あなたとの対話(Q&A)

「ありがとう」の分析・他

パティパダー2010年10月号(158)

・神様はいらっしゃるのですか? スマナサーラ長老の本に梵天、神々ということが書かれてありましたがどういう神仏ですか?

・人間界においては、親が子を育てるのは大変です。天界では子を育てる苦労はあまりない。ということは天界の親の恩よりも人間界の親の恩の方が大きいのでしょうか?

・人間の精子は、1度に1億~4億位の数が外に出るといわれています。これらは、ひとつひとつ動いています。心が宿っているのでしょうか?

・人間以外の欲界の生命も、全て言葉を使ってコミュニケーションしているのですか?

・「ありがとう」と感謝することは、慈悲喜捨の心の中で、どれに相当するのでしょうか?

・「慈悲」と「智慧」は、心の成長過程においてどのように関係し合っていくのですか?

・容姿の美しい人やお金持ち、あるいはさまざまな能力に秀でた人が他人から嫉妬される。そのことが、嫉妬を受けた人の罪になることもあるのでしょうか?

神様はいらっしゃるのですか? スマナサーラ長老の本に梵天、神々ということが書かれてありましたがどういう神仏ですか?

一神教で説く絶対的で全知全能の唯一の神は、存在しません。それは原始人の妄想の産物以外の何でもありません。エホバもアッラーも存在しません。
 
 仏教が語る梵天・神々などは、生命の次元の話なのです。人間だけが生命ではありません。仏教は宇宙の他のところにも生命が住んでいると、堂々と語っているのです。(まだ科学的には証明されていませんが。)仏教が語る梵天・神々が実在するとしても、ここで人間界に住んでいる私たちには関係ないのです。人間よりは「お偉い」存在なので、どこかの人の個人的な人生に指をつっこむほどの品のない存在ではありません。お釈迦さまは、人間に善い行いをしなさい、と言うために、神々の話も用いるのです。
 
「八百万の神々」という、日本の思考もあります。それは民間信仰なのです。昔の人々がよく調べて発見して、人口動態調査をした上で言ったものではありません。科学知識はなかったので、自分に理解出来ない様々な現象を神々にこじつけて、精神的に落ち着こうとしたのです。現在の日本人が、それを信仰するか否定するかは自由です。もし八百万の神々が実在したとしても、何もしてくれないので、心配する必要はありません。

人間界においては、親が子を育てるのは大変です。天界では子を育てる苦労はあまりない。ということは天界の親の恩よりも人間界の親の恩の方が大きいのでしょうか?

子育ては大変なことではありません。子育てが大変なことだと勘違いしているのは、妄想ばかりしている人間の頭が悪いからです。ブッダが注意なさっているのは、子育てにより、子に対して強烈な愛着が生まれることです。これは「解脱」という目的を考えると厚い壁になります。天界では妊娠して子供を産むことはないと聞いています。皆、成人として化生するのです。従って、親の恩の問題は人間界に限られます。しかし、過去生で親子、夫婦、家族だった人々は、天界に生まれた場合も、餓鬼道に陥った場合も、そこで出会ったら再び愛着が生まれて、一緒に生活するという話はあります。

人間の精子は、1度に1億~4億位の数が外に出るといわれています。これらは、ひとつひとつ動いています。心が宿っているのでしょうか?

これは、私に分かる質問ではありません。人間というのは「精子・卵子の融合」として定義されているから、精子にも卵子にもこころがないと推測したほうが善いと思います。お釈迦様の説明では、両親の融合とgandhabbaがそこにいることで人間の誕生が起こるのだとあります。ここで、gandhabbaというのは、別なところで死を得た生命(こころ)がその瞬間で立ち会っていることです。
 
 Gandhabbaが親を選ぶのであって、親には好きな性格の子を選ぶことは不可能です。
 
 ということは、精子と卵子が融合しても、他の生命のこころが宿ってくれないと、人間にとして成長しない、人間ではない、ということになります。お釈迦さまのこの言葉を解説する注釈書は、母と父の融合とgandhabbaが立ち会っていることが同じ瞬間で起こらなくてはいけないというニュアンスで説明します。しかし、私の主観で妄想すると、必ずしも精子と卵子が融合する瞬間でなくても、構わないと思います。融合してある程度分裂し始めた細胞のなかに、こころが入り込めばいいのです。お釈迦さまも母と父の融合とgandhabbaが待ち合わせするという三つの条件が必要だと説かれていますが、それが同じ瞬間で起こる必要があるとは説かれていないのです。

人間以外の欲界の生命も、全て言葉を使ってコミュニケーションしているのですか?

人間にしても、言葉を使わないでコミュニケーションできます。言葉と概念は人間が作るものだと思います。人間にとっては、言葉はコミュニケーションに欠かせない道具なのです。言葉はある程度コミュニケーションの役に立ちますが、誤解されることも、まったく理解されないこともあるのです。
 
 言葉は客観的で普遍性のある道具です。誰にでも使えます。しかし、言葉の意味はほとんど主観的です。「花」と言えば、それぞれの人が自分勝手な何かを想像するでしょう。言葉が似ているからと言って、皆こころの中で同じイメージを作らないのです。ですから、人が思ったことを言葉を通じて他人に言う。聞いている人は、その言葉に合わせた自分のこころの中にあるイメージをかき回してみるのです。それが理解したことだと思っているのです。しかし、語った人が伝えたかった意味が、そのまま相手に通じたことにはならないと思います。例えて言えば、手袋をはめて何かを触って、「柔らかい」と感じるようなものです。感じたのは手袋の感触だけです。手袋を外して触ってみれば、どの程度の柔らかいものかと、より鮮明に分かるはずです。
 
 言葉は欠かせない道具なので、使うのです。しかし、正しくコミュニケーションが取れるのだと思わない方がよいのです。言葉に必要以上に執着すると、たいへんなトラブルが起こるのです。

「ありがとう」と感謝することは、慈悲喜捨の心の中で、どれに相当するのでしょうか?

