あなたとの対話(Q&A)

植物人間②:アニミズムと仏教/自由意志と無知/神の存在

2018年10月3日

ご多忙の中、早速ご回答下さった事に感謝します。
進歩した医療環境の中でどのように死を迎えるか、どこに治療の終結点を設定するか、は現代人にとって切実な課題です。確かに「植物状態」「安楽死・尊厳死」は現代医療技術の進歩が生み出した今日的問題ですが、初期経典が教える仏教の死生観には時代を超越した普遍的真理があり、この問題を考える手がかりを与えてくれるものと信じて質問した次第です。以下、長老のご教示について私のよく理解できない点と思うところを記してみたいと思います。補足説明して頂ければ、幸甚に存じます。
まず先の質問で「植物状態」と「脳死」との違いについて、私の認識に曖昧な点があったので、訂正させて下さい。「植物状態」は大脳が死んで脳幹・脊髄の機能は残存している病態を指し、「脳死」(「全脳死」と脳幹だけが死んだ「脳幹死」で、死の判定基準とされる)とは区別される。人間としてあるべき高次機能(欲求の発現・情動反応・自発運動・言語活動)は失われているが、呼吸・血液循環・消化・排泄などの植物性機能は認められ、非常に乏しいものの、外界の刺激に対する防御反応があり、自己修復機能が働きます。

●こころ(外界を認識する働き)が身体という物体を媒介して刺激を受けているならば、生命である。従ってこころの機能の高次・低次に関わらず、植物人間も「生きている」とみなす事ができる。
★こころが外界を認識する働きだと定義する「机と私」の例えは、生命があるかないかの区別を説明する点で疑問があります。そこでは「地球の物質でできているという点で同じ机と私の違いは、机は自分も回りも認識しない事である」と述べられています。一方「見る、聞く、話す、考えるなどのこころの一部の機能がなくても生きている事には変わりない」とも述べられています。確かに机には自己修復という生きる機能はないように観察されますし、泣いたり笑ったりしたという話も聞いた事がありません。だからといって、机に外界を認識する働きが全くなく、意思がないとどうしていえるのでしょうか? 机に話し掛けても人間なんかとはコミュニケーションしたくないから金輪際答えないだけかもしれません。私がこんな馬鹿馬鹿しい屁理屈をこねるのは、日本人の思考にアニミズム(有霊観)の影響があるせいで、生命の有無についての区別が曖昧なのではないか。外界を認識する働きが認められない脳死体でも、生命維持装置をつないで心臓が動いている内は死亡を認めなかったり、移植用の臓器提供を嫌悪するのではないかと思ったからです。

アニミズムと仏教
ぬいぐるみもお人形も生きていると思う立場からは真理を語れません。
日本人がアニミズムだから事実をそれに合わせて下さいというのも良くないでしょう。世界的な偉大なる力を昔からもっているカトリック教会のために「地球を再び平らにしてもらうことはカトリック教会も望みません。気持ちはわかりますが、日本人の感情だから机にも霊魂、魂があると普遍的な真理として認めなさいと言われても困ります。

私は「私」という実感を土台にしてお釈迦さま仰るmateriality and mentality(純粋物質とこころの働き)を区別して理解していただくために「机と私」の例を申し上げたのです。机が机なりのアイデンティティをもって生きているかないかは私はわかりません。「私」の認識手段の範囲で机が私とコミュニケーションしない。故に私がどのように調べても机が生きていないという結論になるのです。

私の認識手段(means of knowledge)と軽く言いましたが実際は生命が持っている認識方法を意味します。ですから全ての人間に机が生きているとは言えないというassumptionに論理的に達することができると思います。

そちらには「机が生きている」と示す証拠が何一つもありません。百パーセントの証拠がないかも知れませんが、私には状況証拠は無数にあります。ですから限りなく百に近いのです。(百ではありません。)ゼロ対一でも一のほうが有効です。

