あなたとの対話(Q&A)

株式投資はいけないこと?、痴がわからない

パティパダー2010年7月号(155)

・株式投資はいけないこと?
・痴がわからない

株式投資はいけないこと?
 私は今現在、これで良いのかと思う事があります。株や外貨といった投資で資産を増やす事が可能な現代社会。私も外貨為替(FX)といった投資で、資産を着実に増やしていっています。ところが、仏教では、「たいした仕事をしていないのに高収入を得るのは罪だ」という教えがあります。たしかに投資で資産を増やすという事は、決して朝から晩まで汗水たらして働くという事ではありません。何もしなくても収入が増える事もあります。「収入に見合った仕事をしなければいけない」その場合、私は罪を犯していることになるのでしょうか?

 仏教的には、株や外貨といった「投資」はいけない事になるのでしょうか?

 ただ、私としては、本業の仕事を誰よりも頑張っていますし、今の収入に見合った仕事は今の段階では十分にしていると思います。ご回答よろしくお願いします。

投資、株、なども収入を得るための立派な仕事です。お釈迦様の時代でも投資家がいました。金を商人に貸してあげて、利益の一部をいただく感じでした。それは否定されておりません。十分な仕事をして収入を得る、それほど働いてないのに高い収入を得る、という二つをどのように判断すればよいのでしょうか?
 
 しっかりした仕事で収入を得る場合は安全性は高いのです。運任せの収入ではないのです。自分の仕事に対して、雇われた側に報酬をあげる義務が生じています。もし払わなかったら法律的に裁くこともできます。
 
 後者の場合はこの安全性がなりたちません。外貨の値段が下がって自分が損をしても誰にも訴えることはできません。安全性はないので、「なんだか運任せ」のような収入資源になりますね。しかし、この仕事も「どんな人にもできる」仕事ではありません。資金、知識、判断能力なども必要です。ですから、普通の仕事と変わりはありません。
 
 仏教の立場から見れば、過去の善業(徳)が高い人は、少ない労働力で高収入を得ることが普通です。しかし、過去の業といっても、その効き目は徐々に減るものです。
 
 仏教徒がそのように恵まれた条件で生まれたならば、業が減って、大惨事にならないように注意して生活するのです。具体的に言えば、収入の一部を寄付などの行為で他人のために使用すること、傲慢にならないで、自我を制御して、謙虚で、贅沢三昧にも注意することです。それから、慈悲の実践を日常の生活習慣にするのです(徳が一つ減ると、三つぐらいの徳を補給して置くやり方です)。
 
 お釈迦様と出会ったあるバラモンが「労働しない釈尊、出家、行者達の生き方より、重労働して生計を立てている自分たちの生き方のほうが大果になるのだ」と言いました。お釈迦様は、「たくさん労働があるからといって、農業などの職業が断言的に優れている、労働が少ないから商売は劣っているとは言えません。農業はたくさん労働があっても、豊作になれば幸福になる、凶作になったら大損をする。商売もいい値段でものが売れれば幸福になる。売れなかったら損をする」と答えたのです。
 
 この答えの趣旨は、労働が要るか要らないかではなく、選んだ仕事を良い結果になるようにするべきだということです。今回の質問にもこのエピソードを適用できるでしょう。一貫して言えるのは、例え仕事だからといっても悪行為をしてはならない。罪を犯してはならない。生命の迷惑になってはならないというところです。

痴がわからない
 貪瞋痴の、貪と瞋はまだわかる気がするのですが、痴というのがよくわかりません。痴とは、どう考えればいいのでしょうか?

普通の人間の場合、痴は24時間あるので、分かりづらいことは確かです。 貪瞋痴の貪(欲)と瞋(怒り)は、日に何度か強烈に現れるので、その時、たまたま分かるのです。それに比べると痴(無知)は発見しにくい。むしろ強くなればなるほど、痴(無知)によって、煩悩を煩悩だと分かる能力が無くなるのです。ですから、痴(無知)が強くなると、欲や怒りにも気づけなくなってしまいます。 
 
 痴 (無知) が強くなる時は、生産性が皆無になります。欲や怒りには、それなりの生産性があるのです。動機は悪いですけれど、何かを生み出す場合もあるのですね。その点、痴はまったく非生産的です。ですから、「無知だけには気をつけなさい、無知は極悪である」と、釈尊が説かれています。
 
 痴 (無知) とは何でしょうか? それは瞬間たりとも止まらない現象をストップして固定化しようとする心のはたらきです。「無常」こそが真理ですから、現象を固定化するのは「あり得ない」「成り立たない」努力です。あり得ない・成り立たないことに挑戦して、人は自己破壊に陥るのです。
 
 仏教を学び、瞑想を実践して、痴 (無知) が薄まってくると、少しずつ、なるほどこれが無知だ、と自覚できるようになってくる場合もあります。はじめのうちはよく分からなくて当然なので、仏教を学び、冥想を実践することに専念してください。