あなたとの対話(Q&A)

慈悲の瞑想とヴィパッサナーの道筋

先月は、慈悲喜捨の瞑想についてお聞きしていましたが、一番むずかしいとおっしゃっていた「捨」の瞑想について、もう少し教えていただけますでしょうか。

「捨」の瞑想実践方法についてはどの注釈書にも明確に説明されておりません。しかし、それを知りたいという興味がおありのようなので、少し説明いたします。

英語を話す人はよく cool という言葉をつかいますね。日本でも若者達はクールと言っているのは聞こえます。「捨」のこころもなんとなくこのクールと言える状態に似ているかもしれませんね。
解かりやすく言えば感情の波が立たないこころなのです。しかし、鈍感で、何も興味がない、気にしない、無関心、閉鎖的で自分の世界にだけ閉じ込まれていると言える状態とは全く違います。これは、智慧、理解能力から現れる「冷静心」だと理解しておきましょう。

色々例えを使って説明いたします。普段は、我々は、生きている上で様々な情報に触れますね。その情報によって嫌な気持ちになったり、悲しくなっ たり、腹が立ったり、楽しくなったり、混乱したり、舞い上がったり、落ち込んだりしますね。これは感情の波というものです。

「情報」と言うものも二つに分けましょう。

1.食べたご飯が不味かったり、薄着で出かけたのにとても寒かったり、体調が悪くなったり、落第すると思っていたのに試験を合格したり、期待していなかったのに懸賞品が当たったりするなどの心に入る情報です。それらによってこころに感情の波が立ちます。
2.人々と他の生命の事です。色々人々と生命と接するときも相手次第で様々な感情が表れます。
「慈悲喜捨」冥想の対象はこの二番目です。

★全てのものごとについて「冷静」になる。これはvipassanā瞑想の過程で通過する一つの段階です。
★全ての生命に対して「冷静な」態度を取る。これは慈悲の瞑想の四番目の「捨」の瞑想です。
Vipassanāの「捨」に二番目の「捨」も入っています。ですからこの二つの差は微妙ですね。しかし、「慈悲」の場合は生命(生きとし生けるもの)との関係のありかたですからvipassanāと別に実践する必要はあります。

「慈悲喜捨」の瞑想の「捨」の実践は理解能力、智慧に基づかなくてはならないのです。
我々は新聞、冊子、テレビ、ラジオなどから情報を得ると「あーたいへんだ」、「 あーいやだ」、「どうなっているんだ」、「もう日本は駄目だ」、「面白かった」などいろいろな感情が生まれてきます。
我々の心は、結局、外の世界から入る情報によって操られているのです。人が面白いことを聞けばゲラゲラ笑い、面白くないことを聞けばすぐ機嫌が悪くなる。これは普通の生き方ですね。情報の提供者が我々にどのような感情を引き起こせば良いかと決めるのです。

例えばだれかが収賄で問題になった知ります。瞬時に腹が立つ。「なんという悪人か、裏切り者か」と思ってしまうのです。このように決まり切っている感情を引き起こすのではなく、多側面で観察するのです。収賄を犯した人にも何か言い分があるはずです。もしかすると周りからやらされたかもしれません。「あるいは自分さえ良ければ」という気持ちで犯したかもしれません。前者の場合は一人でよい人間になろうと努力しても周りの影響で振り回されることもあるということが解ります。後者の場合は、自分のことしか考えられない弱みと、その結果自分に対して良かれと思ったことは逆効果になることも解ります。それで、その人は「悪人だ」とも「悪い人ではない」とも決め付けることせず、「冷静に」自分の気持ちを保つのです。極端な例かもしれませんが、例えば麻原さんという人の場合も「極端な悪人」と決め付けるのではなく「何故罪を犯す羽目になったのか」と理解すれば良いのです。このように、人々のことをまた生命のことを見守る気持ちで観るのは「捨」なのです。智慧がない人に、感情が激しい人には難しいでしょう。しかし、この世で人間関係で何か問題が起きたら、再び同じ問題を起こさないようにどうすればよいのかと言える人は「捨」の実践者です。この世で、何かの対立が生まれたら、中間役をして和平交渉できるのは誰の立場もとらないがどちらの立場も理解している「捨」の人です。

