あなたとの対話(Q&A)

不放逸とは何か

2018年9月28日

お尋ねしたいのは、Dhammapada2章 21節のappamāda ammata pada以下です。日本語訳の「怠けないこと」というのが、漠然としていて腑に落ちなかったので、ネット上を探して、英語訳を見つけたところ、mindfullness, zeal, attention, heedfullnessなど、色々な語が当てられていて混乱が広がりました。
例えば、朝目覚めて時間が有るからと布団の中でぼんやりしている状態がpamādaで、それとは逆に必死に何かをやっているのがappamādoとすると一連の脈絡はつくのですが、これが仏教であるかというと釈然としません。
このように、目の前の何かにとらわれて夢中になっている、わき目も振らない、法華経で言えばこれが火宅、日頃の私の生きかたで、仏教で否定されるもの、と漠然と思っておりましたものですから。とらわれた生き方と、熱中した生き方、微妙な差異を見出しているのでしょうか?
それとも、どんな心で熱中しているかという、矛盾した(心を忘れているのが熱中であるという意味で矛盾してます)設問が、臨済禅の公案のように投げかけられているのでしょうか?
或いは、私が根本的な勘違いをしているのでしょうか?

appamādaの意味は、簡単にはわかる筈がありません。
わかったと思い込んでもそれはわかったとする本人の主観であって、この用語を作成したお釈迦様の意図した意味ではありません。
しかし、好き勝手に用語を作りたい放題作ってもそれは本人以外誰にも理解できないなら、用語の作成者はその用語を自分だけの楽しみにしておいて、他人に言うべきではありません。他人にも言いふらすなら、新しい用語の意味を説明する義務が生じます。釈尊が生涯伝道をなさっていたのは、新しい用語の意味を説明しているのです。初期経典をお読みになられれば、その事実を発見できるでしょう。微細に、真剣に言葉の意味の説明があるのです。沢山経典が実在する理由もこれなのです。

ある言語で書かれているものを別の言語に翻訳する時は、元の作者の意志をそのまま伝えるのが理想的な決まりです。
どこまで成功するかは翻訳者の腕にかかっています。しかし、あくまでも翻訳ですから、その言葉を別の言語の言葉に入れ替えるしかやり方はありません。ですから、pamādaについても換言すれば『怠け、放逸』になる。しかし、日本人が理解する怠けと、釈尊が意味する怠けは同じものなのかという疑問が生じます。

そこで、考えてみてください。日本語の「怠け」は英語ならlazy, lazinessになるが、パーリ語から直接英訳した人々はその言葉を使ってないのです。 Heedlessなのです。Appamādaにはheedfulness, mindfulness, zeal等を使っているのです。それで、pamādaはlazy(怠け)ではないと分かるのです。ですから、appamādaも馬鹿狂いで何かに夢中になっていることではありませんね。

質問者の方は、lazyという意味でpamādaを理解しておられるのです。女装している人に惹かれてしまったようなものですね。
では、肝心な釈尊の定義とは?
釈尊の最後の言葉は「appamādena sampadetha」~怠ることなく励みなさい~です。
最後の言葉ですから、決して死にもの狂いで、目的はなんでもいいから、がんばりなさいと言う意味にはなりません。
Appamādaは仏教の実践、修行そのものを意味するのです。
ですから仏道=appamādaです。仏道と言えば、苦しみをなくす方法なのです。(これは初期仏教の定義です。大乗仏教の定義ではありません。)苦しみはこころの汚れ(煩悩)があるから生まれるのです。ですから、こころの汚れを断つための手段はまとめてappamādaなのです。布施をしたり、他に親切にしたりする当たり前の行為も、戒律を守ったり道徳を重んじることも、瞑想することもappamādaなのです。悟るための努力はappamādaなのです。

私が考えていたのとは、ずいぶん違いますね。appamādaについて、もう少し教えてください。

こころと言うのはどんな瞬間でも汚れるのです。
何時怒るか、何時欲が現れるかわかりません。落ち着いているぞと踏ん張っていても、外から耳に入ってしまった音のせいでもこころが混乱して汚れてしまうのです。煩悩は、知らないうちに入り込んで既にあった先住民ではなく、今の瞬間の私自身の生き方の中で起こるものなのです。見たり聞いたり、味わったり触ったりすると生まれるのです。話したり、考えたりすると生まれるのです。

ということは、今ここで、今この瞬間にこころが汚れないようにガードしてあげないと、汚れることは確実なのです。海に溺れて水に濡れないようにすることはできませんね。そのように、普通に生きいてこころが汚れないようにするのも無理なことです。

そこで、仏陀は、瞬間瞬間に気づいていなさいと提案するのです。
いかなる瞬間でも気づいているように努力する。そうなると汚れが入らなくなるのです。気づくこと(sati) が、本物のapamādaです。
これは、不注意な天才には無理なのです。『常に気づいていること』は、英語ならmindfulnessともawarenessとも言います。
Vipassanā実践というものも、sati(気づき)の実践そのものなのです。いわゆる仏道の全てをいっぺんに実践しているのです。
Dhammapadaの2章にこのような文があります。
Appamādo amata padam – 不放逸は不死という意味です。padam は道、足、方法、または言葉という意味なのです。
だから、不死への道は不放逸だと訳しても良いのです。それで、不死とは、「死なない」という意味でないことはおわかりだとは思いますが、「不死」の意味もわかりにくいと思います。
不死は涅槃です。解脱です。悟りです。苦しみの終わりです。ですから、明らかに悟りへの道は不放逸なのです。その道を歩まない人は、放逸で怠け者になるのです。

ですから、毎年12月の半ばから上野のアメ横で魚を売りまくっている兄ちゃんたちは、たとえ喉から血が出るまで商売に励んでも不放逸だとはいえません。仏教から見ると、怠け者になります。
徹夜で残業しているのだと言って不倫をしていたダンナが、翌朝必死で家の手伝いをして上手く奥さんを騙しても、それは不放逸ではありません。怠け者です。
夫に死なれて幼いこども二人を育てるために補助金も貰わず、昼も夜も働くお母様も不放逸ではありません。ただ、忙しいだけです。(この場合は罰が当たるから、「怠け者だ」とは口を裂けても言いませんよ)

appamāda は mad と言う語幹から作る言葉です。madは酔うことです。無知ということです。無知な生き方(苦しみ、煩悩が増える生き方)はpamādaです。
こころを明晰に保ち、瞬間に気づき、こころが汚れぬように励むことはappamādaです。
俗世間がどのように解釈しても、法華経に何を書いてあっても、臨済宗の仙人たちがクイズ三昧で喜んでいても、個人が自分好みでいかなる解釈をしても、pamāda/appamādaの仏教の定義は上述の通りです。

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