あなたとの対話(Q&A)

植物人間③:人倫の根源とは?

2018年10月3日

ご回答、ありがとうございました。「老人ケアは嫌な事だが、やらねばならないので、納得するための理由探しに陥らないように」とのご忠告に感謝します。私は初期仏教の哲学が正しく、私の知る限りの他の宗教・哲学と比較して最も明解で納得できるものだと考え、選び取ります。従って全ての生命に平等に生きる権利があり、慈しみの心を持って接するべきだという道徳を支持します。それにケチをつけるために、ゴチャゴチャと偽善的に(うわべを飾って、心や行いが正しいように見せかけること)、為にする異論を唱えているつもりはないのですが。
●私が植物人間の生命の価値について質問した動機は、敢えて人倫の根源を明らかにしておきたいと感じた事にあります。若い世代から「なぜ人を殺してはいけないのか」「命はなぜ大切なのか」という世間を挑発する問いが発せられて、親世代が上手く答えられなかったという事が、一時マスコミで話題になりました。この事に表されるように、普通に平和な秩序に支えられて生きている大多数の人にとって、 道徳は基本的な共同体のルールであるにも拘らず、その倫理規範の根拠について問い詰めて考える事は自らの生き様を真摯に検証するエネルギーを要する作業であるため、 私たちは日々の暮らしのスピードに流される内に、その手続きをいつの間にか棚上げにして済ませてしまっていたようです。 無批判的に当たり前と思われていた人倫が、世代交代する間に上手く語り継がれなかったためにその意義が曖昧になり 、崩壊の危機に瀕した今、その根源を改めて問い直される状況 にあるのではないでしょうか。

突然世の中のことに興味を抱いた事が幸いでございます。以上お語りになっている全てのポイントに対して初めからも、皆の批判を受けながら語ってきたつもりですが、皆様方の耳にもやがて届くことを祈願いたします。今、同じ話のreplayをしたくないのです。

私の話に納得が行かないかも知れません。それは単なる私の日本語能力の乏しさによるものでもないのです。単語の定義にも大きな原因があります。

以下私の辞書の一部を書きます。
道徳は基本的な共同体のルールである : これは「井戸の中の蛙の論」ともいいます。道徳を否定する人々の謳い文句です。理由:共同体のルールである場合はその時その時、人々のご都合によって変えるものです。ですからある社会の人間が「人を殺して何故悪い?」と思っても非道徳ではないのです。道徳そのものです。
道徳に二つの側面があります。
1.Universal aspect. (Morality is natural law of living and no any living being can change the natural laws. Therefore morality is independent and unconditional)
普遍的な側面:生命の基本的な法則で変えることは不可能です。道徳の有効性は独立しています。 例:殺すなかれ、怒るなかれなどです。(生きることは生命の目的ですから殺すことは逆方向への行為になります。)
2.Social aspect. (A society sets rules and conditions for the members of that particular society aiming the benefit and progress of that particular society. Therefore other people are not bound to adhere to these rules and conditions. On the other hand that particular society can change their rules as they wish. Therefore the morality of the second type is dependant and conditional.)
社会的側面:社会がその社会の繁栄のために決める道徳です。別社会がそれを守る必要がないし、道徳を作った社会にもそれを適宜に変えることもできます。
例:仏教の出家社会では皆に性行為を禁止しています。他の人々がそれを守るべき義務がないのは当たり前です。

私たちは日々の暮らしのスピードに流される : 先進国々だと自称している人々の悲しい泣き声です。目隠しをしたサルの尾っぽに布を巻いて油に浸けて火を付ける。それからお尻を強く叩く。この場合のサルの生き方を人間がするときこの言葉を使います。本人にとってはすばらしい生き方ですが、後進国々人々にとっては面白い出来事です。(巻き込まれるアホもいますが)

無批判的に当たり前と思われていた人倫が : 単なる嘘つきです。昔からも人は道徳を理解もしなかったし、認めてもいなかったのです。隙を見つけて犯してきたのです。その歴史的事実を観察しようとしないで感情的にうそをついているのです。昔の人々は腰抜けで、「地獄に落ちるぞぉ」、「閻魔さんに舌を抜かれるぞぉ」、「罰が当るぞぉ」などを信じて悪いと思われることを犯すのは恐れ怯えたのです。腰抜けではなかった人々は正々堂々と人殺しもその他の悪事も犯してきたのです。子孫である現代人は「地獄に落ちるぞ」などの考えを笑い飛ばすのです。しかし昔の人と負けないぐらい 道徳的です。現代人はたいしたもんだなぁと思う。

世代交代する間に上手く語り継がれなかったためにその意義が曖昧になり : 語り継がれなかったのは確かです。意義は昔からも曖昧でした。いまさらではないのです。

その根源を改めて問い直される状況 : 忘れ去った過ちに戻そうとする思考です。火遊びをして焼傷した人に再び火遊びを推薦することみたいのです。

私の辞書を開けてみるとかなり隔たりがあることがお分かりになるでしょうか。

●私が「机と私」の例について抱いた疑問は「アニミズムを否定する(無生物と生物を截然と区別する)根拠はあるのか」という事でした。「観察の結果、机は心を持っていないように見える(心を持っている証拠が一つもない)から無生物である」と結論を出すのではなく、「初めから机は無生物であると先入観を持って観察したせいで、心を持っていないように見える」おそれもあるのではないかと思ったのです。それに対するご回答の主旨は「アニミズム否定説(机は無生物であると断定する)の確証はないが、否定説の方が状況証拠が多い分有効である」だと受け取りました。理解不足の点があれば、ご指摘下さい。

学術的な社会の普通のモラルに従って自分の結論を発表する方法です。知識人は「はっきりと否定している」と理解するのです。

★ご回答の内「私の認識手段(means of knowledge)と軽く言いましたが実際は生命が持っている認識方法を意味します。ですから全ての人間に机が生きているとは言えないというassumptionに論理的に達することができると思います。」 の所が良く分かりません。「私の認識手段」イコール「生命が持っている認識方法」とは言えないのではないでしょうか。私が持っていない認識手段、たとえば霊感やテレパシーと言う認識方法を持っていて、木や石などの無生物とコンタクトした(アニミズム)と称する人々がいるようですから。

あなたにEpistemologyの講義をするつもりは毛頭ないのです。自分で勉強して見てください。初期仏教のEpistemologyについてProf. K.N. Jayatilleke, Theory of knowledge in early Buddhismという本があります。それに勝るテキストは恐らくないと思います。また日本語で各宗派の認識論について研究した本も沢山ありますが今思い出せるのは水野弘元教授の『認識論』と言う本です。西洋の思想の場合はいくらでも調べられるでしょう。

石とコンタクトした人々がEinsteinよりも、Jesus様よりも、仏陀よりも信頼できて智慧があるとするならばその言葉を信じるしかないのです。私は個人的に反対ですが信じたい人は信じてください。その霊能力を持っている天子たちが自分の奥さんと、又子供とチャンとこころを通じているか調べて私にも報告してください。
仏教は「人がこういう、ああいう、あなたはいかがですか」と尋ねるとお相手をしないのです。本人の意見ではないから何を言っても無駄でしょうし、本人には関係ないでしょうし、ただの無駄話に、噂話になることで終わってしまうのです。
高度な教育を受けている、インテリの方々がよくなさることですが私たちにとっては付いて行けないのです。
スマナサーラ

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