存から生存へと移転する」という誤った見解を持つサーティ比丘にお釈迦さまは言いました。「愚か者よ、私は多くの根拠をもって、縁によって生じる識について説いてきたではありませんか。縁がなければ、識の生起はないと」(中部経典・大愛尽経)。William Crooke 氏は、Edinburgh の精神科学の講義で「意業に基づいて心は物質を作り出す。このことがすでに実験で証明されている」と言いました。心のエネルギーが別の次元に「生」をもたらします。このことを表現するために、便宜上「業が輪廻する」などの言葉を使用しているのです。お釈迦さまは「生存から生存へと移転(輪廻)するものは何もない」ことを示すため、多くの比喩を用いて説明されたのでした。何かが輪廻するのではなく、前の縁が、次の縁に影響を与えるのです。膨大な業のエネルギーが、別の世界で形態を作り、識を生み出しているのです。

 見落としてはならない重要な点があります。結生識は誕生前の胎児だけに生じます。この時期、胎児は母体の一部であり、まだ外の世界と接触していません。そのため、意識は有分bhavangaの状態にあると考えられます。誕生後には、母体から分離して個別の存在となり、外の世界と接触します。この時はじめて、誕生前の有分心が、完全な意識作用(路心)vîthi-cittaとして働くのです。

 距離が因果の連続性を妨げることはありません。前にも述べましたが、お釈迦さまは、「識は生から生へと流転する」と言うサーティ比丘を厳しく戒めました。移転するのではなく、前の識が、結生識を生み出すのです。生まれてくる子供は、新しい両親の遺伝を継承します。しかしそれだけではありません。死ぬ前に自ら作った行為の印象を相続して生まれてくるのです。たとえば同じ両親から生まれ、同じ環境で育った双生児は、それぞれ異なる性格を持っています。このことは遺伝だけで解明できるでしょうか?

 これまで私たちは、いくつかの観点から「死」を考察してきましたが、そのどれもが「生」における重要な要素になります。死は壊れた電球のようなものです。電球が壊れると光は消えますが、電圧はかかったたままです。新しい電球を取り付ければ、また光が現れます。同様に、絶え間ない生の流れがあり、今の身体が壊れても、業の流れは終息しません。業は新しい物体の中で流れ続けていくのです。「類は類を呼ぶ」という法則に基づいて、過去の生き方、考え方、行為は、それに似た性質をもつ結生識を、即座に生み出します。死の直後には、自ら為した身口意の善・不善業に相応する環境へ引き寄せられます。そして次の「生」が決まるのです。

 瞬間々々、私たちは、自分の未来を形成しています。ですからどの瞬間も気をつけなければなりません。無数の過去と未来のことを考えれば、今の目先の現象に執着すべきではありません。将来、我が身に訪れる、無数の生と死のことを想像してみてください。限りない輪廻における「生と死」「生起と消滅」の繰り返しの中の、たった一つの死だけを恐れるべきではないでしょう。  (次号に続く)