あなたとの対話(Q&A)

六根のガード

パティパダー2007年5月号(117)

性的な欲についてお尋ねします。異性に対する欲というものも、自然なことでもあるし、やはり必要なことなのだと思うのですが、どうなのでしょうか。

生きるために、食欲が必要だということは認めます。食べなかったら死にますからね。しかし性行為をしなかったら死ぬということはありますか。そんなことはないでしょう? だから、俗世間では性欲は自然で必要ないいものだと言ってますけど、仏教ではそれは認めません。性欲は妄想の結果であって、根本的に必要なものだとは言えません。妄想思考がつくる欲だから、管理することもできます。
 
 性欲からは、欲と怒りという怖ろしい毒が生じるんです。だから世の中を見ると、性的な欲によって、たくさんの不幸が生まれているでしょう? 怖ろしい病気が広がるわ、人殺しは起こるわ、勉強できなくなるわ、仕事ができなくなるわ、会社が倒産するわ、家庭が壊れるわ、きりがないのです。

性欲を管理するにはどうすればいいですか。

性欲を管理するには、六つの感覚器官(六根:眼耳鼻舌身意)をガードすることです。それで簡単に管理できます。

六根をガードするというのは、自分で情報を選ぶとか、欲が出る対象から離れるとか、色んな方法があると思うんですけれども、具体的にはどうするのでしょうか。

選んだり離れたりするのではなく、「平気でいる」「クールでいる」ということができれば一番いいと思います。平気でいるために、ずっと自分に注意しておく。それだけです。
 
 選んだり離れたりするのは大変なんです。しかし、こころが弱い場合は、選ぶハメになります。ガードができないなら、選ぶしかない。あるいは、離れるしかない。でもそうなると、自分がすごく不自然な環境で生きなければならなくなって、自由自在に生きることはできなくなります。「欲が出るから私はあそこには行きませんよ」となると、自分の動きに制限が成り立つのです。
 
 行ってしまったら、こころが汚れて、やってはいけないことをやったり、言ってはいけないことを言ったり、考えてはいけないことを考えたりする嵌めになる…離れたり選んだりするのは、このように、自己管理できない、気が弱い場合なのです。しかし、一生気が弱くて、自己管理ができなくてもいいとは言えませんね。だから情報を選ぶという管理の仕方よりも、感覚にガードをつけておく方がいいのです。ガードのつけ方というのは、「欲、怒り、落ち込みが出てこないように」と覚えておく。それだけです。目を例にとると、目に入るものは見る。認識もする。しかし、「見たものによって、こころに欲と怒りが現れないように」と気をつける。

自分は今の状態だとどうしても煩悩というか欲が出てきてしまうように思います。欲が出たら、その欲に気づいていればいいんですか。

気づくのは必要です。それだけでなく、現われた欲をその場で、その瞬間でカットする。

それは、「欲が起きないように」と、いつも自分に言い聞かしておくということですか。

そうですね。言い聞かすというより、挑戦してみる。例えばきれいな女の人の写真を見る時に、欲が現れないようにしてみる。この写真はこう見ると欲が出てくる。こう見るとそんなことはないなどと実験してみる。まず普通の欲が現れる角度で見てみて、それから、欲が出ないような角度で見てみるとかね。
 
 一つの方法は、プロの目で見てみることです。ああいう作品は、プロが皆を感動させてやろうという企みでしょう。この人はどのくらいの腕をもってるのかという角度で見てみると、「良い作品だ」とは思っても、「何とすばらしいか」ということにはなりません。光のあて方や、カメラの角度などを観察したり、撮影方法を考えてみたりね。撮影する時は、モデルは写真用にお化粧しているのだから、実際に見ると全然きれいじゃない。ダサいんです。そういう見方で見ると、欲は出ません。映画を見る時も、監督の目で見てみる。どういう角度で撮っているのか、この場面の狙いは何か、と。すると、他の人よりもきめ細かく見ているんですが、欲や怒りは出てきません。「悪人を殺せ!」と興奮することにはならないんです。 

そうすると映画を見てもあんまり面白くないですね。

映画を作る人は、人々を感動させて欲や怒りの感情を引き起こして儲けようという企みで映画を作るでしょう。そちらの網にまんまと引っかかる必要はないと思います。しかし、才能がないと映画は作れません。才能自体は悪いものではない。監督の目で見ると、人間は一生懸命に頑張っているという慈しみが生まれてきます。だって、30秒単位の演技をする俳優さんたちは相当なものですよ。30秒ですごく興奮して泣いてみせたり、すごく怒ったり、あれはかなり大変ですよ。だから、お金のためとはいえ皆がんばっているなぁという慈しみは出てきます。
 
 でもその見方は、俗世間の立場とはずいぶん違います。ただの感情で、監督に振り回されて映画を鑑賞するよりは、監督の眼で鑑賞すると、沢山のことが学べます。払った料金に適する知識を得ることができます。「あまり面白くなかった、期待して行ったのに…」という気持ちになったなら損でしょうし、感情で見ると、たとえ「面白かった」と言っても損しているのです。智慧で鑑賞すると損はありません。
 
 だから欲や怒りを抑えるのは難しいことではない。六つの感覚器官を護るというのは、シンプルなことなのです。

私の職場は表参道にあって、あの辺りはきれいな人が多いのです。「これは欲だ」と気づいても、欲がなかなか消えないんですが、どうすればいいでしょうか。

それは、フィルタリング(欲や怒りを除く作業)をしてないんです。どこかで欲を正当化してます。最初から欲を作ることを喜ぶ気持ちがあって、それできれいな人を見て「欲が出た、欲だ」と気づいても、本当は欲を除く作業をしてないのですね。
 
