あなたとの対話(Q&A)

YOGA

2018年10月8日

仏教の立場からみて「ヨガ」はいい修行になりますか?
そんな暇があったらヴィパッサナー瞑想をやった方がいいのでしょうか? それとも仏教の修行の妨げになってしまうのでやらない方がいいのでしょうか?

Part I; 定義
Yogaは良いか悪いかは定義に、理解によります。Yujは結ぶ(bind)と言う意味でこころをわがまま好き勝手に彷徨うことを止めさせてひとつの対象に結んでおくという意味でyogaなのです。Bhagavat-gītāと言うテキストにあるyogaは神様に定めた義務(生まれによって決まっているそうです)を「私がやっている、私がやらなくては」という個我的な気持ちを捨てて行うことです。全て生まれとともに定めているという考えは、仏教では邪見です。知識も、能力も、技術も、資源も、財産もあるインドは永遠貧乏でしょう。金持ちは金持ちで、使用人はずうっと使用人で文句を言わず頑張っている。
神に、永遠の霊魂に自分を結んでおく修行(yoga)は仏教から観るとやるもんではありません。

Part II; 中身
しかし、何か一つの対象にこころを集中させて、雑念を控えることで、集中力が現れてきて、こころも綺麗になります。欲や怒りがあるとこころは混乱状態なので、集中力がる場合はこの汚れが機能しない状態にはなります。Samādhi(禅定)が現れるこのyogaは邪行ではなく修行の一つです。仏教徒もやります。何に集中するのかと決めないと大変ですよう。神様、マリヤさま、Allah様、大日如来様などに集中するとろくな結果にはなりません。自己暗示だけです。しかし、仏陀に集中することは正しい。なぜなら、実在した人物であるし、仏陀の超越した能力、智慧、道徳などが思い浮かぶのでこころが清らかになります。(この瞑想の場合は対象になるのは仏陀個人よりも、仏陀の9徳なのです。)
汚職することに、ゲームに、可愛い異性に集中するとどうなるかと言わなくてもよいでしょう。仏教のyogaでは、光、色、土、水、火、風などの中立的なもの、又、慈、悲、喜、捨という四つの気持ち、仏、法、増という三帰依、戒、不浄、死、無常、無我なども集中するための対象になります。これらの対象は断言的に正しい。こころは清らかになるし、修行はある程度に進んだら、解脱の法へと案内してくれます。

Part III; 結論
Yogaという単語に仏教は拒絶反応を起こしません。単なる修行と言う意味です。Vipassanā修行する人々にも現地では(ミャンマ、スリランカ、タイなど)yogiiと言います(Yogaを行う人)。健康のため、長生きをするため、痩せるため、落ち着くため、流行に乗るためなどの目的で現代、西洋でも、日本でもやっているyogaという体操方法は仏教の管轄ではありません。それは俗世間の要求です。良い結果を得られるならば、実践すればよいのです。智慧の開発とこころを清らかにすることには関係がないだけです。(肉体が柔軟になって、病気にかかり難い体調は悪くないでしょう。)

この記事をシェア