(仏陀によると)真理を知りたいと願う者は、以下の感情で理性を揺るがせてはいけません。

  1. (chanda)好み、好き嫌いなど
  2. (dosa)怒り、嫌という感情、「仲間の意見ではありません、敵の意見です」、などです。
  3. (bhaya)脅威感、恐怖感-相手が怖いから意見をねじ曲げること。
  4. 無智

です。芯が強くなければ真理には縁がないということです。

アニミズム:
古から色々と形を変えながら世の中に存在する現象の一つです。日本の場合は気に入っているものに魂はあると思いますがあまり気に入らないもの、またかわいくないものに対して霊的な力があると思っていないようです。また善悪感も、幸不幸感も、ものに物体についているようです。
現代では子供たちを迷信に、不幸に走らせるために漫画の世界でよく使われている概念です。

紀元前5-6世紀あたりで、インドの宗教界でも特定のアニミズムが発展したのです。それは万物に同一の霊、魂が宿っているということです。Upanishad哲学の主な思想です。「真我一如、一切は一、梵我一如」云々のことばで今でも信じている概念です。Sanskrit語でtat tvam asi; etad mama; などの言葉で表現しています。
インドのJaina教でもすべての物質に魂があると硬く信じています。
殺生を恐れてjaina行者がホコリ(塵)は少々あるところにも座らないのです。身体を洗うことも、歯を磨くことも禁止です。
これらの思考は私によると、アニミズムの哲学化です。「思考(妄想)可能なものは全て事実だ、証拠は要らない」という立場ではないかと私が思います。故に[哲学もどき]です。

全ての西洋文化の中にもアニミズムが見出せます。
アニミズムを信じたい人は信じればいいのです。
仏陀の立場は違います。善悪、幸福不幸、云々はこころの働きであって物質の特色ではないのです。しかし仏教徒のなかにもある程度でアニミズムが存在することも知っています。

私が言います。「机に魂がない、霊魂がない、意識がない、外界を認識しない」 と。
反論者がこのように述べます。「それは机があなたとコンタクトを取らないから言っているのであって「ない」ということにならない」 と。

私が言います。:コンタクトは全くもない。皆無です。
ですから生きているかないかは断言できないのは確かです。認識主体である私は自分の物体の中にある認識機能を区別理解する上で対照して見ると
1.私にも机にも共通するもの
2.私にはあるが机にはないもの
と言う二つが成り立ちます。

自由意志と無知
★老化・痴呆の問題等についての段で「自由意志も結局は無知」「いのちの尊厳というわけもわからないことば」と述べられている箇所があるのですが、長老は「自由意志」や「生命の尊厳」という概念を怪しいと考えておられるのでしょうか。実は医療福祉の世界では、これらの概念は介護の理念を支える重要なキーワードとして金科玉条の如く、かつ無批判に用いられているのです。介護保険制度施行以後「恩恵の福祉(措置)から権利の福祉へ」と意識改革が唱えられました。介護サービス利用者(老人)は天賦の「自己決定権」に基づき、サービス提供者と契約して個人の「自由意思」によって自らの余生の過ごし方を選択する事ができるとされた。またターミナルケア(終末期医療)の現場においては、末期患者のQuality of Life(QOL:生命の質)を重要視する観点から、生物学的延命至上主義よりも「人格の尊厳」を維持した上での安らかな死の方に価値を置き、Living Will(患者が生きている内に自己決定した、末期になった時に法的に発動する遺言)を前提としたDeath with Dignity(尊厳死)を容認する方向にあります。この思潮は一神教を背景にした西欧個人主義的人間観に基づいたものらしいので、個人主義と自分中心主義の分別もない日本社会に無批判に輸入するのは如何なものか。そもそも私たち自身が貪瞋痴の支配下にある事に無自覚なまま、自らを省みることなく無条件に「自由意思」「自己決定権」などと概念を振り回せば、エゴイズムに堕するだけではないか、と私は疑問を抱いています。

