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常に観察すべき五つの真理

Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

常に観察すべき五つの真理

今回ご紹介する経典の名前は「Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ」です。長いタイトルになっていますが、おそらく、どんな人にも意味が分かるようにと意図的に長くした可能性もあります。

タイトルを少し分析してみますと、まずabhiṇhaというのは「常に、いつでも」という意味で、paccavekkhitabbaは「観察すべき、考慮すべき、思い浮かべるべき」という意味です。人間には、頭の中でいろいろなことを思い浮かべたり考えたり妄想して楽しみたい、というところがあります。でも、仏教ではそれは認めません。なんでもかんでも好き勝手に思い浮かべることはよくない、と教えています。そして、好き勝手に妄想するかわりに、思い浮かべるべき項目を設定し、それらを繰り返し思い出して頭の中で常に回転させるように、と教えているのです。

次の語ṭhānaは、この経典では「項目」や「箇条」という意味で使われています。suttaṃは「経典」です。

これらの語を合わせて、全体の意味としては「常に観察すべき項目の経典」となります。いわゆる、朝も昼も晩もいつでも思い浮かべるべき項目がこの経典で述べられているのです。文字どおりそのままの意味ですから、意味が分からないということはないでしょう。このように、誰にでも理解できるようにわざとタイトルを分かりやすくしてあるのです。

1章 常に観察すべき五つのこと

人生のモットー

では「朝も昼も晩も常に考えておくべきこと」とはいったい何でしょうか?

私たちは毎日ごく普通に生活しています。普通に生活していますが、生きる上では何か「モットー」というものが必要です。モットーというのは、日常生活での思考パターンといいますか、私はこの路線で頑張っている、というような生きる指針のことです。

そこで「人間はどのような路線で生きるべきか」という問いにたいする答えが、この経典にあるのです。ですからこれはとても重要な経典です。なぜなら「人間はどのように生きるべきか」「どんな道を歩くべきか」ということを教えているのだから、ほんのちょっとの大切どころではないのです。

ところで、この「Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ」というタイトルの経典は他にもいくつかありまして、今回とりあげる経典では、観察すべき対象として五つの項目を教えていますが、他に、三つの項目の経典もありますし、四つの項目の経典もありますし、十の項目の経典もあります。たとえば十の項目の経典は出家者のための経典になっていまして、「出家者が常に観察すべき」と記されています。

では、この経典はどうかといいますと、次のように記されています。

Pañcimāni, bhikkhave, ṭhānāni abhiṇhaṃ paccavekkhitabbāni itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.

女性であろうが(itthiyā vā)、男性であろうが(purisena vā)、在家者であろうが(gahaṭṭhena vā)、出家者であろうが(pabbajitena vā)、この五つの項目を常に観察すべきである。

対象者は特別に限定していません。出家者だけとか仏教徒だけではなく、「人間なら誰でもこの五つを観察してください」と教えています。この五つの項目は、誰にとっても平等に共通している普遍的な真理です。したがって、すべての人間が観察すべきものなのです。

では、その五つとはなんでしょうか?

⒈ 老い

Jarādhammomhi, jaraṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.

私は老いるものであり、老いという性質を乗り越えていない。このことを女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。

1番目は「Jarādhammomhi」です。Jarādhammaは「老いる性質のものである」という意味で、omhi は「私は」という意味。これらを合わせて「私は老いる性質のものである」という意味になります。

次の「jaraṃ anatīto’ti」は、「老いを乗り越えていない」という意味です。atītaは「乗り越えること」、この語の前にan が付いていますから否定形になり、「乗り越えていない」となります。

私たちは「老い」ということを乗り越えていません。生きているなら、「老い」は必ず通らなければならないものなのです。「老いる」ということは、自然法則です。「生きる」ということは「老いる」ということと同じなのです。赤ちゃんが成長するということは、老いることであり、私たちはただ言葉をかえて、「成長している」とか「すくすく育っている」などとごまかして言うだけで、真理の立場から見ますと、生まれた瞬間から老いているのです。

この「老いることは自然法則であること」「絶対に避けられないこと」「老いを超えることはできないこと」、これらを常に観察するようにしてください。この真理を、女性も男性も在家も出家も、朝昼晩、常に頭に入れておいて観察すべきです。

⒉ 病気

Byādhidhammomhi, byādhiṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.

