あなたとの対話(Q&A)

自分らしさ、努力は気休め、好きな道で生きる、人の悪いところばかり気になる

パティパダー2008年8月号(132)

・自分らしさ
・努力は気休め
・好きな道で生きる
・人の悪いところばかり気になる

自分らしさって何ですか?

世の中では、「自分らしさ」とか何とか言っているのですが、私も何だか分からないのです。自分らしさとか、自分を表現しようとか、みんなただ口先だけじゃないかなぁ。この言葉が格好いいと思っているのでしょうか。誰かが「自分らしさを出せ」という場合は、それを言う人がはっきりと「これが自分らしさだ」と示してくれないと困りますね。
 
 誰もそんなことはしてくれないから、もう無視した方がいいですよ。「自分らしさなんか分からないから、もう勝手にやるぞ」という風にした方がいいとは思いますけどね。
 
 それだけでは仏教的な言葉にならないから、私は強引に定義します。「自分らしさ」と言えば、自分が緊張しないで、神経質にならないで、明るく穏やかで、人生も失敗しないで落ち着いて生きられる方法、素直に生きられる方法ではないでしょうか。仕事をする時も、明るく穏やかに出来る。それほど失敗もしない。たまたま失敗があっても、気にすることもないという気軽な道です。それは各自で発見しなければいけないものだから、「自分らしさ」と言ってもいいと思います。ワガママをまき散らすことは自分らしさではなく、ただ感情の発作を起こしているだけ。穏やかでにこやかに落ち着いていられる状態こそが、「自分らしさ」ではないかと思います。
 
 ある人が、「自分が何の役に立てるか、と考えたときに出てくる自分独自のものが『自分らしさ』であって、単にやりたいことをやるのは自分らしさではない」と書いていました。それも正しいと思いますよ。我々は社会の一員として生きていく必要があります。その社会に何か貢献しなければ、社会は我々を生かしてくれない。自分に何が出来るかを発見したら、それは自然に素直に出来ることだから、「それを自分らしさというのだよ」という定義は私も悪くないと思います。
 
 他人に合わせることが苦しいというのは、自分の自我があって、それをわざわざと抑えて、他人に合わせているからです。では、他人に合わせないで自然のままに自我を出したら、またみんなに迷惑がられますし、他人に何かを与えることにはなりません。どちらの道を選んでも失敗します。だからやっぱり、「自分らしさ」とは、そのままで穏やかで生きていられる自分の道ではないかと思います。

努力は大切だと誰もが言いますが、怠けていても上手くやっている奴もいます。ほんとうは要領がいいとか、生まれつきの才能とかがモノを言うというのが真実で、努力すれば報われるというのは、人が極端に堕落して自暴自棄にならないための方便、気休めでは?

あまりにもうるさく「努力しなさい」と言われると、そんなことも言いたくなります。だから、気持ちは分からないわけではない。いつでも闇雲に、「努力しなさい、頑張りなさい」と言うこと自体よくないのです。
 
 仏教では、人間に対して一貫して「努力しなさい、頑張りなさい」ということは言いません。しかし、「怠けてはいけない」とは言っています。「怠ける」とはどういうことかと言うと、やるべきことをやらないことです。それがいけないのは当たり前ですよ。たとえば、お腹が空いたら、ご飯を食べるべきでしょうに。「面倒くさいから食べません」なんて言えませんからね。天ぷら鍋が燃え始めたら、すぐに火を消さなければいけない。そうやって生きるためにすべきことを怠るのは、「怠け」なのです。同じように、若いときは勉強をしなくてはいけない。この世の中では知識がないと生きていられないのです。この世界では犬猫さえも、生活するために必要な技を親から教えてもらう。それをカットすることはできません。
 
 このように仏教で「努力しなさい」と言う場合は、何に努力すべきか、何を努力すべきでないかをはっきりと選択するのです。これが人格を向上させる仕事になると分かったところで、それに対しては、かなり努力しないと、目的に達しないのです。だから、人格向上をうながすところでは、「努力しなさい、頑張りなさい」と強く言っています。善いことに限っては、そんなスムーズにいくわけではないから、しっかりやりなさいと言っている。
 
 それは俗世間の言っている、「ただ単に闇雲に頑張りなさい」ということではないのです。会社で「もっと仕事して、何かモノをたくさん生産しなさい」と怒鳴りつけても、ただ欲で攻めているだけだから、決して上手くいかないのです。そういう努力というのは、能率が下がる無茶な行為なのでよくないと思いますね。
 
 なかには、怠けて上手くやっているように見える人もいます。そういう人々は要領よくものを知っていて、いちばん少ない労働力と短時間で、やるべきことをやるのです。だから時間は残っている。体力も残っている。一見、怠けているように見えるだけなのです。しかし、怠けた人が何かを成し遂げたということはあり得ない。やるべきことをやらないで上手くいった、商売は全くしないで金持ちになったとか、まったく本を読むこともせずに最優秀で合格したとか、あり得ない話でしょう。一日中遊んでいるように見えても試験は合格したという人は、その技を、要領を知っているのです。そういう鋭い人は、悠々と遊ぶ余裕をつくれるのです。上手でない人は、一日中頑張っても、やり残していますね。その差ですよ。能力の問題なのです。
 
 これは「生まれつきの才能」とは言わない方がいいのです。それもまた怠けを正当化する言い訳です。「私が悪いのは生まれつきだから仕方がない」という怠け思考なのです。能力というのは、ものすごく生々しいもので、すぐに伸びてきますよ。体はそう簡単に進化しませんが、能力はいとも簡単に身に付けられます。
 
 だから、その能力を向上するためにも、人格を向上するためにも、努力は必要になります。この質問にあるような、極端に堕落して、自暴自棄にならないための方便ではありません。能力を向上させるために、人格を向上させるために、努力することが不可欠なのです。何もただでは伸びてこない。ただで伸びてくるのは雑草だけ。おいしいものを食べたければ、ちゃんと種を蒔いて、田畑の面倒を見なければいけないのです。「努力しなさい」というのは事実そのものを生々しく語っていることであって、気休めではありません。

自分の好きなことをして生計を立てている人が羨ましいです。多少収入が減っても、やりたいことにチャレンジすべきでしょうか?

