あなたとの対話(Q&A)

瞑想の具体的手法と自我についての質問

2018年9月21日

ヴィパッサナー瞑想のとき、ラベリングの対象が何種類かできてくることがあります。たとえばものを持って歩いているとき、足の方に 「左、右」 とラベリングするのか、ものを持っています、とやるのか、どちらでしょう。

最初は、適当に回して、順番にラベリングすればいいと思います。それがうまくいくようになれば、自分の興味の向いている行動の方を長くラベリングすればよいのです。続けていると、自分の意識を自分でコントロールできるようになってきますから、これから 「ものを持つ」 ことにラベリングしよう、今度は 「歩く」 ことにラベリングしようと、自由に対象を変えたりもできるようになってきます。そのように集中力がついてくると、歩いていることにラベリングするときは全く持っているもののことを忘れ、またその逆も同じように忘れて集中できるようになります。

似た質問ですが、瞑想を始めると、今している行為だけでなく身体の違和のあるところに気づくことがあります。たとえば座っているとき、肩の力みや、また私の場合片腎なので、かばっている残腎あたりの意識が強く、うまくいくときはそれが一時的に解消されます。それを、「膨らみ、縮み」 と取り混ぜてラベリングしてはいけませんか。

いつでもどんなことでも、気になっている現象があれば、それをラベリングした方がいいのです。おっしゃるように取り混ぜてすればいいでしょう。

うまくラベリングできてきて、心の状態がよくなると、からだのなかの 「気」 が正されてゆくのが感じられますが、このことについてはどう考えればよいのでしょうか。

そういうこともありますが、あまり気にしない方がいい。自分の感じた気持ち、感情もラベリングしてみて下さい。

寝てする瞑想は、意識を足から徐々に頭の方へ移動させるとお聞きしましたが、からだの左側か右側、どちらかだけでよいのでしょうか。

片方の足から観察を始めると、からだの片側を意識を移動させ、頭のてっぺんまでもっていって、今度は逆の方へ降ろしてきて一回りしてもう片方の足で終わることができます。また、両足まとめて観察してもかまいません。ポイントは、自分自身にとってどちらが観察しやすいかということだけで、やりやすい方法でやればよいのです。

考えとか思いとか、具体的に言葉になる前の、意識に上る前のモコモコとした感じを感じたときは、「湧きます、湧きます」 などの言葉で確認すればよいでしょうか。

最初は、そういうことより、体を動かしたり、歩いたり、そういうわかりやすいことを確認することから始めたほうがいい。 妄想が出たからといって気に病んだりする必要もありません。
それも人間という生物のひとつの動きですから。気がついたら 「妄想、妄想」 と、気がついたとおりに見ておけばよいのです。 中に入ってしまわないようにだけ気をつけてください。妄想が出たから瞑想はうまくいかなかったということではありません。 確認さえできれば、それでいいのです。

最近ヴィパッサナーを始めましたが、ストーリーのある本を読むときとか、テレビを見るときサティはどのようにやればよいのでしょう。

それは初心者にはすごくむずかしいのです。最初は、そういう場面でないときに実践したほうがよいとおもいます。ですから、テレビを見るなら見ると覚悟して、ちゃんとしっかり見てから、見終えたら、「終わります」 と確認すればいいのです。気軽に楽しく、せっかくの人生ですから、1秒でも苦しむ必要はないのです。瞬間瞬間を楽しみ、味わいながら、実践してください。そして、やることがない場合は、ゆっくり手を上に伸ばしてみるとか、それ自体を楽しみながらやってみてください。運動するように動かすのではなく、ゆっくりと気持ちのいいところまで上げてみるんです。「自分」 がいて、「手を伸ばすぞ」 とやるのではなく、ただ自然にゆるやかに手を上げてそれを感じてみる。自我が入ってくると、疲れるだけで精神の安定はありません。言葉で確認しながらじっくり感じてみてください。体を前に曲げるにしても、無理して体を痛めながら曲げるのではなく、意識で確認しながら気持ちのいいところまでゆっくり曲げていくと、不思議によく曲がるんですよ。そういうふうに楽しく取り組めれば、ヴィパッサナー実践の最初の段階を終了できるんです。

自我が入ってくると、むずかしいとおっしゃいましたが、自我とはどんなものでしょう。

「私がここにいるぞ」 という概念のことです。人間の苦しみは、全てそこから始まっています。
たとえば人間には進化の過程で毛がなくなってしまい、服を着るようになりましたが、今では色は選ぶわ形は選ぶわ、ブランドを選んで何万円、何十万円もかけるわ。客観的に見て値段ほど格好よくないものも多いのに、妄想概念に取りつかれたら客観的にも見られない。それで買える人は威張っていて買えない人は悩んでいる。どちらも精神的な病気なのです。
テレビの健康番組でココアがいいといえばココアばかり飲んだり、鰯がいいといえば鰯ばかり食べたり。それで鰯の値段が倍に上がる。それで鰯ばかり食べて体にいいわけもない。なぜ我々は、ごく自然の流れのなかで、自然に流れていくことができないのでしょう。

大宇宙の中の、巨大な歴史の流れの中で、我々は、少しも特別な存在ではありません。大自然と戦って勝てる人がいるでしょうか。時間を考えても無制限にある。でも、「私がここにいるぞ」と言ったら、それはせいぜいほんの80年くらいの限られた部分をその大きな流れのなかから孤立させてしまうことになるのです。ほんの80年の生命で宇宙のことを何かひとつでも知ることができるでしょうか。できるはずもないのです。
自分がいるぞという自我さえ捨てれば、宇宙と生命の法則の中に溶け込んでしまえるのです。自我は人間の悩み苦しみの根源です。この自分がいるぞという概念が完全に消えることを「悟り」といいます。自我が完全に消えたら、その人は完全たる悟りを得ているのです。でもその人はそんなことは人にも言わないし、ただ自分が存在しているという実感さえないのです。

こういうことは先の話ですから、今我々がやってみるべきことは、時間を決めて、その間だけ、自我のない生き方をしてみることです。
それは、言葉をかけて「取ります」「運びます」「持ちます」と、その感覚を感じること。
「手を上げます」「上げます」と、手を見ないで手を上げる感覚を見る、感じること、そういうことだけで十分なのです。
それをできるだけたくさんの時間、実践してみること、そうするとそのうち、道がわかります。

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