あなたとの対話(Q&A)

神々について

仏教では絶対的な神は否定されてますが、例えば初期仏典にも数多く出てくる、仏陀に教えを乞うような神々などは、どういう風に理解すればいいのでしょうか?

*場所が違うので答えは求めませんけれども、日本の仏教には『仏教の守護神』として堂々と祀られてる場合も多々ありますけど、それと同じような考えなのかなあと思うのですが。

梵我が否定されるなかで神々といった表現が出てくると少し戸惑いを感じるのが正直な気持ちです。個人的には、当時の一般人のインドの風習としてのバラモン思想のなかで、仏陀の教えを分かりやすくするために、例え話し、大乗仏教でいう方便でしょうか? そのようなものだと理解しています。

> 仏教では絶対的な神は否定されてますが、例えば初期仏典にも数多く出てくる、仏陀に教えを乞うような神々などは、どういう風に理解すればいいのでしょうか?

「神様助けて」
絶対的なすべての生命の親分(Godhead)のような神という概念は仏教にありません。
すべて因果法則の結果なので生命に上下はありますが中心的になって支配するものはありえないのです。だから、わざわざ「神がいない、神がいない」と余計な大騒ぎもしないのです。(お釈迦様は)(私は別ですが)

Absolute spirit, Absolute God, Infinite soul, 絶対的な霊魂、魂なども成り立たない。
因縁によって現れるものだから「絶対的」となるものはないということです。因縁、条件などか変わるとその存在もかわってしまうのです。

仏教は「神」はいないというより、絶対的なものはないという点を煩(うるさ)いほど強調するのです。永遠不滅、変化しない実体、(eternity)は徹底的に否定しているのです。人間どもが信じている「あやふやな神」にケチをつけようとする「こどもの喧嘩」ではなく、「絶対的、永遠不滅実体としての存在」(eternal existance, eternal substance, permanent soul)というものは「成り立たない、逆である」と具体的に説明していくのです。この論理の結論として「神」がいなくなるのではないのです。それは副結論なのです。結論は「すべての現象は無常である」ということです。考える前にこの立場を理解しておきましょう。

絶対的な実体としての「我」(神も含む)だけではなく我々個人にも「我」がないといっているのです。永遠不滅の何か自分にないことぐらい調べれば簡単にわかるものです。

理解の仕方:
宗教で言う「神」、そのその宗教の教理学的な説明の結果でしょう。
存在の構造を私たちアホどもに分かりやすく説明して上げようとしているのです。そこで、王に支配されている日常の生き方、家族構造などから単細胞の人間に親分思考が浮かんでくるのです。それぞれの文化の中でいろいろな名前で絶対的な「神」を想像しますが、性格が違う、名前が違う、救い方が違うのです。

仏教は別な思考体系ですので、他人の宗教的な思考を認めないのは当たり前です。認めないのだからこそ仏教と言う教えが現れたのです。しかしですね、人と話すとき皆知っている言葉を使うのです。アブラカダブラと話してもコミュニケションがなりたたない。
巨大な宇宙の中で、巨大な存在体系のなかで、無数の次元の中で人間だけ生命だと仏教は言わない。他の太陽系のなかでも我々と似たような生命があることを何の躊躇もなく語っているのです。仏教の神々という存在は他の太陽系の生命体でもなく次元が違う生命のことを意味しています。次元が違うとその存在は三次元しか知らない私たちにわかったものではないのです。

それで、その次元の違う生命のことを人間に語ろうとした場合、皆日常で使っている便利な言葉があったのです。それは「神」です。
インド文化では、他の宗教思考のなかでは、民間信仰のなかでは、人間以外の生命(いても、いなくても)を意味する言葉があったのです。Deva, yakkha, māra, brahma, gandhabba, kumbhaṇḍa, pisāca, peta, nāga, kinnara などです。お釈迦様が実際にあると理解なさった(仏教の存在構造の構想から成り立つ)次元の違う生命のことを紹介するときは普通の人々が使っている言葉の中でいくらか合う言葉を選んだのです。
言葉は同じですが中身は違いますということになります。同じ言葉を使うと最初は簡単に理解できてありがたいことですが、説明抜きに教えの言葉が流通すると「あちらの思考はこちらに流れる、こちらの思考はあちらへ流れる」というあまり好ましくない交流が起こるのです。

DevaとBrahmaが仏陀の時代の主流の宗教の概念でした。
・人間が羨ましがる、生まれ変わりたくなる次元はdevaで、
・欲を捨ててsannyasinとして出家して修行に励む人が生まれるところはbrahmaでした。
仏陀も在家で徳を積む人々が行きたくなる次元はdevaにしたのです。
瞑想でもしてsamādhiを作った人が生まれる次元はbrahma世界だとおっしゃったのです。

しかし、Hindu世界のdevaとbrahmaがそちらの教理学的から成り立ったものであり、仏教で意味するdevaとbrahmaは仏教思想から成り立つものです。それぞれことばが似ていても言っていることはかなり違うということです。(Hinduのbrahmaは永遠で創造主ですが、仏教のbrahma達が仏教であろうが、他宗教であろうが瞑想をしてサマーディに達した人々が生まれる次元で、業が終われば死ぬのです。

ですから、仏教の神々というものは次元の違う生命だとすれば如何でしょうか。生命だから、だれでも業によって生まれ、後に死ぬのです。

では、仏典の神々:
違う次元の生命だとすると悟った仏陀から教えを乞うことは何の不思議もない。(これは宗教的な説明)

現代的に考えるなら。
「神が問う。師が答えて曰く」格好いいでしょう。
だって、この世界で「神が言った、神が言った」というものを観ると陸(ろく)なことを言ってないでしょう。おかげで戦争も、差別も人殺しも起こるでしょう。その上、脅しも、搾取も、支配もなんでもあり。予言もするがすべて外れる。愛だといっても世界は残酷構成。神は「アホと違いますか」?

