施本文庫

なんのために冥想するのか?

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第二章 宗教の冥想とブッダの冥想

冥想はなんのためにするのか、ということはもうわかりましたね。
ここから、冥想そのものの中身に入っていきます。

生きるというエネルギー(働き)

・肉体という物質があります。
・物質のことは化学・物理学でも理解しており、物質的な働きを発見しています。

現代科学では、身体のことはとっくに理解しています。
身体だけではなく、物質はどのように働くのか、酸素とは何か、原子とは何か、素粒子とは何か、といった分野についてもほとんど解明されています。

・しかし、「生きもの、命あるもの」としての身体の動きは、物理法則と似ていないのです。
・物理法則と生命の働きは完全に違います。

私たちは素粒子の研究もしていますが、生き物としての自分は何をやっているのか、よくわかっていないのです。ここでは、「物理法則と生命の働きは完全に違う」ということを強調したいのです。ですから物理学・現代科学では、「命とは何か」ということを理解できないのです。

・物質を支配・管理する働きを、仏教では「こころ」という名前で確認するのです。

ブッダの実践では、肉体はありがたいものでも、命あるものでもなく、単純な物質の塊(物体)として観るのです。身体が単純な物体であるならば、完全に物質の法則に従わなくてはいけません。そこで両者の違いが観えてきます。
身体という物体は、物質の法則に従う場合もあるし、物質の法則と違った働きをする場合もあります。現代の知識では物質はたくさんの種類に分けられますが、お釈迦さまの時代には()(すい)()(ふう)という四つに分けていました。地球も山も川も身体も、地・水・火・風なのです。空気も水(液体)も炎も、地・水・火・風で構成されています。
しかし生き物の身体(物体)は、物質の法則と違った働きをするのです。

たとえば、池の水が枯渇したら、池は池でなくなってしまうでしょう。しかし、池は困りません。「私の存在がなくなったら大変なので、さっさと水を汲んできて、また元の池に戻らなくては」ということにはならないのです。
では、私の身体の水分が減ったら?急いで補給しようとするのです。これは明らかに変なことでしょう。雷が落ちて、そのあたりの崖が二つに割れたとしましょう。そのままです。では、何かにぶつかって私の腕が折れたとしましょう。どうします?治療して治します。元に戻してもらいます。物質という観点から見れば同じはずなのに、まったく違うことをやっています。

・こころとはエネルギーであり、働きです。

ここで、何らかのエネルギーが物質を支配しようとしていることが見えてくるのです。私の骨が折れることも、物理法則にかなった出来事です。耐えられない負荷がかかったら、骨はポキッと折れます。全然、不思議ではないのです。
しかし、身体はこれを認めません。元に戻そうとして、骨を再生するのです。折れたところを繋げてくれるのです。では、誰がそれをやっているのか、そのエネルギー・働きは何なのかと言えば、仏教は「こころ」であると説くのです。こころとは単純な一つの何かではなくて、かなり複雑なエネルギーの総称です。

健康のために運動する

・身体の健康のために運動は欠かせないと信じています。

なぜ「信じている」と書いたのでしょうか? 皆さん、これは事実だと思っているでしょう。しかし、言葉の使い方がちょっと甘いのです。運動すれば体力はつくかというと、必ずしもそうとは限りません。運動したら、身体が壊れて病気になる場合もあります。リミットを考えなくてはいけないのです。ジョギングすればいいというものでもありません。どのぐらい、どの程度で運動するのかという、そのリミットを忘れたら、健康を害する結果になります。
私たちは、リミットを忘れているというより、精密に言葉を使わないで、無責任に「運動すれば健康は保てる」と言っているのです。現実を精密に表してはいない言葉に、私たちはただ乗っているのです。それは信仰というべきものです。

・しかし、身体の支配者・管理者の運動は疎かにしているのです。

誰でも、身体のことばかり心配しています。地球の資源をほとんど、肉体の維持管理に使っているのです。肉体の支配者のことは、心配していないし、発見もしていないのです。肉体の支配者である「こころ」の面倒を診て、こころを健康な状態に保つならば、肉体について余計に心配する必要はないと思います。

物質のことばかり追い続けた結果、この世界はある程度まで物質的な豊かさに達したのです。しかし、人間は幸福を感じていません。あらゆる問題を惹き起こして、社会はトラブルばかりです。それでやっと、「こころのことも心配しなくては」と思い始めたのです。

・俗世間にも「こころの栄養」という言葉が現れています。

NHKでも、「こころに栄養をあげましょう」というキャッチフレーズを使っていました。こころの栄養に関連する番組も放送しています。

運動やスポーツのように、科学的に調べて推薦された方法はありません。
・ただ、本を読んだり、何かを考えたりするだけに留まっています。

身体のことになると、すべて科学的に調べるのです。身体に必要な栄養とは何か、量はいかほどか、運動はどのようにどの程度するべきか、どうすれば快眠を得られるのか、などなどについて詳しく調べています。
こころにも栄養が必要だとするならば、こころのことも科学的に分析しなくてはいけないはずです。こころの栄養になるものは何か、こころが衰退する毒になるものは何か、どのようにこころの運動をして成長させるべきなのか、などについても科学的な研究が必要なのに、そのような研究は俗世間にはないのです。こころの存在に気づいたばかりなので、無理もない話です。

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この施本のデータ

なんのために冥想するのか?
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2016年4月29日