施本文庫

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第三章 業を理解した生き方

「運命」は成り立たない

ここまでの説明で、お釈迦様の因果法則の真理、その一部である業の本当のところをある程度、理解されたことと思います。最後に、業を理解したなら、どう生きるべきかについてポイントをお話しします。 
人は、すごいエネルギーである業によって生まれます。しかし、業だけで生きていけるかといったら、そんなことはありません。Cetanā(チェータナー、意志)が必要です。業によって生まれても、生きる場合は意志という判断が必要なのです。 
「おぎゃー」と業によって生まれても、それから生きていくためには意志が必要です。その意志にしても、けっして完全なる自由ということはありません。自由意志は存在しません。しかし、判断しなくては、意志がなくてはどうにもなりません。業だけでは成り立たないのです。業が完璧にすべてを決定することも、定めることもできません。「運命」は成り立ちません。 
たとえば、生まれるときに持っている身体、これは業の領分です。赤ちゃんが「こんな身体は嫌だ!」と言うことはできません。赤ちゃんがどんな身体で生まれるかということは業のはたらきです。しかし、その業にしてもハンディがあります。業はものすごい力があるのですが、しかし、遺伝子にはしたがわなくてはいけないのです。 

業としては、「この子はすごく健康的で、すごく体格のいい子供にしてやろう」と思っていても、遺伝子にはしたがわなくてはいけないので、遺伝子が許す範囲で健康なかっこいい人間にすることになります。さらにまた、遺伝子が許す範囲で健康でかっこよく生まれたからといっても、生まれている環境によって、成長具合が左右されます。たとえばエチオピアで生まれたとすると、赤道の真下ですから肌の色も変わっていきますし、身体もそんなには大きくなりません。 
我々の身体の大きさは、地球のどこに生まれたか、どこで大きくなるかということによっても変わります。私などは基本的に南ですから、地球の引力がけっこうあるところです。ですから比較的、身体が小さくなります。もちろん、だからといって遺伝子もありますから、遺伝子が背を伸ばせば、それだけ大きくなります。そういうところで折り合っていくのです。 

業+個人の意志で生きる

業ですべてが決まっているわけではないのです。個人がcetanā(意志)という舵を操作しなくてはいけないのです。 
生まれたときに、業が身体をつくってくれますが、私たちにも意志というスイッチが与えられています。赤ちゃんは、自分で泣いて、おっぱいを得るのです。赤ちゃんが泣くと、お母さんが心配しておっぱいが出るようになっています。そこで赤ちゃんもそれなりに頑張って、笑ったり、泣いたり、お母さんの髪の毛を引っ張ったり、いろいろなことをやっています。赤ちゃんがいろいろやることによって、お母さんの愛情が出てきて赤ちゃんを育てます。つまり、赤ちゃんの意志がなければ、生命は成り立たなくなるのです。 

我々は意志で行動します。歩いたり、座ったり、しゃべったり、勉強したり、ご飯を食べたり、寝たり、起きたりするのは自分の意志でやっています。水を飲んだり、本を読んだり、どんな本を読むのか選んだり、さまざまなことを自分の意志でやっています。 
たとえば、赤ちゃんが成長していったときに、歴史書に興味が出るのか、文学本に興味が出るのかということは、もしかすると業が決めているかもしれません。たとえば、歴史に興味がある人間に生まれたとしましょう。歴史に興味があるということは業なのです。では、歴史学者になれるでしょうか? ふつうにしていてもなれません。なる場合は、その人が自分で歴史書を探して、読んで、調べて知識人になっていって、その結果として歴史学者になるのです。

業と意志(cetanā)と環境

業によって、音楽の才能がある人が生まれたとします。では、自動的に音楽家になるでしょうか? なりませんね。音楽家になるためには、本人が自分の意志で「ああ、これは面白い。練習しなくちゃ」と、自分で練習して練習して音楽の道を歩まなくてはいけないのです。そのように頑張れば、音楽家になったりします。それは五つの法則のはたらきです。 
しかし、たとえば西洋音楽の才能が抜群にある人が、私の国・スリランカに生まれたとしましょう。ピアノは、まずありません。環境がよくないのです。インドの楽器ならありますが、ピアノとなると、一台買うのにオーケストラに必要なだけのインドの楽器が買えてしまうほど、お金がかかります。そんな環境ですと、「こんな単純な音のために、これぐらい金がかかるのか?」となって、まずやりません。ですから、たとえピアニストになる才能・運があっても、その業は実らなくなってしまいます。 
そう言うと、皆さん、おそらく聞きたくなるでしょう。「だったら、どうしてピアノのある国に生まれないのか?」と。業はものすごく複雑ですから、そう簡単に生まれる国は決められません。業の他のプログラムもたくさんあります。ですから、他の業のプログラムがはたらくためにその場所で生まれたのかもしれないのです。複雑で、明確にはわからないのです。

