あなたとの対話(Q&A)

業と平等

2018年10月7日

一言
巻頭法話76「なぜ私は不幸になるのでしょう」 の話の中のマハーカーラの所ですが、マハーカーラを自分の友人とか家族とかに置き換えて考えた場合、「過去世においての悪行により今世で不幸になった」などと言われたら、それこそ納得できないと言うか、頭に来ると思うのですが。
お釈迦様の言われたことは真実だとしても、それを引用する側に適切な配慮がないと、このように私のような疑問を持つ者がでてくるのではないかと思います。
地震や愛媛丸の話と同じ所にマハーカーラの話をするのは配慮に欠けるのではと思いますが。どうでしょうか。

■(管理人・注)この質問に関連し、掲示板 「質問・議論 BBS」で応答が続いた後、スマナサーラ長老からのご回答を戴いたものです。
記録としてこのスレッドをHP内に残しておきます。 → BBS No744~

「あるのは物質のみだ」とする人には、この話は関係がありません。仏教はこころは優先で、全てを支配しているのだという立場です。

今の瞬間に「私は」いると言うことは前の瞬間が消えて今の瞬間が現われたということです。今の瞬間があるとするならば次の瞬間も現われるでしょうと推測できる。しかし、過去の瞬間=今の瞬間ではありません。ということは、すべてが変化してゆく。

今世で生まれた瞬間があったとするならば、それ以前の瞬間も確かにあったのです。そのように、無限に存在が回転することを輪廻という語であらわす。始めの瞬間は成り立たないが、今の瞬間を変えることで次の瞬間も変わりますから「輪廻」を終わりにすることは論理的に可能です。

業が生命の意識的な行為なのです。無意識的な行為、意図しなかった行為はこころの意志と関係がないので、純粋な行為だけでは業にはなりません。

それで、過去は全ての生命に同じですから、業の量も全ての生命に同じではないでしょうか。しかし、無量に過去の業があってもそのすべてが今の瞬間で機能するわけではありません。
今、自分が置かれている状況、条件、生き方云々によって何かの業が active になるのです。それが、善い結果をもたらしても決して、「他より恵まれいる」わけではありません。不幸な結果であっても、決して「他より不幸なもの」でもありません。

だれでもほぼ平等に背負っている限りのない業のなかで、たった一個が active になっただけです。業を好き勝手に active にすることはできない。業は条件が揃ったら active になるのです。
今の自分の生き方、こころ構えなどによって適切な業が active になるし、また、自分が置かれている環境によっても何かの業が active になることもある。両方の原因でactiveになることもある。業を active にする特別な行動がなくても次から次へと業が active になって結果を出してゆくのです。この世で生まれたことも一個の業が active になったことで、死までそれは有効です。だから、他の業が active になることになっても、生を引き起こした業と折り合わなくてはならない。

したがって、生命は平等ですが、同一( identical )でないということです。皆が個です。それだけではありません。同じ個も瞬間瞬間に変わる個の連続です。

業は「私」、「あなた」と言う立場で理解しないのです。普遍的な法則、因果法則として理解する努力をするのです。個人的な、また、変わらない自我は存在しない。

そのようなものが存在するならば、事故にあった「我が子」に対して「過去の業だ」と言われると腹が立ちます。理不尽です。

しかし、ブッダが「過去の業だ」とその業を説明する場合は、「泣くなかれ、悩むなかれ、落ち着け、生命に対して哀れみを持て」という意味です。仏弟子は何か「過去の業かも知れません」という場合、その業が何なのかとわかっていません。すべての生命に起こることだから、自分特有の不幸だと思って悩むなかれという気持ちなのです。仏教徒にとってはこの言葉は何よりも慰めの言葉なのです。それはまた、誤魔化しでもなくブッダが説かれた真理でもあります。

業の前で、みな平等です。

Sumanasara

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