そこで悟った人間が、問題を解決した人間が、苦しみを無くした人間が仲間に生きる道を語る。分かりやすくて、更に、証拠済みでしょう。
(私の妻に―いないけど―誕生日に何をプレゼントするべきかとCoste d’ivoireと言う国の田舎の村長が教えてくれる必要がありますが。)自分の妻だから何が欲しいかと「アイツ」より「コイツ」しっているのです。大きなお世話です。人間がどのように生きるべきかと人間の先輩のみ知っているのです。「神の言葉を聞いた」と幻聴病で病んでいてデタラメを言って馬鹿な人類をだましている宗教哲学世界を仏教の人々が「にこっと笑って」鋭く抵抗しているのではないでしょうか。

ある日、Kosala王が仏陀に伺ったのです。
王:「尊師、deva、devaとよくこの世で聞く言葉ですが、本当にdevaがいるのでしょうか?」
尊師:「世の中でそのような考え方もあるよ。」
王:「私はdevaがいるかと伺ったのに、なぜ尊師は―このような考え方もあるよう―と答えるのですか?」
尊師:「『このような考え方もあるよう』と答えが返ったら、知識人は『devaがいるのだ』と理解するんですよ。」
(注:世の中の思考は全くも勘違いであったなら、仏陀がはっきりと否定するのです。同じ言葉を使っていたので他宗教の概念も流通することでお困りになったようでね。)

>*場所が違うので答えは求めませんけれども、日本の仏教には『仏教の守護神』として堂々と祀られてる場合も多々ありますけど、それと同じような考えなのかなあと思うのですが。

まあ、守り神が。守ってくれるなら、ありがたい話じゃないの。その神々と言う生命に他の仕事がないの。暇があるなら、または人間のお供えがないと生計を立てられない貧乏であるならば、しっかりがんばってもらいたいね。
しかし、「守ってくれる」とは非仏教的な概念だと一概には言えないのです。
生命と生命の関係の中で「守って上げる」も「守ってくれる」も通じるはなしです。(出来るかないかは別)(母は子を守ることはちゃんとやってはいますが、本当に守られますか)
お釈迦様が名をあげた神々に守ってくれと願っても、「君達、先輩ではないか。後輩を守るのは筋(道)でしょう」という言い訳が成り立ちます。まるごとHindu教の神々を祀って守護神だいっても(何か言いたいのですが、止める)仏陀の思想の流れとは違うと思ってしまうのです。M教では風神、火神などもいるでしょう。(オマケに中国の龍もいます。)これらの神々は初期仏教では否定の対象です。

> 梵我が否定されるなかで神々といった表現が出てくると少し戸惑いを感じるのが正直な気持ちです。

賛成です。
だって、論理的に勉強しろと言っているのに、「これは何だ」と言いたくなるでしょう。カルチャーが違うというところかなぁ。

> 個人的には、当時の一般人のインドの風習としてのバラモン思想のなかで、仏陀の教えを分かりやすくするために、例え話し、大乗仏教でいう方便でしょうか? そのようなものだと理解しています。

分かりやすくするために、方便を使うときは「逸話」にするのです。
「おはなし」の場合は「ウサギちゃんはあのバラモンにこのようなことを言った」としてもなにも悪くないのです。逸話はテクニックであって嘘ではないのです。(事実でもないが。)

実は「仏教から見た生命」というテーマになると、deva,brahmaというラベルを貼るべき生命もでてくるのです。輪廻の概念からすべての人間は死んでまた人間として生まれ変わると言うと数学的な合わないのです。一つのアリ塚のアリたちが殺虫剤かけられて死にまして、皆人間になって生まれたとすると、人口はどうなることでしょう。こころの色々次元のことも説明してあるでしょう。瞑想したら、8種類のサマーディが生まれるとかあります。悟ってないその修行者達が亡くなったら行く場所? そこら辺の人間で生まれ変わると言うと業論はつぶれます。因果法則から見ても行為によってふさわしい結果がでるのは筋でしょうに。

ですから仏教から見て成り立つdeva達もbrahma達もいるのです。人間にはこころの次元を高くすることが出来る。そうなると違う次元の生命の心の波動を感じることも、期待すれば、可能です。(分かってもどうということもないのですが)

そこまで、「私は良く分かりませんが、そのような話も仏典にあることはあるのですが」でストップすれば落ち着くでしょうと思います。

追加:
仏典で神(deva,devatā)、悪魔(māra), 神霊(yakkha)が登場するところで、それはどなたかの人間だと思って、置き換えて、読んで見てください。それでも仏陀が教えることの意味が通じると思います。(では試しに、キリスト教から、神と奇跡を抜いて読んでみてください。理屈が崩れるのです。)この差が仏教の神々に対する態度です。(少々説明が要るところですが勘弁してください。)
幸福でありますように。

Sumanasara

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