業は、業だけではたらくわけではなく、意志も環境も関係します。
ですから、私たちは業を気にする必要はないのです。たとえ業が善くなくても、舵を操作することで生きる道を変えられます。操縦桿を握っているのは、自分なのです。自分の人生を、正しく自分の好きな方向へ操縦すればよろしいのです。それが業のいちばん大事なポイントです。 
業そのものが、まるで絶対者みたいにすべてを支配している側面はありますが、cetanā(意志)がないとどうにもなりません。ご馳走を食べる運命があっても、自分が自分の意志でその方向へはたらきかけなければ、ご馳走は食べられないのです。このcetanā(意志)は、仏教がものすごく強烈に押すポイントです。

お釈迦様はこうおっしゃいます。

cetanāhaṃ bhikkhave, kammaṃ vadāmi.

比丘たちよ、cetanāこそが業だと、私は説きます。

つまり、「ここで今まで紹介してきた業のセクションは、あまりどうにもならないものなので放っておきなさい。あなた方が気にするべき大事な業はcetanā(意志)だ」ということです。「意志が業だと理解しておきなさい。これで安全ですよ」ということです。 
意志なら、自分でいくらでも、どうとでもできます。やるか、やらないか、当たり前のごとくやめるか、とことんやるのか……。自分で自分の意志の管理は完璧にできます。ですから、意志そのものも業なのです。 

大事なのは行為の業

次に、行為としての業について考えてみましょう。
業には、意味が二つあります。業(カルマ)といえば、行為という意味も、結果という意味もあります。一つは過去で、もう一つは行為です。 
一般の方々は、業の二つの意味のうち、過去ばかりを気にします。間違いもいいところなのです。過去はどうにもなりませんし、わかりもしないものです。私はここまでの業論で、過去の業について、そのはたらきを説明してきました。しかし、私たちが忘れてはいけないのは、行為の業なのです。 
結果・過去としての業については、起きた出来事、起きた結果はそのまま放っておくしかありません。業によって生まれたのですから、今さら女になりたい、男になりたい、翼が欲しいとか、そんなことを思っても意味がありません。「もう、結果が出ました」ということで終わりです。 

やるべきことは、結果が出たあとの行為に気をつけることです。次に、どのように意志という舵を操作して前に進むのか、ということです。 
たとえば、東日本大震災は大変なことでしたが、「地震が起きた。津波が来た。すべて壊れました。はい終わり」ということなのです。すでに結果が出たのですから、泣いたり悩んだり、「なんだ、これは!」と憤っても元に戻れません。「次にあなたはどうするのか」ということだけが重要な問題です。 

いつでも皆さんの頭の中に、「では、どうしましょう」という質問を入れておいてください。
過去の業は無視する、放っておくことにするのです。過去ではなく、つねに「今、こうなっちゃったから、どうしましょう」という、たったそれだけに集中します。個人個人がそれをつねに考えて行動すれば、ものごとはものすごくうまくいくのです。「ああ、大変だ。大変なことになっちゃった。どうしよう」ではなく「では、この場合はどうしましょう?」と、次の行動に向かうのです。 

つねに「今どうするか」を考える

私は、行為の業のほうだけをずっと考えています。もう長いことその訓練をしていますから、つねに「次、どうしましょうか」という考えがはたらいて、何が起きてもまったくビックリしません。とつぜん何かが起こっても、瞬間的に「次にどうしましょうか」と、次からとる行動をぜんぶ決めています。
ですから、悩んだり落ち込んだり、ビックリしたり怖くなったりする余裕がないのです。

