施本文庫

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「自業自得」と「諸法無我」は矛盾する?

Q:「自業自得」と「諸法無我」の教えについて、どうも噛みあわないように感じてしまうことがあります。ブッダの教えを勘違いせずに理解するためのポイントを教えて下さい。

A:世間では「自業自得」を暗いイメージで受け取っていますが、それは間違った理解です。自業自得とは、善いことをすれば善い結果になるし、悪いことをすれば悪い結果になるという話です。「自業自得」と言った途端に、バチが当たる話だと思わないでください。自分がしたことの結果が出ます、ということです。善いこと、悪いこと、どうでもいいこと、自分がしたどんな行為もその結果を自分で受ける。それが自業自得ということなのです。

この自業自得と諸法無我が噛みあわないと思ってしまうのは、私たちがいつでも「自我がある」と思っているからです。脳科学の研究でも、「自我は脳のカラクリで作られる錯覚である」ということははっきりしている。脳が実在しない過去のデータと、現在と、将来の推測とをまとめて判断するために、自我という概念をつくっているのです。

自我という錯覚がさまざまな恐ろしい問題をつくって脳を破壊するのです。怒り、落ち込み、悲しみ、世界の戦争に至るまで、自我の錯覚が引き起こしているのです。ただ「便宜上、人に張ったラベル」程度に思えばいいのに、自我が実在すると派手に思ってしまう。自我が錯覚だと理解すれば、何の問題もないのです。そのまま物事がスムーズに流れるのです。

誰でも自我という錯覚に囚われているから、ブッダの話を聴いた途端に「あれ? おかしいな?」と思ってしまうのです。輪廻転生する変わらない自我(魂)があるなら、輪廻転生などできないのです。人間に永遠不滅の変化しない魂があるなら、それを赤ちゃんの自分、子供の自分、中年になった自分が知っているのでしょうか? まるっきり気づかないでしょう。

自我が実在するならば、悪を犯しても構わないのです。行為によって変化しないのだから。善いことをしても無駄ですね。それは俗世間の考え方の矛盾です。永遠の魂を説く宗教家の言っていることが矛盾なのです。大乗仏教もそれをごまかしつつ、教義に入れてしまった。しかし本覚思想のように、「一切衆生が本来、覚っている」と言った時点で、その宗派は解散しないといけないはずです。そうやって、宗教家は現実とまるっきり噛みあわないことを言っているのです。

身体も心も無常だから、刻々と変わり続けるのです。どうせ必ず変わるのだから、計画的に変えましょう、と仏教が言うのです。たとえば、食べて寝て、食べて寝て、のくり返しでも変わりますが、二日もたったら最悪状態になります。それならば、計画を立てて食べる量を決めて、運動メニューを作って管理すれば、変わり方がかっこよくなるのです。

何をしても、しなくても、人は変わってしまいます。明確に「自業自得」でしょう。双子の一人が歌を習ったら、もう一人も自然に歌えるようになると思いますか? 自分の行いは自分に返ってくるのです。この場合は、自分というのはただの言葉で、実在するわけではない。自分という言葉を作ったのは脳の働きなのです。

脳にもともと自我の錯覚があるから、言葉を作る時も「私」というコンセプトが入るのです。私というコンセプト、概念がないと言葉がつくれないのです。数学言語、科学言語は「私」無しに作れますが、言語の根元にあるのは「私」という錯覚なのです。解決策は赤ちゃんに最初に科学を教えることかもしれません。でも、それはできない相談でしょう。

勉強するだけで身体と心が変化します。変わって、変わり続けて別のものになる。「私」が変わると言ったらおかしいのです。勉強しただけで、身体も変わるし、心も変わる。食べただけでも、身体も変わるし、心も変わる。もう元の人ではないのです。変わることはノンストップです。止まらないのです。

変わるためにいちばん邪魔になるのは、変わらない何かがあることです。ポットのお湯を沸騰させたとしても、ポットに石ころが入っていたら、石は変わりません。米が無常だから、炊いたら食べられるのです。炊いたご飯が口に入ると感覚が変わるのです。それで心も変わります。炊いたご飯をそのままで食べるか、お茶漬けにするか、おにぎりにするか、それだけでも心が変化する。つねに絶えず、肉体も心もずーっと変換するのです。