「欲が出たら自分の負けだ」という気持ちでいると、フィルタリングになります。ちゃんとフィルタリングしたならば、欲や怒りは生まれません。生まれるはずもないんです。ただ、そうなるためには、慣れる必要があります。失敗があってもいいから挑戦してみてください。それで智慧が現れてきます。

ボーっと「フィルタリングをしようかな」という感じではなくて、欲が出たら、「あっ、ダメだ」という感じで欲を取り除こうとしようとするということですか。

「ダメだ」というより、「負けだ」と思った方がいいんです。「ダメ」というとちょっと悲観的というか、感情的で暗いんです。欲が出たら、「あ、負けた」と。怒りも同じことで、人にガミガミあれこれと言われて、自分が普段はすごく怒るはずなのに平気だったら、その場合は「勝ち」と。
 
「勝ち」「負け」という単語は、挑戦的でいいんです。これはゲームです。面白くできるのです。ですから、「ダメだ、いけない、抑えなくては」などの気持ちで挑戦するより、「勝ち」「負け」でやった方が、面白いです。

お釈迦さまは性行為を完全に否定したのでしょうか。 

出家には完全禁止です。在家には完全に禁止はしていません。社会生活をしようとすると、家族制度やら結婚制度などがどうしても出てくるのです。だから在家に対しては、家庭以外のところで性行為はするなよと、邪な行為をしてはいけないということになっています。家族を大事にする、家族を心配する、慈しむことは善行為です。夫婦の楽しみは、互いに心配する、慈しむ、幸福を願う基盤の上に立つものだから、不善行為ではないのです。しかし、不倫は完全に不善行為になるのです。

出家はダメで在家はいいとなると、普遍性がなくなるんじゃないですか。

在家は社会というシステムの中にいるのです。社会というのは家族の集まりですからね。社会制度ということも考えないといけないでしょう。出家は社会制度から脱出しているのです。

人間という動物としての種の保存という問題はどう考えたらいいのでしょうか。

それはそんな大胆な問題じゃないんです。種の保存というのは人間が勝手につくった概念であって、種がなくなったからといってどうってことはありません。だから仏教では、それは問題としては扱っていません。
 
 生物学的に調べると、どんな生命でも、大きくなったとたんに子孫を作って、それから死ぬことになっています。ゴキブリもそうでしょうし、人間もそうでしょうし、アメーバーもそうでしょうし、すべての生命はその点では共通しています。子孫を作る場合は皆、必死なんです。だいたい小さな動物、虫などは、子孫を作ることが同時に死なんですよ。ほ乳類はもう少し寿命はありますが、子孫を作る能力がなくなると、だいたい死にます。それで生物学の研究者が、生命とは何かと見ると、皆、生まれて子孫をつくって死ぬことを発見する。だから生きる目的というのは子孫をつくることではないかと思ってしまうんです。それなら、ゴキブリも人間も平等で、同じ目的で生きているということになります。

私も生物学的にはそうではないかと思います。

それは生物学的な目で見るとそうなっちゃうんですね。そうなると、生命の目的は子孫を作ることだということになりますね。

そうじゃないんですか。
では、どういう目的で生きているんですか。

では、ちょっと考えてみてください。人間に飼われている動物は子供をつくらないことが多いでしょう? 例えばオウムを一羽で飼っていたり、犬や猫も一匹だけで飼っていることはめずらしくありません。そうすると、彼らの生きる目的は奪われているんですか? もし本当にそうならば、死ぬはずです。では、子供をつくる相手がいないと死にますか?

いや、子供をつくれないと死ぬということはないですけれども。

でも生きる目的を奪われているのであれば、死ぬはずでしょう。生きる意味がなくなっているのだから。ですからやはり、子孫をつくるのは、生きる目的じゃないんです。たまたま子供ができただけ。本当は、どんな生命も、性行為をする時に、これは子供をつくるためだなどは考えていないんです。人間も。虫も。

まあそれは、快感があるからだと思いますが。

どんな生命にも快感があるかどうかはわかりません。ただその時に、そういう行動をするだけなんです。それで子孫ができて、育てなくてはならない場合は、一生懸命に育てる。それだけ。だからたまたまなんです。

たまたま、ですか。

例えば人間の場合も、たまたま適当な人がいたら子供が生まれますが、たまたま相手がいなければ、それはできませんね。それで子供が生まれたら、「私の娘だ、私の息子だ、大事に育てなくちゃ」と、懸命にがんばる。それだけのことなんです。だから結局は、その場その場で反応するだけだというのが、我々生命の生き方なんです。

その場その場の反応で生きるような生き方はダメですよと、お釈迦さまはおっしゃっていると思うのですが。

そうです。仏教では、それでは意味がない、と言うのです。生きることには意味がない、その場その場の反応だけにすぎないでしょう、と。実際我々は、何歳になっても、その場その場で反応しているだけなんです。お腹がすいたらご飯を食べる。眠くなったら寝る。退屈になったら散歩に出るとかね。ただの反応ばっかりで、そんなすごいことじゃない。しかもその中で、失敗ばっかりでしょう。例えば思考もちょっとした反応なんですが、我々はあれこれとつまらない妄想ばっかりしているでしょうに。だから最悪。どっちにしても無意味なのに、反応の仕方がまずくて、最悪状態になっているんです。

では、どういう風な反応がいいのでしょうか。

怒りや欲が生まれないような反応です。それを、智慧の反応というんです。精神的向上ということを考えて下さい。それは、反応ばかりしている生命は、普通はしないことです。