あなたとの対話(Q&A)

唯一の目的

パティパダー2006年8月号(108)

解脱したり悟ったりする人が出ると、誰か得をする人はいますか。

皆、得します。完全に悟りを開くまで心を育てた人がどれくらい世界を救うのかというと、はかりしれないほどです。

ただ悟りに向かって修行しているだけで、何か人の役に立つということですか。

悟る過程にいる間も、人の役に立ちますよ。嘘は言わなくなるわ、人のものは盗らないわ、困っている人を助けるわ、なおかつ執着もしないのだから。執着しないで他を助けるというのは、大変すばらしいことです。普通は、できることなら他人に助けて貰いたくはないのです。助けて貰ったら、助けてくれた人の頼みを聞いてあげなくては、恩返しをしなくては、借りを返さなくてはなど、いろいろ束縛されるのです。例えば、外国ではNGO活動が盛んですが、助けてもらうとその宗教に入信しなくてはいけなくなったり、いろいろ要求されるので、なかなか大変です。

 人を助ける時は、無執着の心で助けるべきです。助けることが出来たと自分が喜ぶ。相手が幸福になったのを客観的に観て喜ぶ。執着があると、負担になります。仏教の修行者は、「助かったらもう忘れてください。じゃあさようなら」という無執着の心で助けてあげるのだから、相手には何の負担にもなりません。

 また、ありますよう。世の中はモラリストだらけですが、モラルを守る人は少ないのです。道徳を守ってないモラリストに道徳を教えられても、片っ端からモラルを破りたい気持ちになるだけです。又、無知な人が説く道徳は、主観的で間違いだらけなのです。
 
 解脱した人は、道徳を完成している。長い間完全に道徳を守ってきたので、道徳を守る時に起こる問題も、守ることで得る幸福も知っている。だから悟った人がいると、周りは自然に「この人のような生き方をしたい」と思う。皆、道徳に挑戦したくなる。悟った人がいるだけで、人は道徳的になる。それで、この世でもあの世でも幸福になるのです。この世で人を救いたければ、世に道徳を教えることですよう。だから完全に悟った人こそ、この世の生命に幸福をもたらすのです。完全に悟るまで待つ必要はありません。仏道の修行をするということ、それだけで自分の、又、他人の、役に立つんです。

私も結局一人一人を変えるしか平和の道はないと思っています。でも自分だけ修行していてそれでいいのかとも思うのです。

歴史を見ても、皆にすばらしい影響を与えて人々を安らぎに導いたのは、自分の心を育てた人々でしょう。例えば政治家の世界でも、マハトマガンジーさんとか、南アフリカのマンデラさんなど、優れた人々は、まず自分がしっかりした人間になっています。自分の道を究めて心を育てた人々こそ、人類の本物のリーダーです。その人のことは、亡くなっても皆がありがたく想い出す。ずっと良い影響を与え続けるのです。
 
 だから何よりも、自分の心を直すこと。それが正しい答えです。哲学者にしても、科学者にしても、心ができている人でないと、すばらしい仕事はできません。お釈迦さまは、自分が心を育てることもしないで人を救うということはあり得ないとおっしゃいました。
 
 心が汚れて、混乱、怒り、嫉妬、恨み、差別などで腐った生ゴミのような状態でいて、他人の役に立つ、他人を助けるなどはあり得ない。不可能。怒りの人が語る平和は形を変えた怒りです。どんな仮面をかぶっても争いは争いです。心が汚れた人、心の汚れを断つ努力をしない人の人助け、平和運動は、糖衣をかけた毒で、社会に迷惑なのです。
 
 周りで人間関係のトラブルがあったとしても、心を育ててない人には、そのトラブルを解決してあげることは無理だと思います。自分が落ち着いていて、穏やかで、ニコッと笑って、人の問題は問題で見ない。人の過ちは、まあいいやと許す気持ちになれる。人を善人・悪人と判断しない。誰も完全ではないと慈しみの気持ちで観ている。そういう人がいたら、それだけで、かなり周りも直ります。人の過ちは許さないわ、カンカン怒るわという状態では、問題を解決することなどできません。人を助けたければ、自分の心を先に助けることです。それしか、他は成り立たないのです。

