あなたとの対話(Q&A)

悪人を許せるか、善人とつき合うと肩が凝る、曖昧さも文化のうち、嘘も方便、二者択一

パティパダー2008年7月号(131)

・悪人を許せるか
・善人とつき合うと肩が凝る
・曖昧さも文化のうち
・嘘も方便
・二者択一

反省していない、謝罪もしていない悪人でも、許すのですか? 悪人を許すことによって、また被害を受けるとしたら、その人はただの愚か者では?

悪人を許せないという人が何をするのかといえば、悪人を憎むのです。それは人間の感情の自然な流れです。しかし、他人が悪を犯して、私がその人を憎むとすれば、その私は何をやっていますか。私は悪を犯しているのです。
 
 まず自分がその犯罪に関係ないという場合、罪を犯した人を「許す」ということは成り立ちません。自分は当事者ではないのだから、そんなことをいう権利もないのです。しかし、人は自分に関係ない犯罪の情報を仕入れては勝手に憎しみを駆り立てる。それは自分が「憎む」という罪を犯しているだけのことです。それは感情の自然の流れですが、感情のままに生きていて人格が向上することはありえません。仏教では感情をカットして、人格を向上させることを教えているのです。どうしても犯罪の情報が入って腹が立つならば、憎しみの感情を「智慧」に入れ替えて観察するのです。知らない人を憎むかわりに、「なぜ人はこんな罪を犯してしまうのか。いったん悪いことをしてしまえば、その人の幸せな人生はすべてなくなってしまう。悪人が得るのはかわいそうな結果だけ。自分も感情に負けて悪いことをしないように気をつけよう」という風に。

「許す」という言葉は、自分の心に言うことであって、「相手を許して無罪放免にしてやる」というような傲慢な態度ではないのです。たとえ自分が相手を許したとしても、相手の罪が消えるわけではない。悪事の報いは本人が受けなければいけないのですから。
 
 自分が被害者の場合、どうしても憎しみの気持ちが生まれてきてしまいます。しかし、加害者を憎んで仕返しをしたら自分も罪を犯すことになって、被害は二倍三倍にもなるのです。相手に憎しみを抱き続けるならば、加害者の狙いどおりになるだけです。一回目は被害を与えて、被害者を悩ませる。その結果として、被害者が加害者を恨むことになると、被害者が長年にわたって苦しむことになる。そうなると、加害者の思う壺なのです。一回の悪事によって、被害者にずうっと恨みの感情を植え付けることに成功したのだから。

「私は加害者を憎みません。自分が罪の被害を受けたとしても、重ねて罪を犯さない。相手を許して、もう気にかけません」という毅然とした人格者に対して、加害者はもう二度目の危害を加えることはできません。加害者を許す人は、愚か者どころか我々が想像できないほどの人格者なのです。

道徳観念のある善人とつき合うと、ノリが悪いし、こっちも肩が凝るし、その人に合わせると、こっちが楽しめません。善人とはなるべく深くつき合わないで、困ったときにだけ助けてもらうように、顔をつないでおくというのが現実的では?

そういう現実はあるかもしれません。つき合ってもノリが悪いとか、肩が凝るといった気持ちになるのは善人とつき合う時ではないのです。それは「おせっかい焼き」とつき合う時なのです。
 
 本当の善人は、相手の気持ちを損なうことはしません。敬遠されるどころか、みんなが寄ってくるのです。だから善人に「これは悪いよ」と言われたら、その人はすぐにそれをやめます。本当の善人は、「人間はだらしないことをするものだ」という人の弱味を知っているのです。だから、ニコッと笑って言うだけ。あれこれと文句を言う人は、単なるおせっかい焼きに過ぎません。肩が凝るのは当たり前のことで、別につき合わなくてもいいのです。
 
