施本文庫

何が平和を壊すのか?

争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

慈悲に優る幸福の呪文なし

ところで、愛情には二種類あります。一つは見返りを期待しない愛情。もう一つは見返りを期待する愛情です。親から受ける愛情は前者で、世間から受けるのは後者です。しかし親の愛情も、「見返りを全く期待せず」とは言い切れません。だんだんと親も子供に期待するようにもなります。期待された愛は商売のようなものです。あげれば貰う、貰えばあげるという関係です。このような関係では、必ず不満、期待はずれ、裏切りなどが生まれます。それは心に苦しみを増やす。平安な心を求めながら、逆な結果に陥ることになります。

しかし、魚に水が必要な如く、生命にも愛情が必要なようです。期待された愛は苦難のもとになるので、ブッダは期待しない愛を育てることを奨めます。愛という言葉の意味が曖昧です。誰もが納得できるように「愛」を定義していないのです。意味が曖昧なので、愛を実行しても予測できない困難が付きまといます。

他人も自分も不幸にならない、怨みや憎しみが生じない、絶望感に陥ることのない「愛」でなければ、みな幸福になる愛とは言えません。他人から何も見返りを期待せず、すべての生命が幸福でありますようにという気持ちで生きることが「期待しない愛」、つまり慈しみなのです。それこそが世の中にある最強・最高の呪文です。その気持ちさえあればこの世の中で簡単に生きていられます。

「慈しみ」がある人に誰も逆らうことはしないのです。みんな味方に、仲間になります。普通に生きている私たちには、自分を応援してくれる人はほとんどなくて、みな足の引っ張り合いをしています。もしその人が慈しみを実践すると、足を引っ張る人々がいなくなり、みな後押してくれる味方になるのです。ですから「慈悲こそ最強・最高の呪文です」と、お釈迦さまは説かれたのです。つまり仏教は、愛ではなく「慈しみ」を奨める教えなのです。

愛が苦しみに変わる仕組み

もう少し、「期待する愛」について考えてみましょう。私たちの心は「私は独立した自由な人間だ」と叫んでいます。人に余計なことを言われたくはないと誰もが思っている。しかし幸福を得たい人が、愛を期待して他人に頼ってしまえば、心の独立を失います。言葉を変えれば、「あなたが幸せになりたければ永久的に他人に依存してください、ひとかけらも独立を味わうなよ」ということになる。依存している現状と、独立気分でいたがる心が対立します。これが心に不平不満を生み出すのです。

ひとつのエピソードがあります。
村の番犬が、森で痩せこけて骨と皮だけになったキツネに出会いました。飢えなど知らず丸々と太っていた番犬には、そのキツネがとても哀れに見えました。「キツネ君、あなたお腹が空いていませんか。よかったら私と一緒においでなさい。人間に飼われれば、いつでもお腹いっぱい美味しいものが食べられますよ」と誘いました。「あなたは丸々太って幸せそうですねえ。人間に飼われて、いったい何をしているの?」と、キツネもその気になったのです。
番犬は「私の仕事はお腹いっぱい食べて寝ること。たまに夜に吠えてあげること。そうすればまた喜ばれて、たくさん餌をもらえます。仕事のやり方なら私が教えてあげますよ」と答えました。心が動いたキツネは、犬のことを注意深く見ました。すると首に何かついている。「それは何ですか?」「これは首輪といって、夜は鎖につながれて、番をします」。
それを聞いたキツネはきっぱり、「あ、そう。じゃ私はゴメンです。私は飢えても、首に首輪を付けて鎖に繋がれたくありません。あなたはどうぞお腹いっぱい食べて幸せでいてください。私は森の中に帰ります。飢え死にしても構いませんよ」と言って帰ったそうです。

人に依存して愛されて安楽に生きることは、自由を犠牲にしなければ成り立ちません。キツネは身体の楽より、心の自由を選んだのです。期待する愛は自由を犠牲にするものです。愛のため、他人に永久的に束縛されてしまう、それは本当に幸せですか? 犬は「お手」と言われれば、手を上げなければならないし、「バーン」と言われたら、死んだふりをしなければならない。徹底的に依存すれば相手の奴隷になって、自分の幸福の保証を他人に委ねることになるでしょう。自分の幸福を自分で持っていないのだから、相手にとって自分が嫌になった時点で、その幸福が取り消される。ですから期待する愛は不安と心配の種です。常に不安が増えていく状態は幸せと言えるのでしょうか?