慈悲喜捨とは他人に対する自分のアプローチです。自分から放つ波動です。他人から受けた恩恵に対する「お返し」ではありません。「お返し」気分の慈悲は未熟なものです。
 
 自分と何の関係もない生命に対して実践出来ない・しないことにもなるし、自分に関係がある生命は数が決まっていて、それほど大きくありません。従って「無量」とほど遠いのです。
 
「ありがとう」とは自分が他人から受けた恩恵に対する「お返し」です。野蛮人でない限りだれでも行う行為です。動物であっても、餌をあげて面倒を見ると、自分たちのやり方で、相手に感謝をするものです。これが、偉大なる釈尊が明らかにした、大事な修行法だと言えるでしょうか? 仏道は全て、釈尊の発見なのです。本能としてだれでも行っていることは修行にならないのだと思います。
 
 しかし、何故一部の人間にありがとうと感謝する習慣が難しいでしょうか? 何故それを、嫌々ながら学ばなくてはいけなくなっているのでしょうか? それは、動物よりも人間の場合は「自我意識、エゴ、わがまま」が強烈だからではないでしょうか。何故人間が落第したのかというと、人間は考えるからです。考えるとは妄想することになるのです。妄想という悪行為をしているからです。
 
 ですから、基本的に「ありがとう」は慈悲喜捨のどちらにも入らないのです。
 
 しかし、悪行為でもないのです。「ありがとう」と言う人は、その時、相手に対してどのような感情を持っているのかという基準で判断しなくてはいけないのです。もし、相手に対する気持ちが慈悲喜捨の一つに合うならば、それで判断出来ます。
 
 ありがとうと言うとき、相手が仲間、友人、親しい人だと感じたならば慈です。
 
 大変苦労しただろう、私の要求に応じるために無理をしただろうという気分のありがとうなら、悲です。
 
 相手が喜んでなにかをしてくれたのです。自分も恩恵を受けて喜んでいる。二人に喜びを合体させる気持ちでありがとうと言う場合は喜です。
 
「ありがとう」は捨にもなるはずです。しかし、具体的な場面を考えられないので、現実的には起こらないでしょう。
 
 聖者達、出家が布施を受けるとき、慈悲喜捨の気持ちの一つを持たなくてはならないのです。しかし、釈尊も出家も「ありがとう」と言わないのです。その代わりに、「幸福でありますように」と祝福するので、悲になります。
 
 次に、「ありがとう」が慈悲喜捨のどちらにも入らないケースを考えましょう。

 より仲良くする気持ちを込めた「ありがとう」、感謝して恩恵をチャラにしたくなる気持ちの「ありがとう」、将来的にもさらにお世話になりたいという気持ちが絡んだ「ありがとう」、ちゃんと礼儀正しくありがとうと言わなくてはマズイことになるかもしれませんという気持ちの「ありがとう」などは、貪瞋痴の行為です。慈悲喜捨と何の縁もない、不善心が起きているのです。
 
 ですから、「ありがとう」は慈悲喜捨になったり、又、不善心になったりもする行為です。

「慈悲」と「智慧」は、心の成長過程においてどのように関係し合っていくのですか?

山手線の内回り、外回りのようなものでしょう。どちらからでも東京に行けます。
 
 智慧の実践からも、慈悲の実践からも自我を破り解脱に達するという目的に近づけるのです。
 
 例を出して説明します。人が博多に行きたいと思います。新幹線のこだまにのります。何回も乗り換えなくてはいけない。乗り換えが間違ってしまうこともありえます。連絡状況がわるくて、「今日のうちには行けません」ということにもなります。慈悲だけ実践するとこのような成長です。慈悲を実践したが智慧が開発するまでは進まなかった、慈悲の実践だけで寿命が尽きて解脱に達する冥想をできなかった、などが起こりえるのです。
 
 もう一人の人は、博多行きののぞみにのります。安心して、確実に、早く、博多に着きます。智慧の冥想をすることはこのようなものです。

容姿の美しい人やお金持ち、あるいはさまざまな能力に秀でた人が他人から嫉妬される。そのことが、嫉妬を受けた人の罪になることもあるのでしょうか?

嫉妬することは、嫉妬する人の悪行為であって、嫉妬の対象になった人には関係がないのです。罪にならないのです。気にしなければよいのです。しかし、嫉妬する側が、様々な迷惑をかけたり、邪魔をしたりすると、嫉妬の対象になった人も苦労します。それは、その人の過去の悪行為の結果でしょう。それは結果であって、行為・業ではありません。ですから、罪になりません。
 
 嫉妬される側の態度が悪くて、他人を軽視したりしたことで嫉妬されるようになったならば、(自分が意図的に嫉妬される行為をするならば)嫉妬される側も悪行為をしていることになります。罪になります。