あなたとの対話(Q&A)

一瞬の気づきとこころの清浄

パティパダー2009年10月号(146)

「一瞬、一瞬に気づくこと」を繰り返すことで、なぜこころがきれいになっていくのでしょうか?

それは、なぜこころが汚れているのかということを観れば分かります。
 
 なぜ怒るのか。なぜ欲があるのか。なぜ失敗するのか。なぜ興奮するのか。なぜ神経質になるのか。なぜ人は人を殺すのか。なぜ戦争が起こるのか。原子爆弾を作ってはならないのに、なぜ北朝鮮が原子爆弾やミサイルを作るのか。そんなことをすると、自分の国も大変でしょう。そんなお金や能力があるなら、貧しい人が豊かになるようにした方がいいでしょう。そんなにもプライドがあるなら、韓国よりも遙かに経済成長すれば、経済的に優れるようにすればいいでしょう。なぜ飢えているのに、ミサイルを作るのですか。なぜ国の財産を全部、一人が独り占めしているのですか。
 
 我々は、「なぜこころが汚れているのか」ということを、まず観るのです。観ると、愚かなことを考えているのです。見栄があったり、プライドがあったり、頭が悪いのです。物事を観ていないのです。自我があり過ぎなのです。俺だけよければいいと思っていて、自分の存在を破壊することをしているのです。いつでも、よかれと思って、自分のことばかりです。自分も、周りも、不幸になる生き方をしているのです。生かしている衝動は自分のこころですが、明らかにそれが汚れている。
 
 そこで、どこで汚れるのかと精密に観るのです。顕微鏡で見るようにこころを観るのです。そうすると、欲・傲慢・自我というのが見えます。さらに、なぜ傲慢になったのか、なぜ自我を張ったのか、怒ったのか、欲張ったのかと、顕微鏡の倍率を上げて観る。すると見えてくるのです。何か考えていた。思考していた。それによって、自我が現れたのです。
 
 人が喋った科学的な事実は、私にとってはただの音だけなのです。人が喉から音を出しています。私の耳には感覚があるのだから、その音を認識しているのです。聴覚が生まれているだけで、別にどうってことはありません。しかし、私が、その音を解説するのです。こういうことを言っている、この人の声は大きすぎ、乱暴だ。私を侮辱している。そんなことを言われる筋合いはない。などと、あれこれ自分が思考すると、ものすごく怒りがこみ上げてくるのです。何も思わなかったら、ただ音だけ。怒りがないでしょう。とても科学的・心理学的です。
 
 あなたは、体を誰かに触られたら、どんな反応をしますか?

触る人によります。

そうでしょう。自分の子供が触っても何のこともありません。子供がふざけて触っても、何事もないような感じで、仕事をしたりします。もし、電車で誰か男性が触ったら、大変なことになります。
 
 なぜ、ただ触れたことで、それくらい差が生まれるのですか。ただ何か物体が触れただけでしょう。なぜそこまで差が生まれますか。電車で誰か男性が触ったら、警察沙汰になる可能性まであります。そこで、いいとか悪いとかは置いておいて、このこころの中で、どんな機能が起きたのかと観るのです。すると、思考というものを発見するのです。
 
 思考というものが何なのかというと、ほとんど過去の出来事と、将来に現れるだろうと妄想する出来事なのです。その思考が、恐ろしく頭の中で自由回転するのです。だから、いつでも汚れっぱなしです。現在のことでも、思考すると汚れます。電車で誰かが体を触ったというのは、現在の現実です。今、触られたということですから。それでも、そのことについて思考すると、こころが汚れてしまうのです。それから、止まることなく、いくらでも我々は過去のことと将来のことを妄想する。
 
 それが汚れる原因です。瞬間瞬間の現象を観察すると、長い間温めてきた根拠のない妄想で解釈することはできないのです。汚れる暇はないのです。私たちは、長いあいだ起きた大量のデータを主観で認識して、ひとまとめにするのです。「あの人は私のことを嫌っている」と判断する場合は、長い時間起きた、瞬間瞬間の出来事をひとまとめにしていることです。瞬間瞬間で見ると、「嫌っている」という判断はできないのです。ですから、真理を発見したい人は、瞬間瞬間の現象を観察するしかないのです。同時に、こころはきれいになってゆくのです。

こころが汚れたとき、自分が汚れてはいけないとか、そういうことも思う必要は一切ないのですか?

それも時と場合によりますけど、たとえば怒りが出てきて、「今怒りがある」と実況すると、怒りが消えてしまいます。

確認するだけで、自分で解釈しない方がいい。

解釈しない。

それはどうしてですか?

それでストップするからです。機械のスイッチを切ればいいのです。

スイッチを切れば、自然にきれいになるのですか?

