施本文庫

なんのために冥想するのか?

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第三章 「それでも、冥想しなくてはいけない?」――強制的進化プログラム

ここまで、仏教の冥想に関して説明してきました。それでも「なぜ冥想をしなくてはいけないのか?」という疑問がまだ消えていないかもしれません。

冥想とは、強制的な進化プログラムなのです。皆さんにすみやかに理解してほしいのは、進化は強制的なほうがありがたい、意図的に取り組んだほうがありがたい、ということです。
私たち人間が進化を自然任せに放置したら、もしかすると退化して地球上から消える可能性もあります。自然界は、この先の未来も人間が生き続けるという保証はしていないのです。「適応できるものだけが残れ」というのが厳しい自然法則なのです。
それがゆえに、お釈迦さまは「それでは強制的に、意図的に進化しましょう」と提案なさっているのです。

進化もこころ

・人間の進化過程で、他の生命より頂上に立っているように見えます。

人間という種を他の動物と比較すると、私たちは頂上に立っているように見えます。なぜ人間が頂上に立ったのかという理由は、ダーウィンの教えでは説明がないところです。科学者には物質の研究しかできないので、とりあえず人間の身体を解剖してみるのです。比較のために、人間に近い猿も解剖してみます。そこで、発見するのは何でしょうか?

・人間の場合、身体を調べると脳が進化しているのです。

その中でも、違うのは大脳だけです。小脳と原始脳は猿と同じなのです。人間の場合は、チンパンジーよりもゴリラよりも大脳が進化しています。つまり、大脳が大きいのです。

・脳とは、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、感じる、考える、判断する、行動するといった機能の指令を出している部位です。

犬猫も同じことです。見る、聴く、嗅ぐ、考える、ということをやっています。ある程度まで進化した動物たちには、大脳があります。その脳が、見る、聴くなどの仕事をして、生きるために必要な指令を出すのです。一般人向けの医学書などでは、脳が司令塔であるように書かれています。

・物質には指令は出せません。

司令塔はどのように働くのでしょうか? 脳に様々なタンパク質が現れます。身体の他のところでも、必要なタンパク質を作るのです。どこでどのようなタンパク質を作ればよいのかと、脳が神経を通して電気信号を送るのです。現代人の知識で、「脳の指令」と言っているのはこの働きです。指令だといいながら、すべて物質の働きとして説明しているのです。

そこで疑問に思うのは、「物質には他の物質に指令する力があるのか?」という問題です。どう考えても、物質は物質に指令を出しません。物質の組み合わせで、物質が自然に変化してゆくだけの話です。
上から石が落ちて、下にあった石に当たって、下の石が二つに割れました。上から落ちた石は、誰かの指令を受けて落ちたわけではありません。下にあった石に新しいエネルギーが入ったので、二つに割れてしまったのです。

物質の変化とは、そのようなものです。身体の中に起こる出来事も、物質の変化のみでは説明に困るところがあります。自然法則の変化はワンパターンなのです。
しかし、身体の変化はそうではありません。例えば、座っている人が立とうとする。立つ指令が下ったのです。しかし、立っている途中に、また座ることにする場合もあります。前の指令が、結果を出す前に変わってしまったのです。木の枝の熟した実を見て、今日か明日落ちるだろうと推測はできます。座った人が何分後に立つかと、どのように身体の変化を起こすかと、正しく推測することは不可能です。身体は物体なので、「あなたは二十時間、座ったままではいられません。必ず立ちます」などと大雑把でいい加減な推測はできますが、そのようなものに推測とはいえません。

現代人の知識で何をいったとしても、仏教的には「物質は物質に指令を出さない」と言わなくてはいけないのです。物質によって変化が起きているだけです。変化と進化は同じではないのです。
進化とは、ある方向へむかって変化することです。変化には、方向性を示すことはできません。身体の場合には、変化も進化もあるのです。方向性のある変化を、進化と呼ぶか退化と呼ぶかは、言葉を語る人の主観によります。