やりたいことが出来るならば、ほんとうに気分がいいとは思います。でも、「私はやりたい」というだけでは決定基準にならないのです。その前に、「出来るか出来ないか」という判断が必要です。自分が才能を持っていて、その仕事をやりたくてたまらないならば、いきなり始めた方がいい。たとえ一時的に収入が減っても、ほんとうに才能があるならば、収入はかえって増えるのです。しかし、「収入が減っても、貧乏になっても、食い物がなくても、自分がやりたいことをやる」というのは、あまりにもワガママすぎます。自分がやりたいことをやったとしても、人の役に立たなかったら社会の迷惑でしょうに。
 
 たとえば子供がアレルギーなどの病気に罹っていて、都会では生活出来ないから会社を辞めて田舎で畑仕事をするという人がいます。それでなんとか生きていける見通しをもって、理屈に則って始めた生活だから悪くはないのです。その場合は、やりたいか否かではなく、自分の子供にとって都会の環境は合わないということが理由になっている。親として子供の命を守ることは当然の義務です。そういう苦労はありがたいことですよ。
 
「やりたいこと」という一つの条件だけでは足りません。自分にそれが出来るか否か、自分はこの世界で一人前になれるかということもチェックして欲しい。ただ「これをやりたい」ではなくて、「出来ることをやりたい」という順番で考えた方がいいのです。
 
 やりたいことと、やりたくないことという二つがあるとしましょう。一つ選ぶ場合は、当然、やりたいことを選ぶでしょう。しかしそれは甘い選択です。自分のやりたいことが、誰も要求していない、誰も必要としないものなら、自分勝手にやるだけで、収入にはまったくなりません。最低、社会からほめてもらうことすらないのです。家族にも笑われる可能性があるのです。ですから、やりたい、という基準だけで生きようとすると、恐ろしい我がままなのです。やりたい、ではなく、役に立つのか、ということが基準にならなくてはいけないのです。前も説明したとおり、やりたいことが役に立つものであるならば、とてもありがたいことです。しかし、また問題があります。やりたい、役にも立つ、しかし自分にはなかなか上手にできない。失敗ばかり。それなら、やりたいことを選ぶものではありません。
 
 また上手に出来る、自分でもやりたい、高収入にもなる仕事があるとしましょう。しかし、具体的にその仕事が暴力団の一味になること、過激派の一味になること、オレオレ詐欺・振り込め詐欺などの技術者になることなどなら、どうでしょうか。世の中で、とても喜んで犯罪を起こして、高収入を得る人もいるのです。人々がこのような仕事をすることを、あなたは認められるでしょうか。ですから、やりたい、能力もある、高収入にもなる、という三条件が揃っても、うかつに決めるものではないのです。結局、結論は、好きであろうが嫌であろうが、それに関係なく人の役に立つ仕事を選ぶことです。

人の悪いところばかり見えてしまって、自分で自分の心を汚している気がします。人の欠点を見ても、心を汚さず冷静にいるにはどうすればいいでしょう?

他人の欠点ばかり見えるのは、頭が悪い証拠です。根底に「自分が正しい」という前提があるんです。自分が正しいと思うことはとても危険です。極限の邪見です。極限の邪見に陥っているから、他人の欠点は簡単に見えるのです。逆に言えば、世間のゴミを拾っては入れる、拾っては入れる、ということをしているのです。美しい花が咲いていても、それは見えていない。その時点で、極限的な苦しみを味わっているはずです。
 
 人格者は、自分はどうってことない欠点だらけの人間だという事実を認めるのです。それから、「あの人にはこんな善いところがあるんだ」と、他人の長所を見つけるのです。人は不完全な存在です。完全な善い人も、完全な悪人もいないのです。他人の善いところが見える人にとって、人生は楽しいのです。社会が悪いと敬遠する人にしても、他人の善いところを見出す人に会うと、気分がいいのです。他人の長所を見る人に対しては、悪人も危害を加えないのです。
 
 他人の悪いところを見ると気分が悪くなります。人間関係もギクシャクします。それも偏見かもしれないけれど、他人の善いところしか見ないように、あえて心がけてください。そう努力する人の人生は幸福になります。悪いところは、誰にでも簡単に見えます。善いところを見ようとするならば、それなりの努力も、落ち着きも、やさしさも必要であると理解しておきましょう。他人の善いところを見ようとすると、自分の人格が向上することも、自分自身も善人になることも、結果として自分が幸福と安らぎを感じる人間になることも、明確です。
 
 具体的なやり方も言わなくてはいけないでしょう。最初のステップだけ紹介します。「自分は完璧ではない」と認めることです。自分の言葉と判断能力は間違っているかもしれないし、することも間違っているかもしれない。自分は決して完璧ではないんだ、と認めることです。その他にやるべきことは自然に身につきますので、心配しないでください。