スイッチを切った状態が、きれいな状態なのです。
 
 きれいな状態というのは、無色透明なのです。すがすがしい気持ちとか、何もないのです。たとえば、透明なガラスがある。このガラスはどんな色を塗ったら美しくなるのかというと、どんな色を塗っても汚くなるのです。きれいなこころには、善悪はないのです。無色透明。確認すると、こころは無色透明になる。それは、本物の清浄なこころです。
 
 怒るべきなのに、自分が怒らないでいると、自分は善い人間だと気分がよくなります。旦那の不倫が見つかったのに、まあいいやと放っておく。毎日普通に対応して、いい奥さんで頑張る。そうすると、結構出来た奥さんだと自分でも思うし、周りも褒めたりして、気分がよくなるかもしれません。それは当然きれいなこころですけど、色がついています。
 
 清らかなこころの場合は、すがすがしい気持ちとか、私は善いことをやっているのだという気持ちさえもない。無色透明なこころが、本当の清らかなこころなのです。そのこころが、ヴィパッサナーによって瞬間に生まれます。きれいなこころは、生まれるしか他に選択肢はないのです。もしかしたらきれいになるだろうではなくて、確実にきれいになるのです。電気のスイッチを切ったら消えるのです。はっきりしています。思考を瞬間でも止めたら、その瞬間、こころはきれいです。
 
 それを続けて訓練していくのです。そうするとこころは、汚れない状態になってしまうのです。それを我々は悟りの境地というのです。もうそれからは汚れません。それには、智慧が現れてこないと。智慧が現れたら、汚れがないのです。智慧も、無色透明なのです。知識とは違います。知識は、溜めれば溜めるほど人生は重くなる。生きづらくなる。知識は、いくら学んでも忘れてしまいます。ややこしいのです。
 
 犬や猫はあれほど気持ちよく生活していますが、何の知識もありません。ちょっと餌をあげただけで喜んでしまう。人間はそうではないでしょう。我々は知識があるのだから、ややこしい。知識は、智慧ではありません。智慧は、重くはないものですね。何か入るものではないのです。理解できないかもしれませんけど、智慧も無色透明です。
 
 智慧は、知識に使えます。しかし、知識は、智慧ではない。我々は、たくさん学んでもいても、何か問題が起きたら、どうすればいいか分からないのですね。今まで学んだもので考えて結論を出しますけど、その時は時間が過ぎ去っているのです。もう遅いのです。
自分の家が火事になったら、しっかりと原因を究明して、ああこうすればよかったと見事に分かるのですが、遅い。次に造る家では、そうならないように気をつけても、別な原因でまた火事になるのです。それもスタディする。どこまでするのでしょうか。
 
 そのように、知識は人を助けてくれません。智慧は、問題が起きそうになると、その瞬間で閃いてくる。前もって準備したら困るのです。我々も時々使っています。手すりをつかまないで階段を下りる人も、ちょっと転びそうになった瞬間で、サッとつかむ。正しい答えです。しかし、考えていないのです。車が来ると、計算しないのです。ただ、よける。子供達がボール遊びをするときは、何のことなくボールをキャッチする。全然考えてない。それは凄い智慧ではないのですが、智慧の破片ですね。それは持っています。
 
 知識をストップすることが出来たら、智慧が完成しているのです。その人には、何の心配もありません。あれが不安、これが不安というのはなくなってしまいます。その瞬間で解決する。自由になる。智慧が現れたら、こころは完全に清らかになります。こころを清らかにする方法は、これしかありません。どんな宗教も言っている方法もあります。人を助けましょう、社会福祉活動しましょうとか。どこまですれば、こころはきれいになりますかね。朝早く起きましょうとか、みんなに挨拶しましょうとか。どれくらい挨拶すれば、こころはきれいになりますかね。それらは、世の中にある決まり事であって、こころを清らかにするには、それほど効果はないのです。この方法は全く別です。きれいになるしか他に、結果がないのです。なぜならば、こころは思考で汚れる。それは確実だから、思考がなかったらこころは汚れないということになるのです。

 そういうとてもシンプルな訓練です。実践してみて下さい。「私が怒っている」と思ったら間違い、思考です。「私が怒っている、怒っている」といくら言っても怒りは消えません。言う度に増えるのです。そうではなく、「怒り、怒り」と感情を確認する。2,3回確認しただけで、怒りがどこに行ったか分からないように、無くなっているのです。理由は、怒りを生み出した思考が消えたからです。「なぜあの人はこんなことを言うのか」と思って、その人が言ったことを頭で回転させたのだから、怒ったのです。それをストップさせたら、怒りが消える。原因がなくなったからです。その因果法則によって、こころは清らかになるのです。それはものの見事に、本物の清らかさになるのです。
 
 だから、ヴィパッサナー冥想の場合は、どこまででもやらなくてはいけない、ということはありません。こころは完全にきれいになるので、そこで冥想実践は完了するのです。他の世間の道徳は、完成できません。人を助けることで自我のない人間になろうと思っても、完成できません。自分の能力範囲で助けるだけで終わってしまいます。その時でも、助けられる人々の反応によって、こころがきれいになるどころか、汚れてしまう可能性もあります。助けられた人々が、口々に自分のことを褒め称えたりしたら、ドンドン傲慢になってしまう。助けてあげているのにそれほど反応がない場合は、何だこの人々は、ここまでしてあげているのに、と怒りがこみ上げてきて、元も子もなくなってしまいます。
 
 世界で説かれている道徳は、善いことに違いありませんが、完成できないという欠陥があるのです。道徳の完成と、こころを完全に清らかにするためには、唯一、確認作業しかないのです。この方法は、お釈迦様に「一本の道」と説かれています。それは、必ず、迷うことなく、目的に達するという意味です。どのように調べても、これ以上、効率の良い方法は見つからないと思います。