私は病気になるものであり、病気という性質を乗り越えていない。このことを女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。

人間は肉体を持ったら、必ず病気になります。病気といいましても、仏教の病気の定義は世の中のものとは異なります。ふつう私たちが病気だと思っているものは、高熱が出て寝込んだとか、癌や糖尿病などの病気のことを指しますが、仏教では「手当てしないと死ぬ」ことを「病気」というのです。手当てしないと死ぬならば、その状態が病気なのです。

ということは、仏教的に見ますと、お腹がすくことも、のどが渇くことも病気です。お腹がすいたとき、もし手当てをせずに何も食べなかったらどうなるでしょうか? のどが渇いているのに、一滴も水分を摂らずにいるとどうなるでしょうか? その状態が続くと、死んでしまいます。ですから、これを病気というのです。

しかし世の中では、その状態を「元気」とか「健康」などと言っています。お腹がすいた、食欲がある、などと言うと、「元気で健康だ」と言うのです。

仏教では、これらのことは何か手当てしないと死にますから病気です、と見ます。仏教の病気の定義は、幅広くて論理的です。「手当てしなかったら死ぬ」なら、お腹がすくことも、のどが渇くことも、排便も病気です。それから、呼吸することも病気です。常に酸素を入れないと死にますから。

そこで「呼吸=病気」なら、私たちは「病気がなければ生きていけない」ということになります。矛盾していますが、病気が命を支えているのです。日本的に言えば、病気のおかげで元気で生きている、ということでしょう。私たちは、病気であるがゆえに生きているのです。

息を吸ったり吐いたり呼吸をし、お腹がすいたら食べ、のどが渇いたら飲み、消化や排便もスムーズにして、適切なときに汗をかいたりするから、私たちは生きています。もしいくら運動しても汗が出ないなら、それは問題です。汗がまったく出ないと体内の熱が放出できなくて脳がいかれてしまい、とても危険な状態に陥りますし、反対に、汗ばかり出ると脱水症状になって、ひどい場合は死ぬこともあります。汗が出ることも出ないことも病気なのです。

このように、生きること全体が病気でできています。身体の細胞一つ一つが呼吸をして栄養を摂らないと、生命は生きていけません。私たちの命は病気で組み立てられて成り立っているのです。なのに「私は健康だ」などと高慢になって威張るのは、とんでもない無知でしょう。

⒊ 死

Maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.

私は死ぬものであり、死という性質を乗り越えていない。このことを女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。

「生きる」ということが病気と老いでできているなら、最終的には身体は壊れるに決まっています。それなのに、私たちは妄想の中で生きていますから、私たちの人生プログラムはいつでも「私は死なない」という前提でつくられているのです。

たとえば、都会に住む40代から50代ぐらいの夫婦が、退職後は富士山が見える空気がきれいなところに土地を買い、家を建ててのんびり暮らそうと、今からいろんな計画を立てているとしましょう。一見「ちゃんと老後のことを考えて、しっかりしている」と見えるかもしれませんが、これは「私は死なない」という前提でたてられている無知な計画なのです。また、来年の夏は何をしようか、お正月はどこへ行こうかなどといった将来の計画はすべて、「私は死なない」という無知でつくられているのです。

お分かりになりますか? 私たちの計画や企画、希望、願望のすべては、「私は死なない」という前提に基づいてできています。いかに私たちは嘘の世界で生きているかということがお分かりになるでしょう。

そこで「死は私の本質である」と常に観察するようにしてください。この思考をしっかり心に入れておき、その路線で生きてみるのです。そうやっていると、心は落ち着いて穏やかになり、常に平静でいられるでしょう。

⒋ 私の好きなものはすべて変化し、離れていく

Sabbehi me piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.

私の好きなものはすべて変化し、離れなければならない。このことを女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。

Sabbehiは「すべて」、me piyehi manāpehi は「私が好きで、欲しくて、愛着があるもの」という意味です。その愛着しているものすべてに、変化する性質があり(nānābhāvo)、離れる性質がある(vinābhāvo)のです。

したがって、「自分の好きなもの、愛するもの、欲しいものはすべて変化し、それらから離れなければなりません。それを避けることはできません。このことを常に観察してください」という意味です。

私たちはだいたい自分の欲しいものや好きなものが揃っていると、楽しくて舞い上がって、ほかの人の話はまるっきり聞かなくなるという傾向があります。欲しいものなら何でもあるぞという感じで、態度がでかくなり、傲慢になるのです。

しかし反対に、その対象が変わったり無くなったり壊れたりすると、その反動でものすごくショックを受け、頭がクタクタにいかれて立ち直れないほど落ち込んでしまう人も中にはいます。ときどき、その状態で私のところに「なんとかしてほしい」と相談に来る人もいますが、そのときはもう治療できないほどの状態。怒鳴って目を覚ましてあげることが治療なのですが、そういう状態でもないのです。

ですから、最初から「すべてのものは変化する。だから舞い上がって調子に乗るべきではない」ということをしっかり理解しているなら、何かがあってショックを受けたとき、それほど落ち込むことはないでしょう。

したがって「どんなに好きなものでも、それらから離れなければならない」ということを憶えておいたほうがよいのです。

⒌ 業

Kammassakomhi, kammadāyādo kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇo. Yaṃ kammaṃ karissāmi – kalyāṇaṃ vā pāpakaṃ vā – tassa dāyādo bhavissāmī’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.