 単なるおせっかいと、本当の善人の違いはすぐ発見できます。たとえば相手がしつこく説教してくる場合は、すぐ質問してみるのです。「では、あなたはそれを実行していますか」と。そうすると、本人がかなり怒ると思います。実際にやっている人は、自分の経験をしゃべるのだから、誰でも耳を傾けて聞いているのです。やっていない人は観念でしゃべるのだから、うるさいだけです。ブッダの教えの中でも、「自分でやってないことは、他人に言うな」と戒めています。観念論は、ただ非難されて終わるだけです。人にものを言う前に、自分で実践して、それがどれだけ善いことかを経験したうえで、自分の経験をしゃべるのです。そうするとみんな、「私たちもそうなりたい」という気持ちになるのです。
 
 ただ単に、道徳をあれこれとしゃべっただけで、善人というわけではないのです。すべて、その人の人格で表さなければいけない。人格者を嫌がる人はいません。たとえば、「怠けるなよ」と口やかましく言う人と一緒にいるよりは、黙ってしっかりと怠けず仕事を頑張っている人と一緒にいる方が、私たちも充実感をもって仕事に精を出せるのです。

善悪の間の灰色とか、あいまいさ、ファジーさを大切にするのが日本文化と言われます。曖昧さは高度な文化でしょうか? それとも単にだらしない生き方でしょうか? 日本だと、曖昧さとか善悪をあまりはっきり言わないというのは、どちらかというと仏教的な考え方だとも言われていますけど。

曖昧ということ自体が、生きていく上で成り立たないのです。医者が薬を与えるときに、「そこら辺にある薬でいいでしょう。適当に注射してください」なんていう指示は出しません。世の中はすべて、厳密な因果法則によって成り立っています。曖昧とは、単にだらしないということなのです。
 
 心はどうせ自然と悪に傾いているので、曖昧さによって私たちは悪におもむくのです。決して善い方向に行くわけではありません。たとえば日本の社会では、「曖昧な生き方は高度な文化ではないか」と誇りに思っています。相手に強引に自分の意見、自分の判断を押し付けるのは、相手に対して失礼な行為だと思って、やわらかい言葉で語るのです。相手の気持ちも尊重するから、言語的に見られるマナーは素晴らしいことです。しかし、はっきりものを言わないと損をすることもあるのです。たとえば、国際的な特許裁判で高い損害賠償を取られたりします。もしも論点を明らかにして厳密に弁解したならば、日本側が勝訴できるのではないかと、私は個人的に思います。曖昧さによって損をしているならば、その行為は悪ということです。それで幸せな結果が出たならば、善行為ということになります。仏教では善悪がはっきりしているから、曖昧さを善にするか悪にするかといえば、悪にするのです。
 
 みなさんは誤解されているようですが、仏教は決して曖昧ではないのです。仏教で言っているのは、「人が悪いことをしたとしても、その人を完全に悪い人だと決め付けて、処分したり切り捨てたりしてはいけないのだ」ということです。人間は善いこともすれば悪いこともする。それが人間の生き方ではないかと言っている。「あなたは悪人だ」という風に、判断して捨ててはいけないのです。すべての生命は平等に、慈しみの気持ちで見なければいけない。悪いことを見つけたら直してあげる、善いところを見つけたら応援してあげる、という生き方をしなさいと言っているのです。それを理解しないで好き勝手に、「曖昧な生き方は高級だ。これこそ高度な文化だ」と勘違いして、ひどい目に遭っているのです。存在の法則の中で、どこを見ても曖昧さはひとつも存在しません。
 
 観念ではなく、実際の生き方を見れば分かることです。人としゃべるときに、「そうかも。そうかも」と頭の中ではっきり判断しない状態をつくっている。それは無知につながるのです。何が起きても、判断できなくて、途方に暮れるという結果が確実に得られます。たとえばAさんとBさんの問題があって、どちらの意見でいくべきかと聞かれたら、「私はどちらでもないのだ」と答えてもいいのです。「どちらでも五分五分だからどちらでもいいじゃない」と言うのは、その人のはっきりした判断です。決して、曖昧ということではないのです。
 
 ただ精神的に、「やっぱり意見出したらまずいなぁ。格好悪いし、足元すくわれるかもしれないし」という風に考えて自分の意見を言わないのは、明らかにだらしない態度でしょう。自分の思考は混乱状態になってしまって、明確に考えることができなくなります。物事を明確に考えないならば、世界で生きていられません。他人様のお陰で何とか死なずに済むかもしれませんが、それでは立派な生き方とは言えません。

「嘘も方便」と言いますが、具体的にどのくらいの嘘なら許されるのでしょうか?

