あなたとの対話(Q&A)

精進と解脱の矛盾

2018年9月27日

私は仏教(ヴィパッサナー、八正道)の実践を行い、解脱をなんとか試みている者です。その結果として、執着自体に執着していた以前に比べると、だいぶマシになったのではないかな…と思うようになったのですが、疑問が一つ。
1.『精進に終わりは無い』
2.『解脱すれば輪廻から脱却する=生まれない』
ということですが、輪廻からの脱却を目的として解脱を行うという行為は、1.に反していませんか? これでは結果的に精進から逃げていることになります。例え死んでも精進する姿勢が必要なのでは? しかしながら当然その意識で入滅すると、そういう次元に生まれますよね? つまり生まれてしまいます。
ということで、二つ目の疑問は以下です。仏教徒の論点から見て、1.と2.では、どちらの優先順位が高いでしょうか?

執着が減る分疑問が消えていくということはいくらかおわかりでしょう。ということはさらに執着が減ると更に疑問が消えるということです。ご質問は、言葉で、概念で答えられるものではありません。Vipassanāをがんばってください。疑問は「精進に終わりがないといっているのに、解脱しようとするのは、それで精進を止めるためではないのか? 解脱を優先すると精進には終わりがないといえない。精進に終わりがないとするとなぜ解脱するのか。また解脱後も精進するのか? 精進に終わりがない、解脱するべきです、という二つの考え方は相反するのでは」ということですね。これは矛盾する考え方ではありません。混ぜてはいけない世界二つを混ぜて考えているだけです。

仏教は教理を語るとき、世間と出世間と二つに分けます。世間とは眼耳鼻舌身と意という六つの方法で情報を得て認識する世界のことです。普通にいう「俗世間」のことです。一切の生命の認識は俗世間的です。すべての言葉、すべての概念、すべての思考は俗世間的です。

出世間はただ一つ、涅槃です。しかし涅槃という言葉も世間的で、涅槃だと我々が頭で理解するものも世間的な認識で、涅槃ではありません。ですから涅槃、解脱などの状態について考えると分からなくなります。言葉は俗世間的なものですが、涅槃には言葉がありません。したがって語れません。考えられません。

我々は輪廻の中で、無限に苦しんでいます。「生きる」とは苦の連続です。たとえで考えましょう。生命は輪廻という暴流(ぼる)に流されています。溺れないで、死なないでいること自体は至難の技です。がんばるのも苦しいし、がんばらなければすぐ死んでしまう。がんばる人は生き延びるが、苦しんで死ぬのです。答えは、陸に上がることです。水に浮いている板でも、木でも藁でもなんでもいいからつかまって努力するのです。溺れないようにがんばる人と、苦しみは同じかもしれませんが、この人は何かに頼って暴流を渡ろうとしているのです。それで陸に上がったときには、安心で、平安で、安らぎを感じるのです。しかも、あの板も、筏も藁ももう要らないのです。もう死にもの狂いでもがかなくてもよいのです。暴流は輪廻です。陸は解脱、涅槃の喩えです。

八正道もvipassanāも、他の仏陀の教えも暴流(輪廻=苦しみ)から脱出するための道具です。涅槃という境地の立場からは不要のものです。英語で言えば「not relevant」です。涅槃の境地からは一切の概念、思考どころか、仏陀の教えそのものもnot relevantです。

「精進は解脱するまでです」と言えば簡単ですが、一般の人は誤解することもあります。「悟ってから怠けてもいいですか」と考えるかもしれません。煩悩があるかぎり、努力したくない、怠けたいという誘惑に悩まされています。煩悩がある状態は危険で、怠けてはいけないのにです。怠けも煩悩の一つです。ですから、煩悩を絶つために精進を推薦するのです。悟りを開いたら煩悩はありません。ですから心の中に「怠け」もないのです。怠けませんが「精進するべきです」ということも成り立ちません。悟った人は他人のために、純粋な慈しみで普通の人より何千倍も努力するのです。しかし、それは自分のために何の意味も持たない行為です。この状況を理解してもらうために、私は「精進に終わりがない」と言うのです。

それから「涅槃は?」「悟りは?」と妄想することはお止めになったほうがよいのです。俗世間の次元で、相対的な言葉で理解してください。たとえば、苦しみの終わり、輪廻転生の終わり、究極な安らぎ、平安、煩悩(汚れ)の消滅、貪瞋痴の終わり、生命が達するべき境地などです。どの言葉も涅槃の説明ではないが、引き算で何か感じるでしょう。

もうひとつたとえです。生まれつき目が見えない人がいます。その人が色のある美しい世界があると聞く。しかし、自分が触れる世界ではなく、光の世界は別世界だと思っているかもしれません。目が見えることが、生きるうえでどれほどありがたくて便利なことかという話も聞く。しかしその人は、何を想像しても光の世界はわかりません。そこへ目が見えるようにする方法を知っている医者が来て治療を始める。治療も決して光の世界ではありませんし、少しずつ光を見せることでもありません。とにかく適切な治療をすると、やがて目が治って、自分が光の世界、美しい世界にいることに気づくのです。光の世界は自分が想像したものと一致しているでしょうか、まったく違うのでしょうか? どちらでもよいのです。目が見えない時には関係がないのです。しかし、目が見えるようになってからも、その人は目が見えない暗闇の世界について語ることができるのです。

目が見えない状態は、我々の俗世間的次元の知識です。目が見える状態は悟りです。

仏陀には我々の世界のことをいくらでも語れますが、我々に仏陀の世界は語れません。ここで使用したたとえはすべて経典からの引用です。ご自分の思考パターンを、以上の説明を参照して訂正されたほうがよいかもしれません。因果法則を理解すると答えが見えてくるでしょう。それには、更に、vipassanāで精進することです。

慈悲の瞑想をするときには、すべての人が幸せでありますようにではなく、「生きとし生けるものが幸せでありますように」です。一切の生命に対して慈しみを育てましょう。

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