施本文庫

「1」ってなに?

生きるためのたったひとつ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

付録 ブッダは心をどう説いたか

心を理解する

これを理解するのは、意外に簡単なことです。あなたの身体が、椅子、机、ボールペン、本などの物体だと思ってみてください。仮に思わなくてもけっこうです。肉体は物体であり、物質の塊なのです。

しかし、私という組織は、椅子や机などの物質と何か違いますね。その違うところが、心です。釈尊は一切の存在を物質(ルーパ)と心(ナーマ)という二つに分けたのです。
我々は、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、身体で感じる、考える、という六つのはたらきをしています。物質にはできない、このはたらきが、心ということです。物質は、止まることなく動いて(変化して)います。身体も物質なので、その変化が身体にもあるのです。
しかし、物質の法則に逆らう動き(変化)もあります。お腹がすいたらご飯を食べる。怪我をしたら自然に治る。絶えず呼吸している。絶えず物質を変換している。まとめて見ると、身体という物体は他の物質と同じく壊れていくのに、何とかして修復してもいるのです。

一般的に、生きているということは、この瞬間の休みもなく起きている修復作業です。物質は壊れたら壊れっぱなしで、修復しません。太陽などの物体を観察してみても、ある一定の方向へ変化して、壊れていくのです。
しかし、生きている我々の身体は、壊れても壊れても、必死で修復しようとしています。だから、血液の流れも、心臓の鼓動も、呼吸も、栄養の摂取も、心のはたらきなのです。物質は、そんなことはしません。ですから、心とは「生きている」というはたらきを表す用語なのです。

心とは知る機能

別な角度で考えましょう。目の前にある机は、自分が机だとも知らない。蹴っても壊しても、それを知らない。しかし、私という物体は違います。自分の身体を知っています。その上、周りの環境も知っているのです。これが、物質と生き物の違いです。このように、「知る」ということが心なのです。

初期仏教の注釈書では、心とは何かと定義しています。その定義は、「対象を知るという機能が心なり」となっています。内と外を知りつつ、「心とは何かとよく解らない。不思議なものだ。まだよく理解していないのだ。科学的な証明はないのだ。実態は解らないものだ」などなどと、言えたものではありません。「知る機能が心」なのです。

私は生きている、と言ってもあまりに大雑把な言葉です。細胞一個一個が生きている、と言えばより正しいのではないでしょうか。細胞一個一個が絶えず動いていて、物質を変換しながら、変わっていくのです。エントロピーという法則があるので、細胞にはどこまでも物質変換し続けることができないのです。外へ逃げていく物質の量より、取り入れる物質の量が少なくなると、老い、という現象が起こる。やがて壊れるのです。

身体全体にこの作業がつねに起きています。純粋な物質の塊の中では起こらないこの作業も、心のはたらきだと理解しておきましょう。物質には物質のエントロピー法則があります。ですから、我々の身体は物質の変化と心の変化という二つの変化を受けなくてはならないのです。

心は現象であり実体はない

では、心とは何かとまとめてみましょう。見る、聴く、嗅ぐ、味わう、身体で感じる、考える、という六つの認識は、心のはたらきです。知ることは、心のはたらきです。生きている、ということは、心のはたらきです。「はたらきが心」なので、心がいろいろ作業しているのだとするのは間違いです。はたらき、機能、行動、などの単語を使うと、心は瞬間たりとも止まらない、物・実体として扱えない現象だと理解できるでしょうか。

言いたいのは、この生きているという組織のなかで、霊魂、魂、命、仏性、仏心、如来蔵、などの永遠不滅の実体、変わらない何かは成り立たない、ということです。物事を具体的に客観的に理解しようとしない人々は、心が手・足のように掴めるものではないので、形而上学的な概念を作るのです。神秘的な解説をするのです。

頭で何かを思ったからと言って、それが必ずしも実在するとは限りません。空を飛ぶゾウ、ウサギの角、亀の毛、空中に咲く花、怪獣、ウルトラマン、スーパーマンなども、考えることは可能です。マンガを描いたり、模型を作ったりすることもできます。しかし、それらは実在しないものです。心について、さまざまな宗教、さまざまな哲学でいろいろ語られますが、釈尊は具体的に実証を伴った説明をするのです。

ありのままに知る

知る機能が心だと、先に述べました。しかし、こちらに大きな問題があります。知る機能はあるが、物事をありのままに正しく知っているのか、知は正しいという保証があるのか、という問題です。

簡単な例で説明しましょう。死んで三日間くらい経ったドブネズミの死骸があるとします。人間一人と、カラス一羽が、向かい合わせに座っている。この二人の間に、ドブネズミを置くのです。人間とカラスは、その対象をどのように認識するでしょうか。人間は、「気持ち悪い。不潔だ。吐き気がする」などの気持ちを抱くでしょう。カラスはドブネズミの死骸を見るや否や、パクッとくわえて食べ始めるでしょう。カラスの認識はおそらく、「なんというごちそうだ」といったところでしょう。