大乗仏教では、自分のことは後回しにしてまず他人を助けるべきだという利他の思想があります。他者の苦しみを無視してはならないという考え方についてはどうでしょうか。

昔々、真面目に修行に励んだ大乗仏教の偉いお坊さん達が、人の戒めに、自分自身の戒めに、いろんな言葉、諺、表現をなさったのだと思います。それを勝手に解釈して、反仏教的な、非道徳的な意味を作り出そうとしてはならないのです。真剣に修行に励んでいる人なら、自分の幸福よりも他の苦しみを心配することを優先的に考えるのは正しい。何の修行もしない人が、自分より先に他人を助けることを語るのは、人助けではなく、犯罪です。たとえ話:泥棒が「盗むのはやめなさい、それは良くないことだ」と人を諭すのは親切なのでしょうか。皆が盗むと自分の商売があがったりになるのを心配したのかもしれません。利他の思想は曖昧で不完全な表現です。非道徳的な表現になりかねないのです。
 
 では、テーラワーダ仏教の立場を説明いたします。テーラワーダの修行者が他者を無視していると考えるなら、それは誤解です。仏教の修行そのものが、他の生命と強く関わりがあることなのです。修行者はまず戒を受けますが、「殺生はしない、盗みはしない、ウソを言わない」など、生命と関わらないと道徳は成り立ちません。戒律だけでなく、慈悲の修習も修行に欠かせませんが、それこそ生命との関わりで成り立つことでしょう。「幸せでありますように」という慈悲の心で生きている人が、すごく良い影響を皆に与えて生きています。修行者の修行は、自ずから他人の役に立つ、他を助ける行為なのです。しかし本人に「あなたは自分のためにやっているのですか」と訊いたら、「そうかもしれない」と言うかもしれません。実際は、その人には、別に「自分のため」という気持ちもないし、「他人のため」という気持ちもない。「ただ私はひたすら修行しているだけだ」というのが、答えです。自分を直す道は、一切の生命に幸福をもたらす最高たる善行為なのです。

誰にでも悟りというのは可能でしょうか。

論理的には誰にでも可能です。それぞれの人がどれぐらい本気になるのかということによって左右されますけどね。だいたい人間というのは途中で腰を上げてあきらめたりします。自分の煩悩に負けちゃうんです。そうすると、どうしようもありません。
 
 あるいはわがままで、自分の考え方でやろうとする性格もありますね。その場合は悟りなんかは不可能になります。自分の主観で、判断で、「善はこうではないか」「悟りはこういうものではないか」などと勝手に思っても、ただの煩悩思考に陥るだけです。それで悟れなくなります。これは最大の落とし穴です。理解してないと、納得してないと、いけないのです。理解もしないで実践すると、カルト儀式のようになる。しかし「理解する」とは、自分の頭で、自分の思考で理解することでしょう? でも自分の心は煩悩で汚れているのです。汚れた個々の理解は真理になりません。ここがジレンマです。仏陀が「意見や見解などに執着してはならない。それは邪見です」と厳しく戒めながら、理解・納得ができるようにと説法したのは、このジレンマを解くためです。修行に励む人々がこのジレンマにかかってしまうと、悟ることはできなくなるのです。
 
 そういうことは問題ですが、後は、正直に仏陀の言われる通りにがんばれば、誰でも悟ることができますよ。年齢も、あまり関係ない。まあ条件といえば、人が言ってることを理解できるぐらいの能力は要ります。痴呆症になったら無理かもしれません。それ以外はできます。

テーラワーダの目的は、悟りを目指すことだと聞きました。もちろん心では悟りを目指すべきなんでしょうけど、そういう証明できないものを表明して掲げてもいいのでしょうか。

これは仏教の問題ではありません。悟り、解脱、涅槃という表現、言葉、概念ばかりを掲げて仏教に挑戦したり、仏教を学んだりする人々は沢山いますが、そういうモットーを作っても、その意味がわかってないなら、文句を言われてもしょうがないのです。物事には順番があります。突然「解脱だ、悟りだ」と言っても、何のことか理解できるはずがありません。
 
 先ず、客観的に「生きることは何か」と観察する。それで、「生きることは苦だ。私は苦に落ちて、苦に溺れて、苦の中で生きている。生きることは、生、老、病、死の循環だ。この苦しみから脱出しなくてはならない」という具体的な目標をもって、仏教に挑戦する。生きる苦に十分気づいてない人に、それを仏教が教えてあげる。解脱の意味は「超越した何か」ではなく「 -(マイナス)苦」。それは、具体的で証明できる目標です。この時点で「解脱、悟り」という言葉を使う。一切の概念も苦の一部なので、「 -(マイナス)苦」は説明不可能ということになるのです。説明は概念でするものです。
 
 ではテーラワーダ仏教の目標は何か、人々は何のために仏教徒になるのかというと、それは「解脱するため」です。仏法僧に帰依するということ。それは、輪廻を脱出して解脱したいという、そのために帰依するのです。私は違いますと言うならば、まだ本格的に仏教徒として入信してないということです。できるかできないかは別の話で、とにかく悟りの方向に向かって努力しなければ、仏教徒とは言えません。仏教で、輪廻を脱出して解脱するという目的なんか関係ないと言ってしまうと、それで終わりです。
 
