あなたとの対話(Q&A)

修行はヒマ人のもの、無神論の方が徹底している、一般人に宗教は不要、ブッダの教えは古いまま

パティパダー2009年6月号(142)

・修行はヒマ人のもの
・無神論の方が徹底している
・一般人に宗教は不要
・ブッダの教えは古いまま

仏教は修行がありますけど、ヒマ人にしか出来ないのでは?

修行はヒマ人のものだというのは、そのとおりです。社会の行為をやめて、責任を果たすこともしないで、どこかで隠れて修行するといったケースもありますからね。たとえば日本の社会では、何か不正でもしてばれたら、修行道場に逃げたりします。しかし、ああいう人々がやっているのは、本格的な修行でも何でもないのです。それを修行というなら、一番格好悪いことですよ。この場合は、使う言葉が間違っています。「仏教は修行がありますけど…」というのは、「仏教は実践がありますけど」と言った方が正しい。生きることは、すべて実践ですからね。リハーサルはないのだから。一秒一秒であっても、しっかり生きるための現場ですよ。戦場ですよ。「ほんのちょっともリハーサルはないのだから、瞬間瞬間をしっかり大事に生きてみなさい」というのが、仏教の「実践」なのです。逃げて隠れてコソコソとやる、世間の修行とは違います。

仏教徒よりも無神論者の方が、独立精神の持ち主ではないですか? 仏教もなんだかんだ言っても宗教だから、そんなもの信じているよりは、無神論で、唯物論的に考えている人の方が、はっきりしていて、独立精神があるように思います。

仏教は信仰ではありません。仏教徒は何か神様のようなものを信じているわけではないのです。仏教徒も、「業」ならば信じていますよ。しかし、業とはつまり、自分の行為でしょう?結局は、自分を信じているということなのです。べつに信じても信じなくても、自分の行為が自分に結果を出すということは知っています。それを教えてくれたお釈迦さまのことを偉いお方だと思って礼をすることは、信仰ではなく、人間らしい普通の気持ちでしょう。「すごいことを教えてくれたから、バカにしてやるぞ」という態度はあり得ない。我々に真理を教えてくれた人のことは、誉めたり尊敬したりするものです。同じように、仏教のなかでお釈迦さまは父親であって、それ以上の何ものでもないのです。「何でも知っている父親だ。守ってくれるのだ」という当たり前の気持ちですよ。何かを信仰しているわけでもないのです。

 仏教徒は自分を信じている、という意味は、「行為に適切な結果がおのずから現れる」という事実を確信していることです。それから、「この行為はこの結果をもたらす。この行為ならばこの結果になる」という因果関係もはっきり知っています。だからこそ、きちんと自分を律して生きていられるのです。
 
 では無神論者は何を頼りにして、何を基準にして、生きているのでしょうか? 何をすべきで、何をすべきでないかと、どんな基準で決めているのでしょうか? べつに確かなものは何もないでしょうに。それでは独立精神といっても、まともに生きていられないと思いますよ。かといって、信仰で生きることが善いのでもないのです。どちらを選んでも結果は悪い。信仰も悪いし、無神論・唯物論も全く屁理屈で成り立たない。有神論者になっても、唯物論者になっても、「自由に生きられる」ということは相当な勘違いです。因縁によって命が成り立っているのです。我々は何をしても、因縁を超えることはできません。
 
 人が自由で独立していると言っても、この世の法則を何一つも変えることはできません。老いることも、病に罹ることも、死ぬことも、法則によってものの見事に起こるのです。独立していると思っている人は、空を飛べますか? 神を信仰している人は、空を飛べますか? 不可能です。しかし、因果法則を知っている人は、飛行機を作って飛ばすことができるのです。空は飛べないが、飛行機に乗って空を通して移動することができるのです。

 信仰の悪いところは、立証できない何かの妄想概念に自分の生き方を制御させるはめになることです。それで自由を失うのです。唯物論者は妄想概念を否定するかもしれませんが、大事な問題である「生きるとは何か?」という疑問に何の答も持っていないのです。ですから、どう生きるべきか、ということを唯物論者は知らないのです。なぜ人をなぐってはならないのか? なぜ嘘をついてはならないのか? などの生き方に欠かせない問いについて、唯物論的な答えがないのです。唯物論が正しければ、人は何をやってもよいのです。唯物論者は、五欲の衝動に操られて、振り回されて、生きているだけです。何の自由もありません。生きていきたい、死にたくない、という感情は、激しいのです。その感情の奴隷なのです。自由だ、独立しているのだ、と調子に乗っているだけです。

 現代科学でも、まじめに学んでみれば、物質の世界であっても因果法則によって成り立っていることが明確にわかるのです。現代科学の方法論を、心の発見をするために駆使しているのです。心のエネルギーは物質ではないので、科学の方法論では心を実証できないのです。そこで、心は存在しない、という推測的な結論に至るのです。唯物論者の、「心なんかは存在しない」という話も、立証された事実ではなく、信仰のひとつなのです。落ちたくないと思った信仰という落とし穴に、落ちてしまっているのです。
 
 自由に生きるとは、自由に感情の制御をできることです。簡単に怒ったり欲張ったりする人に、自由はないのです。その感情が、その人を束縛しているのです。心の因果法則を知っている人は、徐々に自由になっていくのです。

日本で特定の信仰を持っている人の割合は、20%にも満たないといいます。一般の人は宗教に関係なく、楽しく日々を生きています。宗教に興味を持つということ自体、アブノーマルで暗い性格なのでは? カウンセリングなどでその性格さえ直してあげれば、宗教は不要になるのではないでしょうか?

宗教に対していろいろケチをつけている立場の私が、どうやって答えればいいのでしょうか。私が言いたいのは、「宗教が嫌いなのは勝手だけど、宗教と関係ない仏教に文句を言わないでください。同じ扱いをしないでください」ということです。お釈迦さまの教えは、まるっきり科学的で立証できる、しっかりした生き方なのです。
 
 仏教は宗教になりません。仏教は、人に「解脱」を教えているのです。解脱の意味は「自立」であって、「自由」なのです。しかし、あえて自由を教えると、みんな怯えて逃げてしまう。すべての人間が、解脱と言った途端にもうしり込みするでしょう。世の中の人々は、依存したい人ばかりで、自由は嫌いなのです。だから世の中にあるのは宗教ばかりという結果になる。一般人には宗教は要らないといいますけど、一般人という人々は、気持ち悪いほど依存症なのです。ただ宗教を持っている人々は自分の看板をかけていて、一般人は看板をかけていないというだけ。自分が何をやっているかも分からない、宗教の何でも屋さんですね。

 やはり宗教はきれいさっぱり捨てることです。しかし、きれいさっぱり捨てるのはそう簡単ではない。まず依存症を治す必要があるのです。依存症を治すためには、同時に自由にならなければいけない。「その自信がありますか? 勇気がありますか?」ということを、仏教は人間に対して問いかけているのです。

すべてが変化する無常の世界にあって、なぜブッダの教えだけが昔のままなのですか?

変化すべきものであれば、変化します。ブッダの教えも、すべては時間に試されています。時間の流れによって、いらないものは全部落ちるのです。変わるべきものは変わるのです。時間のテストからは、何一つも逃げられません。ブッダの教えも、お釈迦さまが堂々と教えたその時点から、時空関係の存在なのです。時間のテストにかけられているのです。仏教が変わらないということはつまり、「時間のテストにえらく耐久性があるのだ」ということでしょう。変えるべきことは何もないからこそ、時間の試験に耐えられる真理だと言えるのです。簡単に言えば、真理だから、事実だから、変わらないのです。変えられないのです。