あなたとの対話(Q&A)

妄想と創作活動/暴言を吐く病院スタッフ/自立できない子供への対処

パティパダー2011年7月号(167)

こんにちは。私はとある女子高校生です。スマナサーラ長老の著書をいくつか読ませていただきました。瞑想もはじめてみたところです。そこで質問ですが、テーラワーダ仏教でいう妄想とは「思い出」や「何かを思い出す」ということも妄想にはいるのでしょうか?
 それから、これは自分自身のことではないのですが、小説家や作詞家たちはテーラワーダ仏教でいう妄想をしているということになるのでしょうか? もしテーラワーダ仏教を実践している方は、小説家や作詞家になれないということでしょうか?

お返事いたします。

一、冥想するときは、いかなる思考も「妄想」だとするのです。「現実的である『今の瞬間』には関係がないので妄想」という定義です。

二、冥想をしない日常生活では、現実的で役に立つ思考、また、理論的で結論が出るはずの思考以外、感情的で、落ち込みを引き寄せる、結論のない、何の結果ももたらさない思考を控える、止めるのです。

三、小説家などは妄想を商売にしています。彼らは、妄想を駆使することで現実的に生計を立てています。ですから、その人々は、一般人と同じくなんでもかんでも妄想して、感情に陥って、落ち込んでしまえば、仕事になりません。彼らは、様々な訓練を経た上で、制御された妄想をしているのです。彼らには、その気になれば、妄想を止めることができます。一般人には止めたくても止められないのです。これが違いです。
 
 妄想して作った作品であっても、人の役に立つならば、良い人間になることを応援してくれるならば、仏教的にも「良い仕事をしている」と言えます。しかし、悪感情をかき立てて、人間を自分の作品に依存させて金儲けだけ考える、犯罪、殺し、暴行などを美化する作品は悪行為です。彼らは、妄想する時も、作品を作るときも悪行為をしているのです。罪を犯して金儲けすることと変わりはないのです。

四、思い出は感情的ですから注意するのです。他人に助けられたこと、他人を助けたこと、お世話になったことなどの思い出は感謝の気持ちに、慈しみに繋がるのでOKです。失恋や、振られたことや、虐められたことや、また、その他の暗い思い出はこころを汚すので戒めます。止めます。
 
 試験で勉強したことは思い出さなくてはならないでしょう。学んだことは忘れてはならないでしょう。自分の役に立つ知識、考えなど、自分と他人の役に立つ過去の経験などを必要な時、思い出さなくてはならないのです。人はこのために記憶する訓練までするのです。これは仏教でも推薦しています。それでも、冥想中は止めるのです。

私は肩から下が麻痺していて寝たきりで入院しております。私の他にはお年寄りの方ばかりで認知症の人がいっぱい入院しております。職員の方々には良くして頂き感謝しております。しかし一部の職員ですが、お年寄りをからかったり、ばかにしたり、と心無い事を言う人がおります。そのような場面(主に人の少ない夜勤帯)に出くわすとこらえきれず人間として怒りがこみあげてきます。私も介護してもらっている立場として何もいえず何もできません。気にせずいるのにも罪を感じます。このような職員とはどのように接すればよいか良い考え方があれば教えてください。

このような行為は、「私は元気だ、病気にならないのだ、歳を摂らないのだ、私は大丈夫だ、この人々(年寄り)は邪魔な存在だ」などの傲慢な、極限に無知な感情、思考に覆われているから起こるのです。大変な罪を犯していることです。
 
 仏教では、不幸に陥った、病気で倒れていて立ち直れる見込みもない方々や、亡くなっている方々などを見ると、まずこのように考えます。

「これは生命の本来の姿なのだ。私も同じだ。私も似ている状態、または、より酷い状態に陥る可能性は、そうならない可能性よりもはるかに高いのだ。私も必ず、老いて死ぬのだ」と念じて、こころの傲慢をなくすのです。それから、自分自身にお世話するような気持ちで相手のお世話をするのです。病弱の人々の面倒をみることができて、自分は恵まれているのだと思うのです。
 
 というわけで、病弱の人々に残酷な態度をとる方々に対して、憐れみをもってアドバイスをしなくてはならないのです。なぜ憐れみを持つのかというと、お年寄りよりもお世話する人々の方が病気だからです。その人々の将来は大変暗いからです。話す時には、順番があります。

一、褒める。二、自分の意見として説明する。三、態度を変えること、見直すことは相手の自由に、判断に任す(いわゆる命令はしないことです)。

詳しく説明します。
一、心無い言動をしているスタッフに、「私は大変お世話になっています。こころから感謝しています。あなた方の苦労は痛いほど分かります。あなたの笑顔、真剣な顔をみると尊敬せざるを得なくなります」などなどの言葉をかけるのです。適切に、相手の性格に合わせて、言葉を調整するのです。また、具体的に相手の何か善いところを見いだすのです。

二、意見を述べる場合は、「私が読んだ仏教の本に、このようなことが書いてありました。年寄り、病弱の人、死人を見たら、『これは生きている誰にでも訪れることだ。このような状態に陥らないで済むように免除されている人は誰も免いないのだ。この姿は私自身の確実な未来なのだから、この苦しい姿は、私に謙虚な人間になれと戒めてくれているのだ』と念じなさい」と。私は、この話は現実的で本当のことだと思います。この仏教の考えを知ったその日から、不幸になっている人を見るたびに、ニュースで悲しいできごとを見るたび、聴くたびに、「私もそうなるかもしれません。優しいこころを育てなくてはならない、と自分を戒めることにしたのです。上手く行っていませんけどね」と話してみるのです

