あなたとの対話(Q&A)

瞑想中の疑問

2018年9月25日

瞑想のことでお聞きしたいのですが、腹式呼吸をしていて、膨らみ、縮みに意識を向けてみたら、苦・楽がこの中にもあると感じました。それすらも感じないところまで自分の感覚を高めていかなくてはならないのでしょうか。そう思ったら苦しみが生まれてしまいました。この苦しみは痴なのでしょうか。

膨らみ、縮みに意識を向けるということは、からだに起こる感覚をそのまま確認するということです。それを続けると発見できることは、そこに苦・楽があることです。見たり聞いたり、味わったり考えたりするときも、生まれる感覚にあるのは、苦・楽です。厳密に言えば、苦・楽・不苦不楽の3つになります。その3つの感覚が、瞬間瞬間、変化しながら消えていきます。生きることは苦しみだと落ち込んでも、楽だと舞い上がっても、つまらないと退屈になっても、それぞれの感覚は瞬間瞬間に変化するので、結論を出すこと、また、決めつけることはできません。苦も楽も、一瞬だけだと理解して、心を落ち着けることができれば、大変よいと思います。

ご質問の方は、ありのままの観察をやめて、苦楽すらも感じない自分をつくりたいと希望して、がんばったようですね。それは強い執着だと思います。苦も楽も感じない高いレベルの感覚があったとしても、それもまたひとつの感覚ですから、それ自身も瞬間瞬間変化していくのです。

高いレベルを目指すことが、執着なのでしょうか。そのあたりをもう少し詳しく聞かせていただけますでしょうか。

こうなりたい、ああなりたいと思って行動することは、執着の心に基づいています。ですので結果として、苦しみが生まれてきます。目指すところはたとえ高くても、執着は執着です。ですから感じるままを、ただ確認するのみ、というモットーでヴィパッサナーを続けられたらよいと思います。

先生の本の中で、楽しくサティしてくださいというくだりがありましたが、おちゃらけてサティしていいのでしょうか。おちゃらけていい加減にやると失敗するような気もするし、反対にサティに一生懸命になって、そればかりになったら煮詰まりそうな気がしてならないのですが。

おちゃらけてやって、成功するものが、この世の中に何かありますか? 机にぞうきんをかけるような簡単で単純なことにしても、おちゃらけで、いい加減でいいと思われますか? 楽にしてくださいという意味は、神経質に、ヒステリーに、がみがみ、ぴりぴり、びくびくしながらやる性格ではいけないということです。このような調子で何をやっても、成功しないでしょう。またたとえ成功しても、まったく楽しくないでしょう。(成功しないとは思いますが…)ものごとは、我々が思うほど複雑ではありません。やりにくいものでもありません。この世の中で、やりにくいとか、乗り越えられないといえるものは、ひとつもないと思った方がよいと、私は考えます。

人間はものごとを大げさに考えすぎるのです。ものごとの過程と時間の流れという大事なことを無視します。たとえば、ある子供が医者になりたいと思ったとしましょう。思った同じ瞬間に、勉強のことや試験のこと、いろいろなことを考えてしまって、なれっこないんだ、むずかしいんだ、自分には無理だと思って、やる気がなくなります。でも、「医者になる」という目的には過程があるのです。また、それにかかる時間というものもあるのです。その子供は、今何をするべきかと、ただそれだけを考えて実行すれば、いとも簡単に、楽に、医者になってしまうのです。なぜなら、「今やるべきこと」はとても簡単で、楽に実行できることだからです。まだ大学にも入っていないのに、医者の国家資格をとることを考えると、自分には無理だと思えて、恐ろしくてたまらないでしょう。それは時間の流れとものごとの経過を無視するとき、起こる現象です。

この世の中で、ストレスがたまった、神経質になった、仕事がしにくい、胃潰瘍になった…などと訴える人々の多くは、ものごとの経過と時間の流れを無視して、キリキリ仕事しようと、とにかく良い結果を出そうと、よく思われ認めてもらおうとばかり考えていることがそれらの原因なのです。

人間はなぜ目的を実現できないのかということを考えたうえで私は、「サティは楽に実践してください」としばしば言います。でも、「楽」という字だけにひっかかったら困るのです。リラックスして、瞬間瞬間の行動の、瞬間的な成功も楽しみながらやりつづけましょう、という意味です。楽にやりましょうという言葉は、ヴィパッサナーに限るものではなく、人生のすべてのことに応用すべき、成功の秘訣だと思います。

食事を一々にラベリングしながら食べてみました。すると、美味しいとか、まずいとか、感じている自分がいました。そして「これはお腹がすいているから美味しいと感じている」とか「これは以前食べたものと比べてまずいと思っている」と分析もしてみました。こんな調子でいいのでしょうか。

その調子で、そう悪くはないと思います。でも、いろいろなものと比較していくと、どんどん現実ばなれしてくる恐れがあります。頭の妄想だけが独立して回転するようになります。その瞬間瞬間に思い浮かぶことだけに、思考の流れを止めた方がよいと思います。

たとえば食べ物をまずいと感じたとします。それだけで止まれば大変よいのですが、もし、以前食べた「あれ」と比べてまずいと思ってしまったなあと、思い浮かんだならば、それも「考えた」と確認すればよいのです。いろいろ比較して結論を出そうと急がない方がよいのです。世の中のいろいろな問題についても、ひとつの立場で見るときだけは結論が出るのです。問題を、あらゆる立場で見られるようになると、簡単に決めつけることはむずかしいと、おわかりになると思います。あらゆる立場で見られるようになるということは、あいまいな人間になるということではなく、ものごとを深く、幅広く見る人間になるということです。これは正しい、これは間違っているなど、単純に考える人々には、ものごとは正しく見えていません。そのような人々は、自分の意見にとらわれ他人にそれを押しつけたりし、自分だけではなく他人を不幸にしてしまいます。結論というのは、その人の意見にすぎないのです。ものごとについての正しい結論は「真理」であって、人によって変わるものではないのです。人々は、意見にとらわれ言い争いして苦しんでいる、智慧の人は、どんな意見にもとらわれないで心の平安を楽しむのだというのが、お釈迦さまの考え方です。

真理についてですが、お釈迦さまの説かれた「無常」を考えると、確かに世の中が変化し続けていることは納得しました。しかしそう考えると、真理も変化するのでは?

「一切は無常である」ということが真理なのであり、真理は、他に存在する別個のものではありません。

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