あなたとの対話(Q&A)

業と障害者

2018年9月26日

仏教では過去の因が縁により現在の果を生み出すとしていますね。合理的な考えだと思います。過去世の行状により来世が決定する記述も見られます。それでは今生に障害を持って生まれた者は過去世で悪業を為したからなのでしょうか? 障害者からするとかなりきつい考えだと思えますが、どうお考えでしょうか?

業の話は「因果法則」の論理から出てきた一つの思想枝です。一切の生命の「生」が形成される瞬間に関わる諸々の原因の中で、過去の行いもその一つとして機能します。仏教は全ては過去の業ですよという「一因論」には全く反対です。一神論は一因論の一種です。多因、多縁で現在の果が現れるのです。また因でも縁でも変われば、変わった結果を期待することもできるのです。ですから「過去の業だからどうにもなりません」というアキラメの話でもないのです。

★人に限らず、生命が生まれる瞬間の最初のこころには、業の影響が優先するようです。わかりやすく言えば、業は『身体』よりも『こころ』『性格』『精神』を管理するようですね。身体とこころは不離、不可分離状態で機能しますから、業は確実に体にも影響を与えることになります。

★生命であろうが他のものであろうが、全てのものは因縁によって、現れたり滅したりするので、誰かの機嫌をとるために真理を歪曲することはできないでしょうね。「大慈悲の絶対神のみ知る理由であなたは障害者になりました。だから喜びなさい。あなたは神の特使者だ」と言うと、良い結果になるのでしょうか。

★また、もし誰かが仏教で説く「業の教え」を参考にして、「あなたは過去の業で障害をもって生まれることになったのです」と言うことは正しいのでしょうか。それは慈しみの行為なのでしょうか。
私はそう言う人は嘘つきだと思います。仏陀は悟りの智慧で業の働きを発見したのですが、我々一般人には理解することも、経験することもほとんど無理です。業については、「思考、想像するなかれ。思索の領域を越えていることであり、考えると頭がおかしくなる」と釈尊は説かれています。正直な仏教徒は「悪いことをすると悪い結果になる」という日常の具体的なところに留まり、あれこれ考えあぐねることなく善行為をするよう努力するのです。
他人の運命について、生き方について、批判的なこと、差別的なことを考えるのは仏教的ではないのです。過去の業について自分自身がはっきりと知っているのなら別ですが、知りもしないくせに「貴方が過去の業で云々」と言うことは単なる差別で、他人いじめで、インチキで、嘘つきで、また大きなお世話です。仏陀の教えを誹謗中傷しているのです。

★瞬間瞬間、全てのものが変わっていくのです。命も生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで止まることなく変わっていくのです。無数の因、無数の縁によって変わり方、方向性が定められるのです。業はその無数の因のなかの一つです。区別できないだろうと思います。業だけに絶対的な力があるわけではありません。今の結果が良くないと思う人は、適切に因縁を変えて、次によい結果をだせばよいのではないかと思います。その良い結果も、すべては無常ですので、また変わるのです。

★なぜ、人の頭に「障害者」という言葉が浮ぶのでしょう。
人間の身体はそれぞれ違うというだけでしょう。さらに能力の差もあります。人それぞれに出来ることも、出来ないこともあるのです。ですから、障害者、健常者という二つに分けて考える思考自体が、傲慢で差別的ではないでしょうか。智慧の人は、『区別』を理解して『差別』を非難するのです。区別の立場から見れば同一のものは一つもないのです。『同じ』人間でも日々変わるでしょうに。日々違うでしょうに。

★健常者とは誰ですか。真理に目覚めず、欲に溺れて智慧の目が開かない人々は皆、知識の、智慧の障害者です。俗世間の基準で、貪瞋痴の基準で、「私は健常者、あの人は障害者」と決めてよいのでしょうか。完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来るのです。障害者の仲間なのに「君、障害者でしょう」と仲間を指すこと自体が、たちの悪い冗談でしょう。

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