三、沈黙するのです。まずは、一や二のように努力して欲しいのです。良い結果になればありがたいのですが、他人のこころは信頼できないものです。良い結果にならなかったら、ご自分の病院生活を充実させることにしてください。身体が病気で倒れてもこころを育てるチャンスは失ったわけではありません。また、死ぬ時は肉体を持って行くのではありません。持って行くのは自分の「こころ」ですから、こころを育てて清らかにすれば、病気は「鬼に化けた天使」のように感じます。『慈悲の冥想』を行なって下さい。仏教の真理を学んでください。他人から参考にされるような、模範的な人間になることに挑戦して下さい。

十代の息子のことで困っています。彼は、現在資格の取得を目指して専門学校に通っています。甘やかされて育ったせいか、親や身内の言うことを全くきかず、気にいらないとすぐ逆ぎれして暴力をふるいます。今一人暮らしをしていますが、寝ていて学校を休んでしまうことが多く、親元から通うように言ってもなかなか言うことをきかず、どう接したらよいか悩んでいます。小中学校時代に非行少年の仲間に入っていて二、三日帰宅しないこともよくありました。そのころから夜更かしの習慣がついてしまい、仲間と縁が切れた今も、夜の眠りが浅く昼間熟睡するという悪循環が続いていて、朝起きられないし、寝ていて午後からの授業も欠席してしまう状態です。一時期バイトも頑張ってやっていましたが、寝ていて約束の勤務時間に出勤できず、無断欠勤が続き、結局バイトも続けられない状態です。アドバイスお願いします。

メールをいただいたような相談は、決して珍しいことではありません。このようなケースは日本では(もしかすると)あり過ぎなのです。
 
 どんな子供にも反抗期というものはありますので、それは、何とかなります。後には、親に感謝するような人間になります。
 
 しかし、日本の親は子供とは自分の所有物、生き甲斐、バッジだと思って育てているようです。何でも、我が儘を聞いてあげて、叱ることもしないで、自分を嫌われないように頑張っています。親にとっては楽しいことでしょうね。
 
 しかし、親は大罪を犯していることに気づきません。このような育て方は犬猫のようなペットの育て方と変わりありません。ただ、言葉を喋るペットですね。しかし、ペットと違って、この連中は大きくなります。飼い主より強くなります。飼い主より長生きします。独立しようとします。問題です。これは人間の、人間としての人権を侮辱することです。人権侵害です。大変な罪です。親の仕事は、子供を育てて、躾をして、独立した人間として社会に送ることです。それが、自分を一人前の社会人にしてくれた(親も含む)社会に対する恩返しでもあります。預かった命を自分の所有物にすることは犯罪ではないでしょうか? 肉体的に人を所有物にすることは出来ません。しかし、感情的には「私のものです」。ですから、子育てで、厳しく精神的に悩む羽目になります。
 
この質問の筋はこちらにあります。
 ペットが大きくなりました。強くなりました。自分の気持ち通りではなく、勝手に行動することになりました。しかし、ペットは可愛い。いないと寂しい。昔と同じように生きていて欲しいという願望があります。
 
 では、ペットとして熊とか虎とか、ライオンとか大きくなる動物を赤ちゃんの頃から哺乳瓶で育てたとしましょう。上手くいきますよ。すごく可愛いのです。じゃれたり遊んだりもします。しかし、大きくなりますね。強くなりますね。向こうは牙を出して遊んできても人間は危ないのです。相手をすることは出来ないのです。それで、そのペットの大型動物も自分のことを嫌っていると思って、腹が立ちます。攻撃したくなります。又は、独立したくなります。自分のいる場所を探したくなります。
 
 大型動物は飼い主を攻撃するより独立の道を選んで逃げることがよいやり方です。しかし、赤ちゃんから可愛がって育てられた大型動物には自然界で生活できません。獲物を捕れません。誰かが、食べやすいように捌いた肉を上げないとだめなのです。ですから、又、人間界に入って食べ物を奪おうとするから、大変な問題になります。捕獲されるか、抹消されるかですね。
 
 あなたのお子様も自分一人で、何も出来ません。自己管理できません。社会人として責任感はありません。自分自身で、これから一人で生活するために必要な技を磨かなくてはならないと知りません。親にとって危険な存在になるか、何時まででも親のすねをかじる人間になるか、……です。
 
では、どういたしましょう。
 まず、自分の育て方が悪かったと思う必要はありません。自分は自分なりに頑張りました。こどもに、「お母さんの育て方が悪かった、ごめんね」と謝ることは断言禁止です。
 
子供に、このように言うのです。
「親は、親の責任を出来る範囲で果たしました。あなたは、大きくなって独立したいと思っているところです。独立は考えているかいないかは分かりませんが、親から離れたいということは確かです。これは、とても良いことで、自然の流れです。ですから、これから、微塵も親に頼ることをしないで、自分の責任を自分で担って、自分のことを自分で管理して生きてみなさい。色々失敗すること、上手く行かないことがあるかもしれませんが、それはだれにだってあることです。皆、頑張って乗り越えます。では、さよなら。たまに、電話して下さい。電話連絡すらなくても、親は文句を言いません。」
 
 このように言ってあげて、縁を切ってください。独立させてあげて下さい。首に鎖を付けて引っ張らないで下さい。何の能力もなく、大きくなったあなたのお子さんは可哀想でたまりません。親が縁を切ったと、それも自分のことを心配して、自分を愛するゆえの決断だと知った子供は、間違いながらも頑張るでしょう。私もそう願っています。
 
 時期を見て独立させることが子を愛する親の義務です。それこそ親切な行為です。