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なんのために冥想するのか?

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

精神的成長――サマーディの解説

・どんな信仰であろうとも、修行したり、戒を守って生活したりすると、それにふさわしい精神的な成長が起こります。

いま私は他宗教の冥想について批判的な話をしましたが、完全に否定して捨てる意図はないのです。こころも物質も無常です。ですから、変化するのです。たとえ科学的でなくても、何かの冥想方法を実践すれば、それなりのこころの変化が起きます。冥想の結果はゼロといえないのです。

理屈ばかりをいうならば、このように批判することができます。「あなたは魂が永遠不滅だと、変化しないのだと信じています。あなたの信仰が正しければ、魂が汚れるはずはない。もし魂がもともと汚れているならば、どれほど修行しても魂は変化しません。だから、あなたの冥想にはなんの結果もありません。無駄骨です」と。
しかし、これは理屈ばかり投げつける喧嘩腰の言葉に過ぎないのです。魂が永遠不滅だと盲信して冥想しても、こころはそれなりの変化を遂げます。仏教は「こころは無常なり」と説くので、他宗教の冥想も断言的に否定することはできないのです。

そういうわけで、信仰の如何に関係なく、キリスト教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、日本大乗仏教の信者であろうと、だれでも冥想してみれば、戒律を守ってみれば、修行してみれば、それなりの変化が現れるのです。

・しかし、各宗教の教え・修行の仕方などは違うので、精神的成長を自分の信仰に合わせて解釈することになります。

そこで、様々な宗教を持つ方々が冥想をします。冥想によって、こころが変わります。変わったら、その変化を自分の宗教の教理学で説明するのです。

わかりやすい例を挙げて説明します。あるキリスト教の方が冥想するとします。当然、神様を熱心に信仰しているのです。その人が冥想を通じて、なんとなくいろいろ精神的なことを体験すると、それについて、「神様を体験した」「神様の存在を自分が確認しました」というふうに解釈します。「やはり、神様がいらっしゃるのだ」と結論づけるのです。しかしその方は、自分の経験を客観的に調べないで、信仰に基づいて解釈したという事実に気づいていません。解釈とは推測なのです。

同じように、日本大乗仏教の方が冥想する。たとえば真言密教の方が冥想する。冥想すると、どうせ精神的にいろいろ変化が起こります。普通と違う経験を味わうのです。そうすると真言密教の方々は、「やっぱり大日如来様が自分を変えてくれた」「私は大日如来を経験しました」と解釈したくなるのです。

お釈迦さまから見ると、これは面倒くさい現象です。元々、信仰とは非科学的なものでしょう。それに基づいてあれこれと論じられると困ります。ですから、お釈迦さまは科学的な、知識人の態度でアプローチしたのです。信仰を一切いれずに、「こころは修行によってどのように成長するのか?」と、明確に分析してしまったのです。「どんな信仰の人でも、こころの成長はこのように起こります」と。

たとえば人間ならアメリカ人であろうが、フランス人であろうが、日本人であろうが、生まれたときは赤ちゃんで、それから成長する。パターンが全部決まっているでしょう。「フランス人なら、生まれてすぐに歩き出す」とか、あり得ないことでしょう。「フランス人の赤ちゃんは、生まれておっぱいを吸うとかそんな下品なことはしません」とか、「フランス人の赤ちゃんは、おっぱいを吸わないでちゃんとナイフとフォークを持って食べています」とか、そんなことはあり得ないのです。フランス人の赤ちゃんであろうが、日本人の赤ちゃんであろうが、生まれたらおっぱいを吸って成長するのです。

そういうことで、科学的に観るならば、こころの成長についても、すべての人間に適用できる解説があるはずなのです。

・ある一人は「大自然と一体になった」といい、別な一人は「神を体験した」という。「光になった」「真空になった」という人もいます。
・この解釈の違いは困ったもので、宗教間の争いにもなるのです。

これらは冥想する人々が言う言葉です。大自然と一体になったとか、神と一緒になりましたとか、神が現れましたとか、どれも非科学的な発言なので面倒くさいのです。

冥想を通して神秘体験を得た人は、自分の考えを変えません。人が経験したものをむやみに否定することはできません。冥想体験者たちは、自分の経験に基づいて自分の見解を誇示するのです。そのような方々は、他人の話には耳を傾けません。
ですから、自分の教理学、自分の宗教の説明で神秘体験を解釈するのは、とても危険なことです。人類の調和がなくなるのです。宗教家が戦争を引き起こしてしまうと、冗談になりません。争いのスケールがものすごく拡がるのです。

お釈迦さまは、この問題を微妙なやり方で解決します。宗教はなんであろうとも、各人の冥想体験は決して否定しないのです。その理由を喩えで説明します。
ある人がアンパンを食べたとしましょう。アンパンがとても美味しいと、その人は喜んでいる。そこで他の人が出てきて、「いいえ、アンパンは美味しくはない。あなたの経験は間違っている。アンパンは不味いはずです」といったとしても、その話は成り立ちません。食べた人にとって美味しかったことは事実です。ですから、人の冥想体験は否定できません。その体験を自分の主観、自分の信仰、自分の哲学に合わせて解釈するところが疑問になります。
お釈迦さまは、「修行者の解釈は見解(主観)である」と説くのです。要するに、「経験は認めますが、あなたの教えは間違っている」ということです。

