あなたとの対話(Q&A)

意欲と行動/能動と受動

意欲と行動
何か行動を起こすときは、何々をしたいと言う欲求があってこそ、その行動を起こすのではないでしょうか?「欲求はいけない,欲求は貪りだ」とするならば、人が起こすいかなる行動も、悪いことではないでしょうか?

仏教で「意欲」と日本語に翻訳されている言葉は、パーリ語ではチャンダ (chanda)ですが、 意欲というのが適当な訳語かどうかわかりません。それは何か行動を起こすこころの働きを現わしますが、善でもなく悪でもないのです。ただ、行動する、話す、考える、という「身、口、意」の行為の衝動をいうのです。意欲が強ければ強いほど行為は強く、効果的になります。意欲が弱くなるとそれに関わる行為が弱くなります。中途半端でいい加減になります。望む結果がでなくなります。良いことであれ、悪いことであれ、行為が抜群に効果的になるのは、意欲の強いときです。生きるということは、行動を起こしているということです。生命には「停止」の瞬間はありません。物質の世界も同じです。物質にも「停止」という瞬間はないのです。故に「行動」という概念は人間にはどうすることも出来ないことであって、行動を止めるということ自体も、もう一つの行動になってしまうのです。行動をしないことも行動です。要は行動を止めることではなく、良い行動を選ぶことです。それも大変素晴らしい結果が出るように「意欲」《チャンダ(chanda)》を強くすることです。

「怠け」の感情は意欲を壊してしまいます。ですから「怠け」は悪です。「精進」は意欲を強くします。ですから「精進」は善です。(八正道の一つです)貪欲、瞋恚、無知、傲慢、嫉妬、憎しみ、怠惰などの感情で支えられる「意欲」《チャンダ(chanda)》は悪です。強くなればなるほど、どんどん悪に陥ってしまいます。不貪、不瞋、不痴、慈、悲、喜、捨、などの感情は善です。「意欲」《チャンダ(chanda)》はそれらに支えられると善行為になります。この場合の「意欲」《チャンダ(chanda)》は強いほうが良いのです。世俗的な幸せも、来世の平安も、輪廻からの解脱も行為の結果ですので、またその行為は「意欲」《チャンダ(chanda)》から生まれるので、精進して、精進して「意欲」《チャンダ(chanda)》を強くしたほうが幸福です。

お釈迦様は怠け者に反対でした。夜遅くまで飲んだり、酒麻薬に溺れたり、娯楽、賭け事に時間を無駄に使ったりした人を強く批判しました。生きる喜びは行動にあり、活発性にあります。こころと体を活性化したほうが充実感を感じられます。無意味なことに精を出すのではなく、意味のあることに一生懸命になることは仏教的です。人生は他力本願ではありません。他力本願は、非論理的な怠けの教えです。超能力などに引かれて軽く成功したいと思うこともズルイ、インチキな思考です。(銀行強盗で金持ちになろうとすることと同じです。)

能動と受動
先日のお話の、受動的な観察のことですが、このごろ、「吸います」「吐きます」「待ちます」と、能動的にゆっくりやったところで、待ったままになり、苦しくなるというか、能動的に吸わなくてはならないような感じです。膨らむ間も、縮む間も、止まる時もスローモーションで、能動的に動かして動かして行かないと止まってしまって、苦しくなっては動かしているような感じがする時があります。また、何ともなく受動的な感じで実況する時もあります。

能動的観察と受動的観察を、明確に理解した方がいいと思います。生命の行動は、二種類です。能動的と受動的という二種類。仕事をする、歩く,食べる、考える、勉強する、お風呂に入るなど、一日中の殆どの行動は能動的です。ときに、人生のすべてはそのような能動的な行動で成り立っているはないかと思ってしまうこともあるでしょう。しかし、もしすべての行為が能動的であるならば、人は簡単に自分の行動を管理することができるでしょう。であるならば、「このようにしなさい」、「この生き方は正しいです」、「遊ぶよりは勉強したほうが楽しいです」など一言を言っただけで自己管理できて、この世の中に如何なる問題もないことになるでしょう。

★意識しないで行う行為は受動的です
やってはいけないと知っていても、やってしまう。悪いとわかっていても、止められない。もう癖になっているからしょうがない。それから一日中の妄想、空想、夢想の暴流もあります。また、怒りっぽい、欲張りなどの性格もあります。この受動的な行動の世界は、強引に変えようとしないと、脅さないと、騙さないと、変わらないものです。本人にとってはどうにもならないものです。

★西洋思想では無意識、潜在意識、集合無意識といっているのが、受動的行為です
一般的に「意識的行為」と「無意識的行為」として理解されているものは、我々が言う「能動」と「受動」の2つです。心の働きは西洋的に、二重、三重、多重構造で考えた方が理解しやすいのです。本来は、こころはズーッと繋がっているものですが、一般的に人は心の働きをひとかたまりに考えていますから、多重構造で考えた方が理解しやすいと思います。

★太いロープ
自分のこころを多重構造で編み込まれている太いロープのように考えてみましょう。そのロープは、明確に能動,受動と2つに分離できますが、もっと詳しく分離することが出来ます。例えば
1. 自分がしたいから行う行動。
2. 好きか嫌いかは関係なく、やらねばならない行動。
3. 全くやりたくはない、嫌なのに回りの影響でなさる行動。
(この3種類は能動的です)
4. 自分も楽しがっている受動的な行動。(体を揺すること、妄想など)
5. 好き嫌いと関係なく行う行動。(呼吸、歩くときの手の振りなど)
6. 自然に発生する行動(病気の時、疲れているとき生まれる体の痛み、自分でも気付いている悪い習慣、依存症など
(この3種類は受動的です)
このように、六重構造で編み込まれている太いロープのように自分を発見することもできます。

★観察すれば良い
とにかく只何もしないで、自分の体と心のことを観察し続ける必要があります。能動であれ受動であれ只観察をすると、自分という現象を構成されている多重構造のロープを見つけるでしょう。

★解く
やがて、複雑な編みかたが徐々に解ける。すべて解けたら「これは、一本の糸で編み込まれていた」ということが分かる。(要注意:一本の糸に例えるこころの流れは一本ではなく、瞬間瞬間生じて、滅する流れです。)最終的には「能動,受動」の区別も関係なくなると思う。

★注意点とは?
「これから受動観察をするぞ」と張り切りすぎるとだめです。結局は緊張しすぎて受動にはなりません。「やるぞ」と覚悟した時点ではっきりした能動的な行為です。呼吸も意識しないと出来なくなります。しがみついて、張り切って、ピリピリの神経質で、真剣馬鹿まじめな修行の感覚で、慌てて、焦ってできるものではありません。落ち着いてリラックスして、また中道的に観察するのがコツです。最初は、能動も受動も入り混じっていることでしょう。次に、能動になったり、受動になったりするでしょう。受動になったところで行きづまったり、能動になったところで疲れたりするでしょう。それらのことを理解しながら観察の仕事を続けることだと思います。

★舵を握る
飛行機にはオートパイロット機能がありましてとても便利ですが、すべてオートパイロットで出来るなら操縦士はいりません。必要な時オートパイロット、必要な時手動操縦等で、安全に飛行機を飛ばすように、常に舵を握っておかないとvipassanā実践も正しく進めないものです。Vipassanāの能動、受動観察の正しい行い方をジャンボジェット機の操縦士の例えで理解していただきたいのです。

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