無理やりに作ったエピソードかもしれませんが、これで何を理解できるのでしょうか。カラスの目にも、人間の目にも、何か情報が入ったのです。しかし、お互いの認識はかなり違っています。

では、この認識の違いという問題を引き起こしたのは、あのドブネズミの死骸でしょうか。ドブネズミの死骸が、「我は、人間にとって超気持ち悪いかっこうをしてやろう。カラスにとってごちそうという顔をしてやろう」と手をまわしたのでしょうか。それはありえない。

この問題を作ったのは、人間の心と、カラスの心なのです。心が自分勝手な認識をしてしまったのです。人間もカラスも、自分の目に実際に入った情報は何なのかと、知らないのです。いわゆる「ありのままに知る」ことはしなかったのです。ありのままに知るのではなく、あってほしいままに知ってしまったのです。
それはそれでいいではないかと思われるかもしれません。いいえ、そうはいきません。これこそが、生命にとって最大の問題なのです。

さらに踏み込んで説明します。先のエピソードに登場した人間とカラスに、いま見たものについて対談させましょう。人間は、「超気持ち悪い。吐き気がする。ゾッとする」と自分の感想を言う。カラスも、「ごちそうだ。これほど美味しいものはない」と感想を述べる。人間は自分が正しいと思う。カラスも自分が正しいと思う。決して合意には至りません。

どちらが正しいのでしょうか。単純に見方の問題であって、どちらでも事実を語っているわけではありません。自分の素直な感想だから、相手をだますつもりで嘘をついているわけではない。しかし、決して事実を語っているわけでもないのです。知る世界とは、こんなものです。人と人との間では、生命と生命との間では、何の合意もないのです。皆、「われは知る。ゆえにわれは正しい」という立場でいるのです。

認識の違いのせいで、欲が生まれてくる。怒りが生まれてくる。嫉妬、憎しみ、落ち込みなどが生まれてくる。認識する世界に対して、執着が生まれてくる。悩み苦しみが生まれてくる。

要するに、認識の問題でありとあらゆる苦難が生まれてくるのです。ですから、「ありのままに知らない」ことこそが問題なのです。ありのままに知ったならば、真理を知ったことになります。それで、心に現れる、欲、怒り、嫉妬などの煩悩が消えるのです。一切の争い、戦いなどが消えるのです。

もうひとつ、例を出しましょう。イラク、イラン、パレスティナなどイスラムの国々の人々は、「自分たちこそ唯一の神アッラーを信仰しているのだ。アメリカ、イスラエルなどは異教徒の国だ」と主張する。一方アメリカは、「自分たちこそ唯一の神ヤハウェを信仰しているのだ」と言って、「イスラム教は危険な宗教だ」とするのです。それで現在、互いに敵視して殺し合いまでしている。
しかし双方の当事者とも、「地球が丸い」ということについて、何の異論もないはずです。戦いなど起きそうもありません。
なぜならば、信仰と関係なく、地球は丸いからです。それが事実だからです。誰が調べても結論は同じ、真理だからです。
仏教で語る「ありのままに知る」とは、存在に対して真理を発見することです。それが一切の苦しみの終了なのです。

ドブネズミの死骸は、なぜ人間にとって気持ち悪いのでしょうか。なぜ人間にカラスの気持ちが解って「ドブネズミはごちそうだ」という認識を冗談ででも作れないのでしょうか。人間が、ドブネズミの死骸をごちそうだと認識したら、それを食べるはめになります。まずい結果に陥るのです。カラスが、ネズミの死骸は気持ち悪いと思ったら、やはりまずい結果になります。食べるものが無くなるのです。

捏造をストップする

我々は、眼耳鼻舌身意に入るデータを自分の都合により「捏造」するのです。ブッダの言葉でいえば、「捏造」は「パパンチャ」です。データに触れた瞬間で、捏造して認識するのです。生命の知る機能は、「誤知」なのです。ワナにかけられたようなものです。大人にとっては、ダイヤがたいへんな高価なもので、恐ろしい欲や執着が生まれる対象です。小さな子供には、ガラスのビー玉が宝物で、ダイヤはつまらないものです。あげても捨ててしまうのです。

「私は美人だ」と思っている人に、友人が「不細工だ」と思う。Aという対象を見た私に欲が生まれたからといって、Aという対象を見ると誰にでも欲が生まれるわけではありません。

外の世界は、我々の心を清らかにすることも、汚すこともしません。心が情報を捏造することが問題なのです。
しかし、情報を捏造しないとまずいことになります。生きていられないのです。同時に、情報を捏造することを止めない限り、輪廻転生して無限に苦しむ悪循環もなくならないのです。

釈尊が説かれた道とは、仏教が推薦する修行とは、捏造をストップする方法なのです。知る機能である心は、「誤知」を続けています。その間違いを訂正して、誤知ではなく「正知」をできるようにしなくてはならないのです。

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この施本のデータ

「1」ってなに?
生きるためのたったひとつ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2009年5月8日