施本文庫

怒りの無条件降伏

中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「怒り」は御法度

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。
――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、あなたの批判を口にするとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。
――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。
――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません

そして、お釈迦さまは、「あなたの目の前で、誰かが比丘尼たちを、手で殴ったり、石を投げたり、あるいは刃物で刺したとしても、その時でさえも心だけは怒りに変わったりしないように。殴ってきた相手に対して心配の気持ちをもちなさい。慈しみの心をもちなさい。嫌なことをする相手をけなしてはいけません。怒ってはいけません」とおっしゃるのです。

「同じように、あなた自身のことを誰かが手で殴っても、石を投げつけても、棒で殴っても、刃物で刺しても、あなたはその相手に対して慈しみを育てなさい。相手を心配しなさい。いかなる場合でも怒ってはいけません。それが比丘の生き方です。あなたは自分の意志で比丘になったのだから、世俗の考え方に基づいて生活してはいけません」と、そのように指導して終わったのですね。

お釈迦さまは、何も反論が成り立たないように、厳密にまとめて話されるのです。もともとは「比丘尼たちが批判されると怒ったり言い争ったりする」という問題だったのです。お釈迦さまの判決は、「批判した人が悪いか、された人が悪いか」ではなかったのです。
「批判されても怒ってはいけないどころか、ケガをさせられても怒ってはいけない、刃物で刺されたとしても怒ってはいけない」とおっしゃるのです。「感情的なつきあいはやめなさい、そして、たとえ自分自身にどんなことをされたとしても、決して怒ってはいけない」と諭されるのです。

自分に何かを言われたから怒るというのは、自分に対する感情的な欲があるということです。「私が大事だ」という気持ちがあるでしょう。それさえも捨てて生活しなさい、とおっしゃるのです。あらゆる問題の種は感情であることを、示し諭されるのです。モーリヤパッグナ長老に反論は全くできません。自分の判断で出家を決めたのだから、出家生活にふさわしい生き方をしなくてはなりません。自分の感情を制御しなくてはなりません。

人間というのは、自分の気持ちどおりにわがままで生きたがるのです。それを制御して立派な人間になることは、生半可な気持ちではできません。たとえ修行に励んだとしても、つい自分の感情がわいてくるのです。そのときは、誰でも、言い訳したり自分の行動を正当化したりするのです。ブッダは真理を語るとき、修行する人のわがままな感情が成り立たないように、言い訳ができないように、厳密に完全に語り尽くされます。

たとえ比丘尼たちや自分がケガをさせられても相手に対して怒りの気持ちを抱かないことが修行だと言われると、もうそれで、モーリヤパッグナ長老としては、何も言い訳が成り立ちません。「だってあの人は殴ったではないか、殴られたら怒っても当然でしょう」ということは認められません。もしかすると世間の人は怒るかもしれません。けれども比丘は、怒ってはいけないことになっているのです。

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怒りの無条件降伏
中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2004年6月