折々の法話

人は遺体を運んでいる

 

スマナサーラ長老

 私たちの悩みを見てみると、たいてい過去に起こった出来事で苦しんでいます。終わったこと、死んだこと、消えたことを、何度も何度も思い出しては悩む。思い出しては悩む。そういうのは、すぐにやめた方がいいのです。
 「私はあんなことをされた、こんなことをされた」「ああ言われた、こう言われた」と、悪いこと、イヤなことばかり覚えていて思い出す。相手はもうとっくに忘れているかもしれません。まあ、もしかするとそのとき、その人はまちがったかもしれません。それもふつうのことで、人は皆、ずっとまちがいながら生きているのです。

 終わったことを心の中に保ちつづけているのは、遺体を運んでいるようなものです。皆、自分で遺体を運んでしまうのですね。自ら遺体を背負ってしまうのです。だから自分の幸福を壊しているのは、自分に悪いことをしたイヤな人々ではありません。他人は決して自分の幸福を壊すことはないんです。自分の幸福を壊しているのは自分自身なのです。
 人間は、皆、真理に目覚めていないのだから、目が見えない人と同じです。だからいろいろまちがったことをします。本人は自分の行動がわからないんですね。攻撃や意地悪をした人も、やりたくてやりたくてやったわけじゃないんです。ただわからなかったからなのです。

 親を恨んでいる人もいるでしょうが、別に親が子供をいじめたかったわけではないんですよ。本当にどうしようもなく、そのことをやってしまったのです。親を恨んでしまうと、ずっと永久的に自分が苦しむだけです。どのようなことでも、何かわけがあるのです。
 父親が再婚してまま母にいじめられた。とんでもない親だ、と。そういうふうに思うこともよくないんです。まあ子供の時はしょうがないですが、大人になってからは、「親もたいへんだったでしょう」と。「私は邪魔だったんだな」と。「しょうがない、許してあげます」と心を清らかにした方が、自分が楽でしょうに。
 他の道は全くない。相手をいじめること、相手に仕返しをすることでは、決して幸福は得られません。ずっと親を恨んで、憎んでも、それで誰かが幸せになるんですか。皆が苦しむだけです。

 人はやっぱり幸せになるべきなんですね。苦しんで悲しく生活するべきではないんです。幸せになる道は慈しみの道しかありません。敵を倒す道ではありません。だから、慈しみで物事を見る訓練をするのです。
 慈悲の気持ちが身についてくると、自分でわかります。自分がすごく幸せになってくるのです。何か自分がすごく得をしているような感じになるんですね。自分がすごく得をしていると、相手のことを許してあげること、理解してあげることは、なんのことなくできるようになります。

 過去のことを思い悩む人は不幸の訓練をしながら生きているようなものです。どうすれば不幸になるか、と。長い間不幸の訓練をしてきた人も、そのことを悩む必要もまたありません。まあ、そのうち心が軽くなるんだ、ということでね、気持ちを軽くして慈悲の瞑想をやってみた方がいいと思います。