コメント:
前半:自由意志も結局は無知です。私たち初期仏教を語る人々は自由意志は「智慧、悟り、解脱、涅槃」だと思っていません。輪廻転生している衆生の自由意志は無知です。無明です。(失礼なことをいっているのではないのです。殺人を犯す人の自由意志は善だと我々はいわないのです。)貪瞋痴でありながら、「人の自由意志は無知です」と認めたくならない気持ちは(あるならばの話)無知もいいところです。

いのちの尊厳:
我々は論理的に、合理的に、具体的に、客観的に、普遍的にものごとを観察して、「人はどのようにして生きていれば良いのでしょうか」という倫理の問題を解いています。 --衆生が幸福でありますように。互いに罵り合ったり、軽視したりしないように-- などです。衆生と言えばall inclusiveであって一つの生命でもexclusiveではないのです。いわゆる文字通りの 「全て」 です。

結論は、「仏教は命の尊厳を語っています。」ということになります。
この立場から大変深く研究、勉強をなさって命の尊厳を語っている質問者の話は曖昧で、訳もわからないことになってしまいます。
魚を殺して食べると魚には生きる権利がなくて食べる者にのみ生きる権利があるのです。戦争するときは敵には生きる権利がないのです。
この世の中で言われている「命の尊厳」は比較的、対照的なものです。何かの命に何かの命を比較して一つには尊厳なし、もう一つには尊厳ありということです。
いのちとは何なのかと具体的な普遍的な定義もないのです。あるときは一部の人間だけに価値があったのです。時代が変わると他の人間にも何かの儀式によって命の価値を得ることが出来るということになったのです。
又時代を経ると人間には普遍的に命の価値を与えられたのです。また現代になってくると動物にもそのときの気持ちによって価値がある、また無いということになっているのです。その時、その時の感情でしゃべっているのではないかとも思わずにいられないのです。

現代は全てを決める、定める神様が「金(カネ)」です。少々品のある言葉を使いましょう。「何かを決める時、そのことをもたらす経済的効果は重大なポイントになります。」Death with dignityは恵まれた方々の特権です。ほどんどの人々にあるのはchance to die early です。QOLについて語る必要もないのです。AIDSを抑える薬はありますがアフリカの人々にそれを使う権利がないのです。何人かの開発者の権利は(理由はどうであれ)多数の人々の命より重いのです。(徐々に変わるだろうとは思いますが)
私の意見をこのようにまとめます。
尊厳云々という方々は「命」定義をもってない。曖昧です。命の価値は対照的に決めています。(a relative value for life).仏教の立場は以下の通りです。

  1. 命の価値は全ての生命に平等です。生きる権利は一切の生命に平等にあります。
  2. 一つ一つの生命は個ですので生命は等しいではないのです。
  3. 生きるという行為自体は「苦」の回転です。故に、生命が必死で生きようとしても何の特別な意味もないのです。「無意味」と言うことです。
  4. この生きるという悪循環を乗り越えようとするならばその生き方は有義です。

以上。

後半:
異論はありません。老人に対するケアは嫌で、でもやらなくてはいけないので、納得するために理由探し? このような態度にならないように気をつけたほうが良いと思います。死ぬまで生きるために協力してあげることは道徳です。仏教はゴチャゴチャ考えないのです。ゴチャゴチャ考えることは偽善です。

