あなたとの対話(Q&A)

運命はあるのか

2018年9月26日

神秘学についてお聞きしたいのです。最近姓名判断の高い的中率に驚き、運命や宿命というものはあらかじめ定められたもののように感じることがあります。実際私が親からいただいた名前は良く、苦労もありましたが、幸せだと感じることもあります。上座仏教では、占いや運命、宿命というものをどのようにとらえているのでしょうか。

私は神秘学の的中率よりは、現代科学の的中率に驚いていますけれど。神秘という世界では当たる確率よりははずれる確率の方が高いのではないかなあ、と思います。神秘学は、なんでも言える世界ですから、客観性にも具体性にも乏しいのです。たとえば誰かが、何かを占ったとする。その通りになったならば、「自分が言ったことは100%的中するのだ」と自慢する。聞きたいのは、その人の占いすべての的中率は100%かということです。あるいはある占い師の占いが、まったく的はずれだったとしましょう。その場合、神秘学者達は「占いはあてにならない」ではなく「あの占い師の勉強が足りない」と言います。もしこの世の中から神秘学を、きれいさっぱり捨て去ったとして、我々が生きるうえで困ることがどれほどあるのでしょうか。
しかしもし、医学、化学、農学などの実用科学を一掃すれば、どうなるでしょうか。

釈迦尊の答えは、神秘学とは、あっても得がない、なくても損がない、正か否か決められない人間の思考の一種である、というものです。
思考といものは必ずしも正しいものではない。正しい思考は原因に沿って考えて結論に至ることで(如実知見)、証拠に基づいてコントロールされていない思考は単なる妄想です。
たとえば、宇宙に対する思考があります。いくらデータを取っても、かなり推測してストーリーを作らなくてはいけない分野です。
ビッグバーンなどの概念を正しいといくら証明されても、「それは人類にとって何か影響でもありますか」と聞けば、知っても知らなくてもどうでも良いのではないかという答えになると思います。そのような学問を、釈迦尊は、正しいか正しくないかに関わらずあまりほめてはいないのです。

釈迦尊当時インドでは、現代人が驚くほど、さまざまな神秘学が発達していました。姓名判断だけではなく、ネズミが家の何かをかじったら、そのかじりあとを見てその家の運命を判断しました。一部の人々がそういう商売で食べていましたから、お釈迦さまは激しくは批判されなかったのですが、出家した自分の弟子達には、「神秘学のようなインチキ詐欺商売で生活するなかれ」と厳しく戒めていました。お釈迦さまが使った言葉が、「畜生学問」( tiracchāna vijjā) です。姓名判断についてお話がありましたが、文章ではご自分の名前で苦労もあり幸せもあったということですが、どちらなのでしょうか。人は誰でも苦労もあり幸せもあるものではないのでしょうか。また、我々のインド的な名前、西洋人の名前などはどのように占われるのでしょう。
こころが弱いと、占いで、家の玄関の向きが悪いから商売がうまくいかないと思いこんだら、玄関を変えない限り商売に精魂を込める気持ちにならないのではないでしょうか。

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