愛している相手が私を管理して、詮索して指図をする。私も愛している相手を管理しようとする……となると、そこに起こるのは平和ではなくて、戦いでしょう。相手に、自分を管理する権利を与えていること自体が、真理とは反対の生き方なのです。
他人に愛されるということは、その人に管理されることです。私が他人に依存することです。私の自由はなくなります。多くの人に愛されれば愛されるほど、自らの自由がなくなって身動きできなくなるのです。もし世界中の人々が互いに愛するならば、恐ろしい結果になります。みな相手を管理しようとするから、平和ではなく争いが生まれるのです。

期待する愛とはこのようなものです。何か期待しているのだから、エゴなのです。愛する側も愛される側も、エゴで頑張っている。愛というよりは偽善ですね。ですから仏教は「真理を知れば幸福です」と言っても、「愛があれば幸福です」とは言わないのです。

人間には、優しくされる経験が必要です。しかし愛は苦しみの原因になります。この問題をお釈迦さまは解決しました。「愛は貰うものではなく、あげるものです。貴方は一切の生命に対して、無制限に、限りなくどこまででも、愛の代わりに慈しみを、友情を、喜びを、平等な気持を広げてください」と仰いました。そうすると、その瞬間から依存症は消えます。親に「自分のことを愛してくれ」と頼むのではなく、自分が親のことを愛してあげる。社会に向かって「私を大事にしなさい」と訴えるのではなく、自分が社会のことを大事にしてあげる。そうすると自分は自由で独立しているから、自ら物事の判断ができるようになる。仏教は、愛にケチを付けているのではなく、理性に基づいた「慈悲」を推薦しているのです。

世界は真理もどきに振り回されている

私たちが日常生活の中で正しいと思い込んでいる「真理」は、まだいろいろあります。昔から伝統的に伝えられた価値観や、過去のいろいろな教訓、社会規範を作るもの、教育システムなどなど、人々はけっこう大切な真理だと思っているのです。しかしそれも考え直してみると疑問が出てきます。

人間は自分がいま生きていることに精一杯で、将来のことは考えられないのです。二十年先、四十年先、子供がどんな世界でどんな生き方をしているかわかりません。時代が変われば別々の世界ですからね。そういう私たちが、憲法やら法律やら色々な規則を作って、将来まで守り続けることを期待する。それは正しい方法でしょうか? 今の時代に全く合わない決まり、時代遅れの思考、いまさら全く守れない法律などがいくらでもあるはずです。ゆえに昔の決まりなどを真理としてそのまま守るべき、という考え方は疑問です。

具体的な例で考えましょう。「二十年後に生まれる子供たちに向けて、正しい教育システムを設定してあげること」これはどんな教育のプロにもできない仕事ですよ。今現在の教育システムさえも手一杯で、どうすればいいかわからない状態でいるのだから。二十年先に生まれてくる子供たちに、正しい教育システムなど設定できません。二十年先にどうなるか、想像もつかないのです。

政治でも同じこと。共産主義というシステムが現れた時は、これこそ人類が豊かになる究極の道だと考えていたのに、今の世代であっけなく潰れてしまった。共産主義を信奉した人々も、その当時の状況のみを見て、将来においても良いと無責任に判断しただけなのです。今は資本主義システムが全盛です。資本主義こそ世の中が豊かになる唯一な道だと思っているけれど、将来はわかりません。資本主義化の真っ最中なのに、貧困が減ったという話は聞いたことがありません。政治家も経済学者も真理を語っているわけではない。「今の思考は将来にわたっても有効だ」と傲慢に思っているだけです。

同じように、習慣やしきたり、過去の教訓、伝統的価値観など、過去から決まっているからといって、「真理」だと決めつける姿勢は疑問です。本当はひとつひとつ考え直し、評価し直さなくてはいけないのです。

科学は真理だと信じて頼っても、同じ結果になります。科学者は、できるだけデータに基づいて判断しようと頑張っています。でも、科学は事実だと鵜呑みにしたら酷い目に遭います。以前は正しいと思っていた学説でも、後から何か発見・発明した時点で、「実は間違っていました」ということになるのですから。
DDTという殺虫剤を御存知でしょうか。私が聞いた話では、第二次世界大戦後、不衛生だった日本人の体からシラミなど落とすために、髪の毛が真っ白になるほどDDTの粉を散布したそうです。その時は清潔にするために正しい事だと思ってやったこと。いま考えると、どれほど危険な怖いことをやっていたことか。今では、DDTの製造も禁止しています。科学の世界さえ、そんなものです。科学の成果に一時的に頼っても、絶対的真理だと依存してはならない。科学者が嘘を言っているのではありません。彼らはただ発見したデータをストーリー化して語っているのであって、確固たる真理を語ることはできないのです。

今日「真理」であるはずの科学データが、明日になると更新される。七十年代に生きていた人が真理だと思っていた科学事実は、八十年代に生きていた人にとっては事実ではない。と言うことは、八十年代の人からみれば七十年代の人は嘘を信じて生きていたことになる。同じく二千年代の人から見れば、八十年代は遅れていて、嘘を信じて生きていたことになる。しかし現在の私たちの「正しい知識」も将来になれば同じ運命を辿るでしょう。このように、科学的な事実も人類に完全な平和をもたらす真理にはなりません。仏教の視点からみると、たとえ科学でも、真理だと思い込むなら落とし穴に落ちるのです。

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何が平和を壊すのか?
争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2003年5月