 本当は、人間が立てるべき唯一の目標はそれなんです。苦しみをなくすということ。それをものすごく大きく掲げておかないと、人間が堕落する。仏教がその目的を忘れると、堕落して破壊されます。テーラワーダの国々でも、その目的を忘れて、ただ仏教徒だと名乗るようになると、その時はすごく堕落します。そういう事態が起こると、隣の仏教国からお坊さんたちが行って、立て直してあげます。それは実際に歴史の中で何度かありました。堕落するとはどういうことかというと、悟り・涅槃という目的を忘れることなんです。

解脱する、輪廻を脱出するというのが唯一の目的ですか。

そうです。その目的を忘れちゃうと、どうなるかわからない。悟るために修行しているということを忘れた修行者は、信頼できません。悟るためにがんばっているということがしっかりしていたならば、生き方に多少間違っているとことろがあっても、直してあげることができます。「悟りなんかあるわけないでしょう」と言う人は、何を言っても言い訳ばかりです。苦を、生きることを認めて、正当化しようとしているのです。自分の生き方を俗世間に合わせ、そちらを基準にしているのです。
 
 とにかく仏教は、悟りを目指すのが当たり前。それを表に出しておかないと、仏教は必ず堕落します。加持祈祷に流れたり、商売組織になったりするのです。逆に、たとえ商売をしても、「解脱する、涅槃を目指す」ということさえしっかりしていれば、だいじょうぶです。たとえ堕落してだらしない生活をしてしまっても、自分は涅槃を目指して生きているということだけは、忘れてはいけない。それがあるから仏教は壊れないんです。だからこそ我々は、世の中の色んな波にも耐えられます。つまらないことは気にしません。(しかしですね、苦を理解しない人が言う解脱は、単なる妄想です。修行に励む前に仏法を理解して納得する。それは「解脱・涅槃とは -(マイナス)苦である」と知ることなのです)。
 
 ですから、「解脱を得ることを絶対あきらめない」ということで仏教徒になるのです。だから、解脱を得るための活動をやってるんだ、すべてのことは煩悩をなくすためだよということは、はっきりと前に出します。「そうは言っても、あなただっていっぱい煩悩があるでしょう」と言われたら、「だからこそ、それをなくそうとがんばってるんだよ。今は悟ってないけれど、目的は悟ることだ。私はあきらめません」と堂々と言うのです。仏教徒は「私は悟った」とは言いませんが、「悟るためにがんばっている」とは、胸を張って言います。悟りのためにがんばっているというのは謙虚で、まだ未熟だと認めているのだから、何か失敗しても教えてもらうことができるのです。

人間には生きる目的というものはないと聞いたのですが、やはり目標はあるのでしょうか。

生命には、生まれつきついている目的というものはありません。目標は自分で立てるのです。正しい目標を立てておかないと、人は成長しないのです。唯一の有意義な目標というのは、解脱するということです。それはガイドであって、道案内する灯火であって、それを横に置いておきましょうというと、どうなるんですか。
 
「生まれつき生きる目的なんかはない」という言葉は次のように理解します。
 
 認めないだけで、誰にとっても生きることは苦である。皆、その苦が嫌で、楽しみ、幸福を探している。幸福になることが生きる目的だと思って、俗世間の中で幸福を見つけようとしている。しかし、そんなものはない。そこで、あの世で、死後は永遠の天国だと思う。しかし天国でも、生きることは苦である。苦しかないところで楽を探すことは無意味である。生きることは「苦しかない世界で楽を探すこと」であり、無意味な、疲れる、嫌になる行為である。だから生きることに意味はない、目的はない、と。
 
 そこで仏教は、正しい目標を教えます。それは本来心にあるものではありません。理性に基づいて観察する結果、作る目標です。それは「解脱すること」です。
 
 テーラワーダの国の人々は、なぜあれほど落ち着いてニコニコしているのか。出家でも、在家信者さんでも、涅槃・解脱を目指すということを表に出すからこそ、しっかり生きているのです。どんなことがあってもめげません。世間の波に左右されないで、明るくいるんです。その目的を脱線すると、苦労します。金が儲かりたいとか、尊敬されたいとか、認められたいとか、人気者になりたいとか、目的を変えちゃうと、それから苦しむことになるのです。悟りを目指して淡々と生きている人は、皆、それぞれ、豊かに生きているのです。
 
 正しい目的から脱線しない人は、俗世間的なことでも失敗しません。この世の幸福、あの世の幸福、解脱の安らぎという三の幸福になるのだと、経典に記してあります。

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