あなたとの対話(Q&A)

依存と義務

「November 27, 2005の ヴィパッサナー瞑想会でのQ&A」はとても興味深くまた感動しつつ読ませていただきました有難うございました。
佐藤様の苦労をいつも思わせていただいていますが、以下のところについてさらに詳しく知りたいと思い質問させていただきます。
末尾の「自分のこころをきれいにして幸せになるなら義務は生じない。でも、社会に依存して幸せになっているのなら、幸せになればなるほど、社会に対して義務は生まれるよ。」の箇所の「義務」や「依存」などの中身が良く分かりませんので、全体に誰がどのような行動などを取ることをいわれているのか分かりませんでした。メモなので、分かりにくいところが出るのは、当たり前のことなのですが、かなり大切なことに触れられているようにも思いましたのでよろしくお願いします。

複雑に考えなくても良いと思います。
生まれたばかりの赤ちゃんをそのままほって置いたとしましょう。二日三日で亡くなるでしょう。なぜ、幸福で、すくすくと成長することができるのかと言うと、周りからの協力、助けでしょう。同時に、赤ちゃんの立場から観れば「依存して生きる」ことです。
この法則は人は死ぬまでつづくのです。社会で桁違いに成功した人であろうとも、その分、周りから助けられたということになります。ただ単に、「頑張れ、良かったね、上手だ」などのことばさえも個人にとって大変な助けなのです。(教師に無視されたと登校拒否する子供もいるでしょう。)
こころも身体も依存によって続くものです。「依存」というのは仏教で言う因縁関係です。「因縁」と言われたら真剣に考えてくれないから、あえて「依存」という言葉にしました。
悟りを開いた方々は因縁の輪廻を乗り越えている。生き続く必要はなくなっている。ですから、「助けてくれ、協力してくれ。応援してくれ。でないと私は生きていられない。生き続きたいのだ」という状態はありませんね。
しかし、覚ってもまだ肉体があるからその分社会に頼っている。だから、見返りを期待しない完全無欠の慈しみを衆生に対して実行する。くれるお布施に対して無限大の幸福を与えるようにしている。聖者が、例え説法をしなくても、いるだけで人々の幸福の原因になるのです。

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