あなたとの対話(Q&A)

無明とは

2018年9月28日

無明とは何ですか?

無明というのは、ものすごく巨大な暗黒状態、暗闇と考えるとよいでしょう。
その巨大な暗闇に、生命が覆われているということです。暗闇のなかにいると何も見えませんね。ですから我々は、何でも手探りで触って、何とか理解しなければなりません。
智慧という光があれば見えるのですが、人間にあるのは『知識』だけなのです。
知識というのは、ひとつのものについて、様々な意見が出てくるようなことです。
たとえば第二次世界大戦に日本は参戦しましたが、それは正しかったか正しくなかったかと聞くと、いろいろな意見が出てきますね。そのように、「これ」という答えの出ない状態は、知識の世界なのです。
私たちがどのように生きていけばいいかということにも、何も答えが出てこない。皆、知識の世界に生きていますから、何か質問すれば、知識がたくさんある人は、たくさんのことを言うかもしれません。
昔は知識があまりなかった世界でしたが、今は知識がある世界。

昔の人も問題をいっぱい持っていました。
なぜ人は病気になるのか、病気になればどうすればいいのか、畑を作ったのに雨が降ってくれない、どうしたらいいのか、或いは雨が降りすぎて、作物が何も採れなくなってしまった、また、平和に生活していたのに隣の国に攻められて、殺される羽目に陥った、いったいなぜ……。その時代の人々にも、それなりの知識はありました。

現代の我々にはもっと知識がありますが、未だに同じ問題が我々にはあります。
病気になったらどうすればいいのか、ガンになったら何を食べればいい、あれを食べればよい、これを食べればよいと、ありとあらゆることを言いますが、どれも完全じゃないんですね。答えは出ないのです。知識というのは、暗闇のなかでものを触ってみる状態、そしてそれを無明というのです。もしすべてのものに答えが見つかったら、そこには無明はないのです。

生きている間に生まれてくる問題に答えを持つ人はいない。それが無明だと理解していただければよいと思います。無明というのは、我々がふつうに生きている世界のことです。

なぜ、智慧という光は生まれないのですか?

生命はあまりにも長く無明の暗闇のなかにいたので、光というものがあることさえ知らないのです。
問題に答えがあるということさえ知らないのです。
そもそも、私たちが生きる場合、「好き嫌い」で生きています。どんな生命も好き嫌いで生きているんですね。「好き」と決めたのも「嫌い」と決めたのも自分であって、それは正しい答えではありません。例を見るとよくわかると思います。ある時期好きでたまらなかった人が、後には嫌いでたまらなくなる。顔も見たくない。そうでしょう?
ですから、我々が、「良い」「好き」と決めたものも、実際はそうではない。「悪い」「嫌い」と思ったものも実際はそうではない。一旦全部その行動をやめて、自分とは何なのかを観てみない限り、ずーっと無明なんですね。

しかし、理解しておいていただきたいのは、無明とか無知とかいうのは決して非難する言葉ではないということです。
それは仏教の一番高度な考え方です。どんな宗教でも哲学でも答えを用意する部分、生命というものが、どんな衝動で誰に生かされているのか、という答えにつながる部分なのです。仏教では、生命は無明で生まれてきて、無明のなかでうろうろうろうろしていると説く。無明と渇愛が、すべての生命を作り出す原因であると教えています。ですから、生命であるなら、無明であることは普通のことなのです。もし無明がなければ我々は、ここに体を持って生まれることもなかったのです。

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