神の存在について
帰国を控えてご多用の長老に、無知丸出しの質問メールを度々送り付ける事をお許し下さい。今をおいていつ疑問を解決する機会があるのかとの思いが強いため、非礼を顧みず質問する次第です。
先日〝福祉先進国〟スウェーデン在住の福祉関係者と、介護の理念を支える北欧文化の宗教的背景について話し合う機会があり、その席で北欧のキリスト教(プロテスタント)教義と私が聞きかじったテーラワーダの教えとの比較論議になりました。私が彼をやりこめるつもりで、長老の受け売りで「唯一絶対神がこの世界を創造したのなら、そもそもその神を創ったのは誰ですか?」と問い質したところ、彼に「では輪廻転生のシステムを創ったのは誰なのか?」と問い返されました。私がうっかり「誰が創ったというものではなく、人間の時間概念では計れない〝昔〟からあり、答えられない」と言うと、彼は「神もそれと同じで、誰が創ったというものではなく、人間の知り得ない〝初め〟からあるもので、答えられない」と逆襲されてしまいました。その場は「そんな小事にこだわらず、倫理・道徳的に善いところを認め合って仲良く協力していけばいいのではないか」という結論に落ち着きました。私には彼の論理が正しいと思えるのですが、一神教に対する根本的疑義と信じていた「万物創造神は誰が創ったのか?」という問いは無効なのでしょうか。

絶対神を信じる専門家との対話が違います。私は普通の方々に言っている論理だけで彼らは納得いかないのです。あなたは簡単に他人の理屈に乗せられたのです。対話するときは意見は誰のものかとしっかりしておかないと「ただのアホどものおしゃべり」になります。

「創造しなくては存在はない」これは一神教教の立場です。仏教の立場ではないのです。最近創造論者も輪廻を信じることにしているのだから、この点では恐らく日本人より強いかも知れません。いかなる概念を出しても「創造しなくては存在しない論者」は「それを作ったのはだれですかと聞くのです。宇宙の生命のありようをどのように、証拠をだして説明しても「それは神様が作った」と返すのです。自分の教えの間違いがいくら出てきても彼らは行き続けるのです。…一つ以外は全てのものは創造したから存在するのです。…いたちごっこです。…神の存在を証明するための証拠は一つもありません。…という立場も彼らのおかげで永久的に生きているのです。

仏教の立場:
何一つも創造する必要はありません。諸因諸縁そろったら結果です。新幹線も飛行機も誰かが創造した訳ではありません。人間の思考、能力、物質などが物質の法則にしたがって集めた、揃っただけです。いまだかつて無かった新幹線がある日突然創造された訳ではありません。何かから何かが生まれるのです。創造というのは無、皆無状態から有を作ることです。一神教はこれほど明確ではないのです。かれらが絶対的「有」が無から現象的な有を作ったというのです。その時、絶対的「有」と「無」の関係が消えますが、彼らはこのことを無視するのです。これからはhair splitting philosphyになりますから止めます。

「輪廻は誰が作ったか」と伺った人も並みの「アホ」ではないと思います。その人は輪廻は「ある」、実体として存在すると勘違いしているのです。すべてが「ある」という立場でしか考えられないひとです。輪廻は独立して「ある」ものではなくあり方の説明です。方程式です。方程式はどこにも存在しません。故に、作る必要はないのです。

例:三角の面積を計算できますね。私は1/2*base*heightと覚えています。(日本語ではわかりません)それがだれかが作ったものではありません。どこにも存在しません。具体的な三角形があるときこの真理で、方程式で面積の計算するのみです。衆生の運命も輪廻の方程式で理解するのです。だれかが勝手に方程式を作っても三角形の面積の正しい計算できません。頭の良い一人があるものを発見しただけです。三角形の面積を計算する方程式をだれが作ったのですかとその人に聞けばよかったのに。

例2:無常はどこにありますか。どこにもないのですが普遍的な真理です。ここにリンゴがあります。このリンゴが無常です。いかなる現象でも(神でも)あるならばそれは無常です。無常はあるもののあり方の方程式です。独立して存在しません。

その場は「そんな小事にこだわらず、倫理・道徳的に善いところを認め合って仲良く協力していけばいいのではないか」という結論に落ち着きました。

その通りです。仏教徒は無駄話をしないで時間を有意義に使います。得られる物を得て互いに理解して仲良く終われば良いのです。反論と言うのは一方的に攻撃されたときのみするものです。とにかく、車の運転免許をもっているからといって飛行機操縦をしないほうが安全です。
以上
スマナサーラ

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