これは皆さんには、冥想することでしか理解できないことです。でも川とか、滝とか、噴水とかを観察して理解して下さい。華厳の滝は瞬間・瞬間、消えます。それが無常です。われわれの錯覚で、「去年もこの滝を見たんだよ」という。しかし滝は一瞬しか見えないのです。次の瞬間には別なものに変わるのです。言語で、我々の理解として、滝があるという錯覚を使うのです。この錯覚がないと生活するために不便なのです。それだけのことです。

無常だからこそ、輪廻転生は成り立つのです。無常だからこそ、自業自得なのです。自業自得は、心について言うことですが、これは物質も同じです。日光が寒くなったら華厳の滝の水が凍ります。東京の我々の飲む水が凍るわけではないのです。無常だからこそ、ものごとは変えることができるのです。因縁によって変わるので、好き勝手には変わらないですが、便利な方向へと変えることはできるのです。変化しない何かがあったら、たいへんなことになります。

諸法無我だからこそ、人が頑張って結果を受けるということが成り立つのです。勉強して試験を受けた人が合格するのであって、お母さんは合格しないのです。しかし、たとえば自分が受験に成功すると、家族全体も喜びを感じて幸福になるでしょう。子供が仕事を頑張った結果として、親もいい家に住めるようになったりもする。それは自業自得の教えから、どう説明すればいいのでしょうか? 息子を育てたのは親です。親が子供を育て、心配して、励ましたのです。その結果として、自分が家をもらっているのです。結局、親がした行為の結果を親ももらっているのです。親子関係が悪かったら、子供が成功しても、自分は何ももらえない可能性があります。それも自業自得なのです。自業自得の法則は、決してバイパスできません。それで世界が動いているのです。

輪廻転生への誤解

Q:輪廻転生しても自分にその記憶はありません。それなのに今生で善行為をするのは、その業(カルマ)によって次に生まれる生命への慈悲から、ということなのでしょうか?

A:この疑問には、間違った宗教的な考えが入っています。輪廻とは、魂が引越しするわけではないのです。すべて滝のように変化するのです。我々は身体と心を使って様々な行為をします。その行為によって次の結果が変わるのです。物質は地球からもらったものだから持って行けない。生命が死ぬ時、心は物質とは別法則で流れます。その心が次に変化すると、以前の肉体とは別の物質を捕まえます。心が物質を取り込んで、新しい身体を作るのです。それが転生です。その新しい生命は、自分とも言えないけど、他人とも言えない存在なのです。

人間でいるあいだは、人間社会の情報で心身を構成します。死ぬ時は、ここで学んだことはすべて捨てて、次の生を送らないといけない。次に生まれる生命次元のことをイチから学ぶのです。たとえば超越した神々の次元に生まれたら、日本の歴史なんか憶えていても役に立たないでしょう。輪廻転生とは、電車を降りたらつり革から手を離すようなものです。ですから、輪廻転生したからといって、心は一向に成長しないのです。

仏教は心だけ成長させる方法を教えているのです。肉体の成長ではなく、心をパワフルにする方法です。心をパワフルにすれば、生まれ変わっても犬猫にはなりません。人間は数が少ないので、次は人間にならない可能性はありますが……。過去が消えるのは、どうってことないのです。我々も子供の頃にやったことの記憶はほとんど消えています。母のおっぱいを吸っていた時のぬくもり、その味も忘れているでしょう。そうとうな量を忘れているのです。いまも我々は過去を忘れることを続けています。それはどうってことはないのです。自分に都合の悪いことをわざと忘れるのは性格悪い証拠ですけどね。

仏教では、人の恩だけは憶えておきなさい、恨みは綺麗サッパリ忘れなさいと教えています。それは俗世間では言っていないことです。「これから生まれる自分に慈悲をもとう」というのは、あまりにも妄想的で罪になる思考です。我々は、一緒に生きている生命に慈悲を拡げるのです。それで将来に対する心配は消えてしまいます。

しかし将来は確定していないのです。凡夫でいる限りは、保証できないのです。善いことをすれば善いところに生まれ変わります。でも絶対大丈夫、という保証書だけは出せませんよと言うことです。腕のいい運転手は事故を起こしませんが、絶対安心という保証はできないのです。道路状況がどう変わるかわかりませんから。そういうわけで、仏教では、「さっさと解脱を目指して下さい」と教えているのです。

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ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2012年