施本文庫

怒りの無条件降伏

中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

感情的な心を捨てる

そこで、或る比丘が世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐ったその比丘は、世尊に、こう申し上げた。

「尊師、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います。比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。

もし、比丘の誰かが、比丘モーリヤパッグナの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。
また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグナの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。
このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います」と。

そこで、世尊は、或る比丘を呼ばれた。
「さあ、比丘よ、あなたは、私の言葉をもって、モーリヤパッグナ比丘を呼びなさい。『友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます』」と。
「かしこまりました、尊師」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、比丘モーリヤパッグナのところに近づいて行った。行って、比丘モーリヤパッグナに、こう告げた。
「友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます」と。

「わかりました、友よ」と、まさに、比丘モーリヤパッグナは、その比丘に答えて、世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐った比丘モーリヤパッグナに、世尊は、こう告げた。

「本当ですか。聞くところによると、パッグナ、あなたは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとのことです。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。
もし、比丘の誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、あなたは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。
また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、あなたの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。

聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです」と。

「そのとおりです、尊師」
「パッグナ、あなたは、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったのではないですか」
「そのとおりです、尊師」
「パッグナ、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったあなたにとって、まさにこのことは、ふさわしいことではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)、住むようなことです。

お釈迦さまは、厳密に論理的に話を進めていかれます。まず、モーリヤパッグナ長老に話が事実かどうかを確かめ、「あなたは仏法僧の三宝に対する信頼があって、ちゃんと理解して納得して、自分で出家すると決めた人ではないですか」と確認するのです。
そのように確認をした上で、「自分で確信して出家した比丘にとって、過度に比丘尼たちとつきあうことは、ふさわしくないでしょう?」と言われると、もう否定できません。「自分の意志で、自分で理解して出家しました」と認めたのです。そうであるならば、サンガの決まりを守る義務があります。自分で納得して出家した比丘は、出家のしきたりを守らなくてはいけない。それは絶対的なのです。

嫌なのに無理やり強引に出家させられたのであれば、話は別です。「お釈迦さまが『出家しなさい』とおっしゃったから出家したのです」というのならば、文句を言えます。
けれども仏教の場合は、「お釈迦さまがおっしゃったから出家したけれども、私はそういう決まりは守りたくない。私にも条件があります」ということはあり得ません。必ず自分の意志で出家することになっています。自分から「出家させてください」とお願いしたのだから、サンガの条件を呑む責任があります。そこに反論は認められないということになるのです。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしたとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な(gehasita)諸々の意欲(chanda)や考え方(vitakka)を、捨て去るべきなのです。

そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

《世俗的な》は《gehasita》の訳で、geha は「家」、sita は「それに属する」――つまり、「家族」というような感情的な同族意識のことです。
《意欲》は《chanda》の訳。心の中にある「何かしたくなるエネルギー」ですね。《考え方》は《vitakka》。「思考」のことです。chanda も vitakka も、それ自体は善でも悪でもありません。ここでは《gehasita》という形容詞がついているので、「感情的な好みや思い」のような意味になります。

世間では皆、いろいろな感情でつきあっています。その感情が出家修行者にはよくないというのです。たとえば、夫婦愛、家族愛なども、感情的なのです。欲の世界です。そういう人間関係が《gehasita》です。そういう「感情」はダメですよ、「感情的な意欲」や「感情的な思考」は捨てなさい、とおっしゃるのです。

お釈迦さまは、論理的な批判であれば認められます。たとえば誰かが比丘尼について誤解して悪口を言ったとします。その場合にパッグナ長老が「あなたのおっしゃることは、こういう理由で間違っていると思いますよ」という論理的な説明をしたならば、認められる行為なのです。反対に「あなた何を言うんですか! とんでもないことを言って、私は黙ってはいられません!」という態度は感情的な反応なのです。それが、比丘には良くない態度なのです。「感情的な仲良し」というのは全く否定されるのです。

お釈迦さまは、パッグナ長老に、「あなたは感情的だから、その感情は捨てなさい。それは比丘にはふさわしくない。これからあなたはこのように自分を戒めなさい」と、すごく親切に説かれるのです。
「まずあなたは『私の心が動揺することはないように。何を言われても、心だけは揺るがないように。私は悪い言葉は語りません』と自らを戒めなさい」と。そして「相手のことをいつでも心配する気持ちで生活しなさい。慈しみの心で生活しなさい。『怒りだけは心に入らないように』と気をつけなさい」とつづけられるのです。

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怒りの無条件降伏
中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2004年6月