「捨」は結構むずかしいですし、智慧も必要なのです。慈悲の瞑想の場合はそれほど智慧を必要としません。

自分が慈悲喜捨のうち、どの瞑想をするかなんですが、簡単なものから順にやっていくということでよいのでしょうか。

簡単というより、自分の性格に合うことから始めてください。
この四つの感情の中で自分がピッタリ理解しやすい、感じやすいところから始めればよいと思います。例えば、行動派の人ならやはり実際に行動することに気持ちがいきますね。「悲」の実践はやりやすいと思います。その 場合、行動派の人なら人々の苦しみがなくなって欲しいと心で念じるだけでは気がすまないと思います。どんどんボランティアに手を出したりします。それはその人の性格に合うのです。ボランティアもみんなに合うわけではありません。性格に全然合わない人がボランティアをやっても、逆に社会の迷惑になる恐れもあります。「悲」の実践に向きな人にとっては地震地、戦争場、などどのようなところでも元気で明るく活動できます。

「持ちつ持たれつ」 とでもいえるような人間関係を好きな人に慈(友情)の実践は良いかもしれません。全てを明確に説明するのはここでできませんが、自分のこころで、慈悲喜捨の四つで何がわかりやすいかと簡単に理解できると思います。それを実践するのです。四つもやる必要はないのです。

先月号の巻頭法話を読んでの質問です。慈悲の瞑想は「祈り」だと思っていたのですが、この「祈り」を「宗教」にするために心がけることは何でしょうか?

私が「祈り」というのは、超自然的な宗教対象に心で語りかけることだと思うのです。
慈悲の瞑想は自分の心に語りかけることです。自分に語ることも祈りだと解釈するならば、それはそれで構いません。自分の心に慈しみの言葉を語り続けることによって、自我中心に生まれてくるあらゆる汚れが消えて、完全でスムーズな人間関係が生まれてきます。自分の心に語るという意味で、慈悲の瞑想を続けてください。
「祈り」を「宗教」にするという意見にはあまり賛成できません

心と身体の動きをサティすることによって、涅槃、寂静に解脱できるまでの道筋をやさしい言葉で具体的に教えてください。

やさしい言葉で説明するのはむずかしいのです。サティの実践のやり方さえ間違わなければ、解脱まで自然に進みます。
ヴィパッサナーでは「解脱した」と誤解することはほとんど不可能です。自分をだまさず、自分の心に正直に実践を続ければ、常に自分の修行はまだ足りないという不満感があるはずです。この不満感は、修行者の道を正す大事な安全装置です。

質問を聞くと、この方は、サティの実践方法が本当に有効かどうかと納得していない気持ちも伝わります。「早く結果を出したい」と焦ると「疑」が出てきて障りになります。まず必要なのは、半信半疑でもいいですからサティの実践をして、日常生活において効果があるかないかを確かめることです。効果がある修行法だと納得がいったなら、悪いことではないのだからとことん続けるぞと強く決心することです。その後は「まだ修行が足りない」という不満感が解脱を得るまで修行者を押し続けるのです。解脱を体験した人は、「終わった」という「ほっ」とした瞬間を味わいます。

仏教用語を用いてプロセスを書くならば、まず、身体(色)と心(名)の働きを明確に区別して体験します。次に名色が、生滅変化して流れるものであることが見えてきます。 観察能力の鋭い人には、名色の流れの因果関係も理解できます。それが見えてくると「疑いが晴れる」ということが起こります。その意味は、人間は知識中心に生きている。自分に対し、存在に対し、また解脱に対しても様々な概念が頭に詰まっています。名色の流れを見た人は、それらが単なる妄想であって解脱の道ではないとしっかりと体験するのです。

さらに修行を続けると、一切の存在は名色の流れのみであってその名色が、無常、苦、無我であることを(理解するのでなく)体験します。しかし、無常、苦、無我のどれかひとつしか体験しません。言葉は3つですが意味は一つです。次に存在(生きること)に対して嫌悪感のような感じが強烈に生まれます。それは高い知識の体験であり、普通の意味での嫌悪感だと理解してはいけません。これを仏教では「厭離(おんり)」といいます。初めて解脱したい、他の道はないという気持ちが生まれるのはそのときです。そのときはヴィパッサナー実践さえもいやになるような気がします。その気持ちにもめげず修行を進めれば、間もないうちに名色の寂滅という体験に出会います。それが最初の悟りです。

しかしそれで終わりではありません。まだ心に煩悩が残っていることがわかります。修行さえ続ければ、以上のような同じプロセスが三回起こります。 完全な解脱は四段階の悟りで成り立ちます。一段階目を悟った人はいくら怠けても確実に解脱を完成しますので、修行者は一段階目の預流果という悟りを目指して励みます。詳しくは「ミャンマーの瞑想法」という本を、またもっと専門的に瞑想プロセスを知りたければ、「清浄道論(ヴィスッディマッガ)」でヴィパッサナーの智慧を解説した18章から22章までを読んでください。

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