私は業で作られ、業を相続し、業から生まれ、業を親族とし、業に依存している。私の行為の結果は、善いことであれ悪いことであれ、私が受ける。このことを女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。

私というものは「業のみ」です。身体の細胞一個一個が、業でできているのです。

  • 私は業でつくられ(kammassakomhi)
  • 業を相続し(kammadāyādo)
  • 業から生まれたものである(kammayoni)

このkammayoni というのは、「私は業によって生まれた」という意味ですが、少し説明を加えますと、kammayoniの後ろの部分yoni(ヨーニ)は、女性が子供を産むところ(女性の性器)を示す言葉です。ヒンドゥー教では一般的にシバ神を拝むとき、その象徴として男性の性器を拝むという信仰がありますが、女性の性器を拝むこともしているようです。しかしこれは何かいやらしい考え方ではなく、むかしのインド人は「生まれる」「現れる」「発現する」などの現象を哲学的に捉え、それを表現するために使っていました。思いついたことはあまり品のあることではないかもしれませんが、言っていることは「生命や森羅万象、あらゆるものが生まれる源」のことを表していますから、それなりに哲学的に考えていたのです。したがって、kammayoniの意味は「私を生んだのは業である。私の生みの親は業である」という意味になります。

  • 業を親族とする(kammabandhu)の「親族」はどういう意味かといいますと、親族はどこにいても親族であって、その血縁が切れることはありません。たとえば、自分と自分のおじいちゃんは一緒に住んでいても住んでいなくても、近くに住んでいても遠くに住んでいても、血の繋がりが切れることはありません。これと同様に、お釈迦様がおっしゃる「決して離れられない自分の親族」といえば「業」なのです。
  • 業に依存している(kammapaṭisaraṇo)とは、「頼れるものは業である」という意味です。生命が頼れるもの、助けになるものは自分の業なのです。何かに頼ったり助けを求めたりするなら、それは自分の業です。

それから、何か行為をしたとき、それが善いことであれ悪いことであれ、その結果は自分が相続します。「私=業」ですから、業を相続するのは当たり前のことです。もし「私と業が別のもの」なら、ちょっと置いておきますと言って置いておくこともできるでしょうし、もし業が「私の業」なら、その業を捨てたり忘れたりコントロールしたりすることもできるでしょう。しかし「私=業」ですから、置いておいたり捨てたり忘れたりすることは成り立たないのです。

それから、肉体が死んだら業も消える、ということはありません。どこに生まれかわろうとも、業だけはいっしょに付いてきます。業から逃れることはできません。覚りを開いて解脱しないかぎりは、業はどこまでも付いてくるのです。

ここで、いかに「業と自分が一心同体か」ということがお分かりになると思います。業と自分は同じものなのです。不可分離ではなく、同一のものです。身体だけでなく命や生き方など「私」というものすべてをまとめたものが、「業」なのです。

これで、観察すべき五つの項目の説明は終わりました。この五つの項目を暗記して、常に念頭において生きてみてください。これが人間の生き方の基盤になるものです。これは超越した仏陀の智慧で語っていることですから、実践してみればその結果はすばらしく、この上ない結果が体験できるでしょう。

私たち凡人の能力では、いくら踏ん張っても「どのように生きるべきか」という問題にたいする答えを見出すことはできません。ちっぽけな脳細胞でなんとか考えるだけで、それまた個人的な捏造した知識ですから、いくら考えても偏見にしかならないのです。偏見をなくそうと考えると、それもまた偏見になります。偏見で偏見をなくそうとするのだから話しにならないのです。

歴史上、世界には多くの哲学者や思想家たちが現れましたが、「人間はどのように生きればよいか」という問題にたいする答えは、お釈迦様以外だれも見出せていません。なぜ見出せないかといいますと、それは人間が考える方向で出てくるものではないからです。「神を信仰しましょう」とか「神の定めを守りましょう」、それはややこしいから「ただ神を畏れて生きましょう」などと言う人もいますが、そういうのは単なる信仰にすぎず、真の生き方ではないのです。

俗世間の知識では「生きるとは何か」「なぜ生きるのか」「どのように生きればよいのか」ということを発見することはできません。俗世間のレベルで考えますと、金持ちになることや出世して会社の社長になること、長生きすることなど、そういうものなら簡単にモットーになるでしょうが、「私は死ぬものであると観察することが生きるモットーになる」ということは、とうてい理解できないと思います。

したがって、お釈迦様が説いたこの教えを理解するのはとてもむずかしいことです。お釈迦様はシンプルに語っていますが、これは人間の知識レベルを遥かに超えた真理の教えなのです。

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この施本のデータ

常に観察すべき五つの真理
Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2011年7月11日
常に観察すべき五つの真理