仏教では決して、「嘘も方便」とは言っていないのです。そういうことを言う人々は、自分たちの気持ちを仏教に投影して、勝手な言い訳をしているだけのこと。「嘘も方便」と言った時点で、その人は「事実は言えなかった」という自分の弱味を表現しているのです。「自分には能力がなかった。巧みでなかった」という表現でしょう。「他の方法もあったかもしれないけれど、簡単単純に嘘で人を騙して何とかしました」ということなのです。だから「嘘も方便」というのは、無知な人の言いぐさだと理解した方がいいのです。方便は決して嘘ではありません。
 
 巧みな人、智慧のある人ならば、すぐに方便が見つかるのです。たとえば小さな子供たちに丸、三角、星形、楕円形といった形を教える。ある子供に形を見分ける能力がなかなか出てこない場合には、その子も色は認識できるかもしれないから、形に色を塗ってあげるのです。星形の形があるところに赤を塗って、星形のブロックにも赤を塗る。それから、「同じ色に合わせてください」と子供に頼むならば、その子も、「これはこれと違うものだ」とはっきり分かって、形が合うところに入れてくれる。それが方便というものなのです。
 
 悪いことをしたらよくないと言うために、キツネの話などをする。悪いことをしようとしたキツネさんが、ひどい目に遭ったストーリーは作ったものであっても、聞いている子供はそんなことが実際に起きたとは思っていないのです。御伽噺だとちゃんと知っているのです。しかしストーリーに感動して、「悪いことをしてはいけない」と理解する。そういうものを方便と言うのであって、嘘をつくことは方便ではありません。
 
 俗世間では、たとえば政府が戦争を起こしたいとき、国民に本当のことを言ったら賛成してくれないので嘘の情報で戦争賛成のキャンペーンを張るとか、そういう汚いことに「嘘も方便」と言ったりする。それは元々からして悪行為なのです。
 
 方便という言葉と、嘘という言葉をつなげること自体、屁理屈で失礼なのです。方便というのは、とても智慧のある人が、人を育てるために使う教育手段なのです。プロの教育学者たちが、たいへん苦労して開発するものであって、単なる嘘を羅列して並べているわけではないのです。たとえば数学の本を見ると、いかに面白く、気持ちよく、遊びながら、難しい数学を子供たちが理解してくれるか、と工夫しているのは見えるでしょう。嘘を羅列して数学を教えることはできないでしょう。嘘をつくことは明らかな失敗であって、「方便」は巧みな人、智慧のある人にしか見出せないのです。

私たちは重大な選択を迫られるとき、何を基準にして決断すべきでしょうか?

やはりその場合は、まず道徳の規準で判断するのです。道徳の基準に照らして、やろうとしている行為が本当に自分の幸福や利益のためになるのかと調べるのです。自分の利益にならない、自分が損することが明白ならば避けるのです。損すると知った上で選ぶというのは、明らかにバカバカしい。しかし、「自分は損してしまうけど、他人にはものすごく利益になる」というならば、ちょっと自分が献身的になって、「人のために」という気持ちでやってもよい。ただし、そういう判断をしても、自分はあまり納得いかないかもしれません。
 
 もし自分の利益にもなって、他人の役にも立つ行為だったら、文句なしに賛成すべきなのです。我々の選択が完璧に正しい場合は、自分から見ても利益になって、他人にも利益になって、ごく一般的に普遍的に考えてもよいことである、というケースなのです。その場合は、すぐ簡単に判断できます。しかし俗世間の場合は、そんなに大胆なケースというのはない。だから二者択一を迫られる場合は、判断基準として損得くらいで考えてみればよいのです。