「意志によって新たな行為をすることが業である」というのが、業の正しいとらえ方だと思います。自分の意志で、新たな行為をすること。
津波で、地震で、自分の家が壊れてしまったら、「では、まずはこれをやるべき」「次にこれをやるべき」「次にこれをやるべき」、それだけなのです。美しい街が壊れたら、国としては、「これをやる」「これをやる」「これをやる」といってやるべきことを進めていくだけなのです。しかし、いまだに動いていない感じですね。直後の、もう食べる物もなかったときには、みんな協力していましたが。 
本当は、どんなに被害を受けた人も、まったく被害のない人も、誰もがみんな、いつでも、「はい、次にどうしましょう」「次のステップは何なのか」という生き方で行為に徹して生きなくてはいけないのです。アクティブ・活発に徹しなくてはいけないのです。 

微塵も悩んだらだめなのです。なぜなら、悩むことは行為です。美しい行いではありません。悪行為です。人が死んだら悲しむでしょう。あれも行為です。しかし、悪行為です。親戚が亡くなったとき、もう落ち込んで悲しくてしょうがない、というのは美しい行為ではありません。優しさでもありません。悪行為なのです。ですから、いつでも「どうすればいい?」ということを頭に入れて、すぐアクティブに行動に移らなくてはいけないのです。行為は、条件がそろったときに果報になります。

私たちが意志でやっているすべての行為が業です。業ですから、結果を出します。そこでいったん悪い結果になっても、それからアクティブに生きてみると善い結果にすることができるのです。
つまり、どんな不幸も我々の意志次第で、幸福の起爆剤にすることができます。もちろん、逆もできます。幸福の結果を、不幸の起爆剤にすることも可能なのです。現代は皆、そちらをやっているようですが……。 

仏教は、「何があっても自分の意志でそれを好転させなさい」と説きます。たとえば、盲目で生まれたなら、「別にどうってことはないでしょう。目が見えないことを、意志を使って有効に生かしていきましょう」と言います。耳が聞こえない身体で生まれたら「別にかまいませんね。ではどうしましょうか。こういうことならできそうですね」という感じです。 
たとえば、筋ジストロフィーなどの病気で全身が不自由でも、やっと口に筆をくわえて絵を描いたりする人たちがいらっしゃいますね。ものすごく素晴らしい作品ができて、身体に不自由のない人が描くものより心が惹かれます。 
幸福か不幸かということを気にすると、人生は暗くなります。世間でいう幸福か不幸かは、人間にとってあまり関係ないのです。「私は幸福です」と思ったら、傲慢になって悪行為になります。「私は不幸だ」と思ったら、怒りで落ち込んで暗くなって悪行為になります。ですから、そうではなくて、「次、どうしましょうか」ということで、次、次、次へと意志をもって善い行為をすることです。人生はそれで結果として幸福になります。 

どのように生きるのか、ということこそ大事です。つねに、どのように生きるのかがテーマです。「なぜ、生まれたのか」「なぜ、このように生まれたのか」ではないのです。もう生まれてしまったのだから、今さら「何のために生まれた?」などという問いは時間の無駄です。

感覚の流れが生きること

これも難しいポイントですが、「感覚と業」について説明します。vedanā(ヴェーダナー、感覚)の流れが生きることなのです。 
生きるということは、我々の身体に感覚があって感覚が流れることなのです。見える、聞こえる、考える、感じる、寒くなる、温かくなる、身体が痛くなる、楽になる……いろいろな感覚があります。これが生きることなのです。 
たとえば「お腹がすいた」ということは、感覚です。それでご飯を食べます。感覚があるからご飯を食べるということです。そして、「満腹になった」ということも感覚です。それでご飯を食べることをやめます。呼吸も同様です。呼吸するのは感覚があるからです。感覚がなくなると呼吸もできなくなります。ですから、感覚が生きていることであって、感覚が本当の命であることにもなります。感覚の停止は生命の死です。

感覚が隙間なく変化することもまた、法則です。感覚というのは心のことです。先ほど解説した五つの法則の中の五番目に、「心の法則」というものがありましたね。心の法則の一つは、「隙間なく現れる」ということです。この世で死んでも、感覚が隙間なく、再び生まれるはめになります。 
感覚は、心は、隙間なく変化します。心は瞬間で消えますが、隙間なく次の心が現れるのです。心が、感覚が停止したら死にますが、隙間なく現れます。これはストップできません。ですから人が死んでも、この肉体の中で感覚が停止しても、感覚そのものが隙間なくまた回転するのです。これは大切なポイントです。 
今も我々は、死んで生まれて、死んで生まれています。一つの感覚が現れてすぐ消えて、また現れてすぐ消えます。ときどき、足がなくなったり、目が見えなくなったり、いろいろ故障が起きますが、最終的にはこの肉体という機械そのものが故障して機能しない状態になります。しかし、死んで生まれるという流れは止まりません。死んでは生まれる、死んでは生まれるという流れは感覚の流れです。身体が壊れても、感覚は無常に変化し続けるのです。死後も続きます。

