あなたとの対話(Q&A)

輪廻転生と修行/戒律の役割/アングリマーラ

輪廻転生と修行
お釈迦様は悟りを開かれて「不死」を得たと、ある本の中で読んだのですが、不死とはどういうことでしょうか。

お釈迦様が不死を得たというのは、輪廻転生を終わったということなんですね。だからもう二度と輪廻転生はしないということです。不死とは悟りのことでもあるのです。それがどういうことかというのは、やはり自分で体験するしかわかる方法はないのです。

人間が不死というとき考えるのは、自分に当てはめて、私たちは死ぬ、だけどお釈迦様は死なないと、自分の立場から考えてしまうので、わからなくなってしまうのです。不死の境地というのはいっさいの輪廻転生の働き、つまりエネルギーが変化して変化して続いていく働きがストップするということなんですね。

生きることに対する執着、とらわれが消えたとき、それまでとまったく違う心が生まれます。何にもとらわれない、自分のからだにも心にもとらわれない心の状態が生まれたとき、エネルギーの回転が止まってしまうのです。物理的に考えて、エネルギーは消えませんといつも言いますが、その状況でしか消えないということなのです。

不死と日本語で書かれていることもありますが、お釈迦様の言葉は「涅槃」、消えるという意味なのです。解脱を得たという意味で、亡くなった瞬間にすべてが消滅して、なくなってしまうのです。悟りを開かれたのは、もっとずっと前なのですが、生きている間はからだを持っていたのですから、やはり心はずっと回転していたということなんですね。ですからその間はそれなりの苦しみがありましたが、それも死んだ瞬間でおしまい。普通は死んでもエネルギーが消えることはなく、他の方向へ回転するわけですが、お釈迦様の場合は回転しませんでした。

悟った人の場合は、いわゆる希望は何もない。やり残したという感じはまったくない。渇愛はない。だから不思議な気持ちで死を迎えるんですね。普通の人たちが死ぬときは、子供たちはどうなるのかとか、自分のつくった会社はどうするのかとか、いろいろ心残りがあるんですね。或いは自分自身のことにしても、死んでしまったらどこへ行くのだろうかとか、心にさまざまな煩悩が残ってしまうんですね。するとそのエネルギーは回転していきます。悟った人にはそういうものは何もない。自分のからだについても、壊れるもので、もう捨てるのだと。心についても、勝手に変化していって止まるのだろうと。望むことは何もないという瞬間なのです。それを理解することは、自分が体験しなければわからないことなので、お釈迦様は解脱を得て、人生を全うしたのだという風に理解しておいてください。輪廻転生を経て、生命がたどり着くべき境地に至ったという意味で理解しておいていただければよいと思います。

戒律の役割
テーラワーダ協会の「怒るな」という本の中で、五戒のことが書かれていました。戒律というのは人生にとって、どのような役割を果たすものなのでしょう。

戒律というのは、我々が生き方を正していく段階においての、緊急処置なんですね。ちゃんとした治療ではないのです。人間の心というのはいろいろな罪を犯し、汚れて大変苦しんでいます。その汚れた心を抱えた人は、極論を言えばやっぱり悟って解脱しなければ、その苦しみから逃れることはできません。そしてその間にまた、罪を犯したり苦しんだりすると、解脱することもできなくなってしまうんですね。ですから緊急処置として、戒律で、我々が悪いことをしないように抑えておくのです。

ですから戒律では、それほど心の問題にアプローチしません。戒律を素直に守る人にとっては、それだけで人生が楽になるのです。仕事や日常生活が、うまくトラブルなく運ぶようになって、みんなに信頼される。自信がつく。暇もできる。それで、心を育てることに気持ちが向く。

でも、怒りをなくそうということは心の問題であって、戒律の問題ではありません。戒律を厳密に守っても、怒る人は怒るのです。するとそこで、本人が恥ずかしく感じてしまう。ここまで戒律を守っているのに、どうして私は怒ったり嫉妬したりするのかと。それで自分の心が育っていないのだとわかる。育てるためには瞑想しなくてはなりません。瞑想を重ねることで怒りはなくなります。でも、戒律ではなくならないのです。ただ、戒律の中に含まれてはいます。

たとえば「殺生戒」というものがあります。殺生戒というのは、私は殺生をしません、ということだけではなくて、一切の生命に対して慈しみを実践します、ということなのです。一切の生命も私の生命も平等に見て、同じだと考える。愛情を持って見る。そうすると殺生は不可能になるし、怒れなくなる。でも、怒りは消えたわけではないのです。怒りを消すためには、やっぱり修行するしかない。それは科学的な方法なのです。ですから戒律の中に、怒るなという戒律はないのです。お坊さんたちには何億もの戒律がありますが、怒るなとか嫉妬するなとかいう戒律はありません。それは「怒るな」といくらいっても、実践が不可能だからです。努力を重ね、智慧を発達させて、はじめて怒りはなくなるのです。

つまり、生きていく道筋で、罪を犯さないようにするために「戒律」がある。りっぱな人間を作る、心を育てるために「瞑想」がある。この2本柱が修行においては必要なのです。戒律は緊急処置で、瞑想は本物の治療という風に理解するとわかりやすいのです。

アングリマーラ
PAṬIPADĀ四月号の根本仏教講義にもでてきた殺人鬼アングリマーラのことですが、999人もの人を殺して、その罪の償いもせず、次の瞬間に悟るということがあるのでしょうか。

罪の償いをしなかったということはそれほど問題じゃないのです。私たちが1秒間に起す業の量は、何万回生まれ変わっても消えないほど多いのです。心のエネルギーというのはものすごいものです。ですからどんな人間も巨大な業を持っているのです。ちょっと数字で考えてみると、100 兆円くらいの借金があって、100年に1円くらい返す、しかし借金なので利息も付いていく、だから少しずつ返していくけれど、返す量より増える量の方が多いのです。そんな感じだと思っていただければいい。業が消えるのは、悟りによってなのです。それはあのアングリマーラ氏だけでなく、どんな人間でも同じことです。

ジャイナ経の戒律は仏教と似ていましたが、業については、過去の業は償って消しなさいという考えでした。ですから、からだの前後で火をたいたり、くぎを打った草履を履いて歩いたり、からだを痛めて罪を償おうとしますが、そんなことは無意味なんですね。業を消そうとすること自体も業なのです。人を殴った悪い業を消そうと、その人に謝ったり、お金をあげたりして、その業は消えたとしても、新しい業がたくさん生まれてくるのです。謝った業、お金をあげた業…ひとつの業が消えてもたくさん生まれてくる。だから無意味なのです。

人を一人殺したら、どのくらいの輪廻転生の苦しみを受ければ業が消えるかというのは、計算不可能だとお釈迦様はおっしゃいます。1人の人を殺したら何億回も殺される運命に出逢います。理由は、ひとつひとつの心の動きがひつひとつの業を作るからです。一人の人を殺すためにかかる時間、計画を立てる時間…それらすべてが悪のエネルギーとして積み重なっていく。ですから1人の人を殺すということは、想像を絶する悪行を積んでいるということなのです。逃げ道はない。償って消えるものではない。そしてそれは、善い行いの方も同じです。

アングリマーラにあった唯一の逃げ道は、修行し解脱することでした。とはいえ修行をもってしても、たとえ悟ったとしても、業は消えません。業の報いを受けるべき者が解脱して、輪廻転生を脱出するのです。たとえば殺人罪の裁判で、判決が出る前に被告人が死んでしまったらどうなるでしょう。犯罪行為に罰を与えたいのですが、相手がいません。