・ブッダは精神的な成長を心理学的に説明します。
・方法はなんであろうとも、正しく集中力を育てる場合は四段階の成長があるのです。
・こころの働きを物質から離れるようにする場合、また四段階の成長があります。
・この成長の名称はsamādhi(サマーディ)です。

いわゆる、八種類のサマーディがあるという教えです。宗教間の争いをなくすために、お釈迦さまは皆が使うサマーディという単語をあえて採用したのです。

お釈迦さまは、とても精密に語られています。精神の向上状態を分析するときは、他宗教も使っているサマーディという言葉を使う。その一方で、冥想実践に関しては、ヨーガ(合体)という言葉を避けて、バーワナー(成長)の語を主に使ったのです。バーワナーは仏教的な単語です。

サマーディと言っても、宗教によって意味が違います。たとえばヒンドゥー教のヨーガを修める人々、特にウパニシャッド哲学者は「samodhānaṃ(サモーダーナン)・一つにまとめる」という意味の言葉を使います。人間は「自分は他と違うのだ」と思っています。そうではなく、「一即一切である」「一切とは一である」「一とは一切である」と、これが「その通りである」とわかることが彼らのサマーディなのです。「一即一切」はウパニシャッドに出てくるフレーズです。

単語は同じですが、お釈迦さまの場合はサマーディを「集中力」という意味で使用するのです。「一即一切」のような、形而上学的で意味不明な定義は捨てています。こころとは激しく動き回るエネルギーです。様々な対象のなかで、光の速度よりも早く走り回るのです。一つの対象だけを明確に認識することは決してしません。要するに、普通のこころは混乱状態でいるのです。
そこで意図的に、こころに一つの対象を明確に認識させるように訓練するのです。成功したら、ばらばらに働くこころが一束になったような働きをします。それをサマーディ(集中力)と呼ぶのです。「統一」という単語も使えます。こころが一束になって働くと、八つの段階で成長するのです。段階は八つですが、四つずつにわけて解説しています。

最初の四つは、身体にこころが依存した状態です。仏教用語では、色界禅定といいます。次の四つは、こころのエネルギーが身体から離れた状態です。仏教用語は無色界禅定です。これは現代人には少し理解が難しい状態です。「身体からこころが離れたら死んでいるだろう」と思うかもしれません。死んだわけではなく、こころが成長しただけなのです。こころが成長すると、身体が一時的に停止するのです。身体が停止しても死なないということは、現代人の知識では理解できないと思います。

・八種類のサマーディは仏教だけではなく、ほかの宗教でもあり得る・起こり得ることです。
・仏教では、八種類のサマーディの成長に「智慧の開発」という別な実践方法も加えました。
・神秘体験するのではなく、真理を発見することで、こころが最終的に清らかになり、自由(解脱)に達する方法です。
・智慧の冥想の場合も、四段階で成長が起こるのです。

サマーディ状態に達することができても、こころがずっと安定してくれる保証はないのです。修行が成功したと思って気を抜くと、集中力が弱くなります。こころは再び、様々な対象のなかで走り回る状態になります。要するに集中力が消えて、サマーディが無くなったということです。こころが様々な対象のなかで走り回るときは、再び欲・怒り・嫉妬などの汚れが現れてしまう。
お釈迦さまは、この状態のことを「解脱」だと思わなかったのです。こころを完全に清らかにして、二度と汚れない状態に達しかったのです。そのためには、「物事をありのままに知る」という智慧が欠かせないとわかったのです。真理を発見することが必要だと思ったのです。真理を発見した人が、再び闇に陥ることはありません。

この理論は、そんなに難しくないのです。わかったことは、もうわかってしまったことです。もう二度と忘れないのです。
生まれつき目が見えない人が、もし「世の中に色なんかは存在しない」と主張するとしましょう。それから良い医者の治療を受けて、目が見えるようになります。すると、その人は世の中に色が存在すると発見します。その発見は何が起きても変わりません。たとえ、その人の目が再び悪化して、見えなくなったとしても、彼は「世の中には色が存在するのだ」とわかっているのです。もとの考えには二度と戻れません。真理の発見とは、そのようなものなのです。

そういうわけで、お釈迦さまはインドの冥想世界に「智慧」を開発する冥想方法を紹介したのです。
冥想修行中に様々な神秘体験が現れても、超越した能力が現れても構いませんが、修行者の目的は「真理を発見して智慧を開発すること」です。神秘体験にも超越した能力にも捉われてはいけないのです。
お釈迦さまは八種類のサマーディに達する方法も、さらに進んで「智慧を開発する方法」も説かれたのです。智慧の開発もまた、四つのステージで起きます。仏教用語では、その四つのステージを預流果(よるか)一来果(いちらいか)不還果(ふげんか)阿羅漢果(あらかんか)と名付けています。

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この施本のデータ

なんのために冥想するのか?
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2016年4月29日