善行為と悪行為の定義

私たちの感覚は、三つに分けられます。苦の感覚、楽の感覚、不苦不楽の感覚という三種類です。私たちが意志によって起こす行為に関しても、この三種類のうちのいずれかの感覚を引き起こします。そこで、業の問題になります。意志により起こす行為が苦の感覚を引き起こすならば、その果報として苦が生じるのです。行為が楽の感覚を引き起こすならば、楽の果報が生じます。不苦不楽の場合も同じです。 
このポイントは難しいです。私たちは、ふだんいろいろな行為をします。たとえば座りますね。最初は楽だと思うかもしれませんが、感覚は変化して、じっとしていると苦になって嫌になります。では、歩きましょうといって、歩くことにします。歩くときにも、一瞬ごとに感覚は変化します。 
行為とは感覚の変化なのです。私が何か行為をして苦しみの感覚を引き起こしたなら、それは悪行為だといいます。なぜなら、悪結果になるからです。逆に、他人を助けたり、他人の悩みをなくすようにしてあげたり、他人の苦の感覚を楽の感覚に変える行為をすれば、果報として私も楽しい感覚を得られます。泣いている人に「こんなの、もう気にすることないでしょう。笑っちゃいましょうよ」などと言って、なんとかして悩みをなくしてあげることができたら、その行為が自分に楽を与える業になるのです。自分の意志が起こしたその行為が、自分に苦や楽を与える力のある業になり、その感覚を得ることになるのです。 
世間一般では、楽な果報になる行いを善行為といいます。仏教の精密な定義でいえば、善行為・悪行為という定義が成り立つかどうかわかりませんが、楽の感覚を引き起こす行為は一応、善行為とします。苦しみは嫌ですから、苦しみの感覚を起こす行為は悪行為としています。

たとえば、私が犬を殺したとします。その場合、犬に何をあげたでしょうか。最大の恐怖感、最大の苦しみを与えたことになります。そうなると、自分も見事にその結果、その感覚を受けるのです。 
しかし、業は単独ではたらくわけではありませんね。いろいろ条件がそろっていないと結果が出ないことは、先ほど説明しました。とにかく結果は出ますが、条件がそろうまで出るのを待っています。いろいろな条件との兼ね合いがあるので、犬を殺したその結果がいつ、どのように現れるのか、法則通りですが、この法則はふつうの人には計算することはできないのです。 
皆さん、行為の結果はけっこう気にします。一万円を寄付したら、どんな善いことがあるだろう? じゃあ十万円を寄付したら結果は、もっとどんな善いことがあるだろう、と気にします。しかし、わからないのです。一万円の寄付の功徳が高いか、十万円の寄付の功徳が高いか、単純にはわかりません。金額で決まるものではなく、寄付したときの気持ちで決まるのです。また、他の生命にどの程度の幸福、楽、喜び、安心感を与えたのかで、結果は設定されます。そのような気持ちは数字で計算できません。

一万円、寄付するという行為の場合、他にどれだけのものを与えたかが結果に関係しますし、自分のものである一万円への愛着も関係します。「私のもの」には愛着があります。あげる場合は、愛着をなくさなくてはいけません。 
たとえば、私に一万円しかないならば、その一万円には強烈な愛着があるでしょう。たとえば三千万円も持っている人なら、十万円に対しての愛着は少ないでしょう。その二人が、それぞれ一万円、十万円を寄付する場合、どちらが強い愛着をなくそうとしているかがポイントになります。なけなしの一万円を寄付するというのは、ものすごく力の強い愛着をなくそうとすることです。そうとう大変なことをやっています。しかし、三千万円持っている人が「十万円、はい、どうぞ」というのは、痛くもかゆくもないでしょう。業の結果は、なくした愛着で変わってくるのです。この愛着は計算できません。世の中の人たちが金額で業の力を考えているのは、正しくないのです。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

この施本のデータ

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2012年