あなたとの対話(Q&A)

ヴィパッサナー、私に無理では

私は最近スマナサーラ長老のご著書を拝読して、初めてテーラワーダの存在を知った者です。ヴィパッサナー瞑想法のやり方は難しくないという事なので、私にもできるかもしれないと興味を持ちました。
ところがそれはやはり奥が深いもののようで、書き込みによると学識に優れ瞑想指導の専門家である長老にしてまだ修行途上にあるとのご認識(ご謙遜でしょうか)。ましてや私など。。。と正直無力感に襲われています。
吾身を他人と引き比べる事は愚かで、将来の結果を心配せずに兎に角できる事からはじめてみようとは思いますが。。。

Just give it a try!(ただやってみてください)
Vipassanā瞑想であるならば、一応紹介できるという自信があります。
修行する人に一人が全責任を持って指導する習慣はTheravāda世界ではないのです。個人差、言葉の使い方、気が合うかないか、互いに理解しているかないか、指導者に相手の心を奮い立たせることは出来るかないかなどの問題があります。
ですから、ある先生のところで、うまくいかないと解ったら、本人もやる気でいるなら、他の適切な先生にバトンタッチしてもらうのです。他の先生のところからくる人にもその先生のところで進んだ位置から進むようにするのです。
一人にしがみつくのではなく、仏法僧全体に自分を任すのです。我々皆の指導は仏法僧であります。個人崇拝はTheravādaではないのです。(個人には個人好みの先生がいるかもしれませんが)

ある一人の人が「すべてを知っているのだ、最終解脱者だ、神様だ」としがみつくと危険であることはすでに解っていらっしゃると思います。これはカルト宗教の特色です。初期仏教はカルト集団でもなく、新興宗教でもないのです。
確固たる歴史、文化、思想体系、実践方法を持っているとても古くから途切れなく伝わっているシステムなのです。
個人には、例え、最高の位の僧侶であろうとも、絶対的な権威は全くないのです。それはサンガ全体にあることです。それでも、仏陀の命令に背く、改良する権利はサンガにもないのです。

立場はこんなもんだから、教える羽目になっている出家者は徹底的に自分を控えなくては(―自分が存在しないような気持ちで―)ならないのです。
浅知な方々は我々はどれほどの決まりを守らなくてはならないと知らず興味半分ではなく、興味全分で質問します。それに答えようとして出家者の今までのすべて生き方、これからの生き方を台無しにするわけにはまいりません。
無責任な、いい加減な人々のおかげで前にもサンガから「叱り」かけられるようになったことがありました。俗世間の愚かさと付き合う技、色々知っています、身の安全のために。以上、仏教の指導者達の立場で、心構えです。

ですから、Vipassanāをがんばってみてください。
例え私は愚か者で全くもだめな人間であっても、あなたの道は脱線することはないように、偉大なるお釈迦様に必要なガイドライン決定されています。仏法僧に守られて、導かれるので安心してチャレンジしてみては如何でしょうか。

「あの人にもできないから私に出来るはずがない」は理屈ではないのです。「あの人に出来なくても、もしかすると私に出来るかも」は論理です。
(隣の家の人に数学の勉強できないから、私に出来るわけではない。これは成り立ちませんね)
三宝のご加護がありますように。

Sumanasara