あなたとの対話(Q&A)

殺生について

2018年9月27日

(1)多少なりとも後ろめいた気持ちをもって、たまに蚊を殺す人と、
(2)全く後ろめたい気持ちを持たず、いつも蚊を殺す人(いっぱいいると思う)ではどちらが、心にマイナスエネルギーを受け取ってしまうのでしょうか?

どちらでも心にマイナスエネルギーを受け取っています。両方のエネルギーを比較すると
(1)<(2)になります。理由は、
(1)には、いくらかでも生命に対する、特に殺されている被害者に対する哀れみがあります。
(2)は「殺されて当たり前」と殺しを正当化しています。

しかし、全く気にせず平常心で蚊を殺す人は、殺している数はずっと多いのに、元気に明るく過ごすことができ、心に負のエネルギー(毒?)を受けることはないような気がします。でも、後ろめたさを持つ人は、心に小さな負の傷をおう気がします。

この「気がする」というところは間違っています。『平常心だから罪にならない』と思うのはおかしなことです。平常心で無数に殺人する人に対しても、同じ理屈が成り立ちますか?
『後ろめたさを感じること』は反省につながり、後に自分を正すことのきっかけ(原因)になる可能性があります。この場合の「平常心」は、極端な「邪見」になります。「邪見」(邪悪な誤った見解)は「殺生」よりも罪が重いのです。

ネズミに家の中を荒らされたくない気持ちは家族全員同じとして、
(1)がんばってねずみ取り器を仕掛けて、かかったネズミを処理する母親と、
(2)それは母の仕事、早く片付けて、
と口だけ出して、手を出さない家族ではどちらが、心にマイナスエネルギーを受け取ってしまうのでしょうか。

両方とも賛成していることにかわりありません。同罪になるのは避けられません。しかし、(2)が、本気で反対している場合は罪になりません。この場合、被害者に対する気持ちによって罪の重みは決められますが、仏教では、命令犯も実行犯も同罪です。しかし、体を動かしたり、行動を練ったりする分、実行犯に加算されます。

しかし、ネズミ対策をがんばる母は、かかったネズミに「チュー」と鳴かれてやはりあまり良い気はしないはず。そのつらさを1人でかぶっているのに、まわりで騒ぐだけで見ようとも触れようとしない家族より罪が重いとしたら、気の毒です。

そうですね。これは誰の責任でもないのです。自然の、宇宙の、生命の法則です。誰にもどうすることもできません。地球の自転により、ロシアはとても冬が長く、きびしい寒さになります。死ぬ人もいます。しかし、温かくしてあげることは無理なのです。誰に文句を言っても意味がありません。法則というものには感情も、主観も、例外も、特別扱いも、VIPもDPLもありません。

生命は殺されたくないのです。長生きしたい、幸福に生きていたい。それは権利です。権利は平等です。誰かに誰かを殺す権利はありません。「仕方ない」は理屈ではありません。肉食獣は獲物を殺します。でないと自分が死にます。自分が生きると他の生命が死にます。この場合でも殺しは罪なのです。

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