・身体の機能はこころの働きです。

指令を出しているのはこころです。その指令にしたがって、電気信号を起こす機械が脳です。こころとは物質を支配・管理するエネルギーであり、脳はこころの下で働く臓器に過ぎないのです。

身体の一部が壊れたら、修復できます。脳も身体の一部だとするならば、一部壊れたら修復できるはずです。脳の研究をする科学者たちが、脳を修復する方法を発見し、適切なプログラムを作ればよいのです。そうすれば、脳が正常に働かないゆえに起こる様々な病気を治療できる可能性は大いにあるでしょう。

仏教と脳科学が別れるポイントが、そこにあるのです。脳科学者たちは、脳が指令を出していると主張します。仏教の見方では、脳も臓器の一つに過ぎません。ただの物質なので、他の物質に指令は出しません。あくまで、指令を出すのはこころです。
こころの指令によって、脳をはじめ他の臓器にも変化が起きるのです。

・人類に到達するまで、生命の進化には四十億年もかかったといいます。
・しかし、知識が発展したため、年寄りには追いつけないスピードで現代人は成長・変化しているのです。

私たちみたいな年寄りから見れば、孫世代の子供たちを理解することすら難しいことです。それだけ進化しているのです。今は電子機械文明になっています。年寄りには馴染みづらい社会ですが、逆に孫たちにとっては電子機器のない生活を想像することすらできないでしょう。人間のあいだでは、十年二十年の年の差があるだけで、互いに理解できないことがたくさん増えるのです。

若い人々から見れば、年寄りの私たちが時代遅れで、退化しているように見えているかもしれません。わずかな時間でそれほど激しい変化は、動物界では起きません。人間は自分好みで手を加えて、犬と猫の身体の形を変えています。しかし、犬猫の精神状態を変えることはできないのです。セントバーナード犬とチワワ犬に形の違いはあっても、所詮は犬です。
人間の場合、形にはそれほど変化がなくても、精神的には際立った変化があるのです。

現代人の進化には、億年単位の時間はかかりません。十年単位で変化するのです。その変化は身体というより、脳の機能の変化なのです。この変化を起こしているのは、知識です。科学者たちが二百年かけて蓄えた知識も、その子供世代は一年で学んでしまいます。知識こそが進化を早めている要因です。

・こころの指令により、肉体的成長・文明・知識の発展が起こります。

現代に起きている激しい変化はすべて、知識によるものです。知識とはこころの管轄です。こころには、自分勝手に行動を惹き起こすことはできません。だから、身体という機械に徹底的に依存するのです。
身体とは、いくつかの臓器(機械)を組み立てて出来たものです。それぞれの臓器にはできることが決まっています。脳も一つの臓器であって、何ができるのかと決まっているのです。
私たちは機械を作る時も、様々な働きをする部品を組み立てます。機械が出来上がったからと言って、機能はしません。精密にできたテレビ・自動車・飛行機などの機械は、自分勝手に働いてはくれません。機械を動かすために、エネルギーを入れなくてはいけないのです。エネルギーを与えたら、前から決まっていたパターンで動いてくれます。
身体という機械には、こころというエネルギーが不可欠です。そのエネルギーが入ることで、各臓器は決まった動きをしてくれるのです。また、こころは各細胞の中で働くので、機械のように外からエネルギーを注入する必要はありません。

人には、言葉を喋るという機能が付いています。しかし、それに関わる臓器は勝手に動きません。喋りたいという意志が起きたならば、その意志に管理されて、発話をつかさどる臓器システムが働くのです。意志が働かなければ、脳には自分勝手に人を喋らせることはできないのです。

こころはいくつかの次元で機能します。私たちがよく知っているのは、考えたり、感情を惹き起こしたりする次元です。考える時の意志は明確です。感情が強くなると意志も強くなりますが、その時、私たちは意志があるか否かがわからなくなります。ですから、発作的にやりましたよ、といいます。思考と感情によって起こる身体の変化は誰でも知っています。
それから、「生きていきたい」という存在欲の次元でも、こころが働きます。心臓・消化器・肺・脳などは、存在欲という意志で動きます。存在欲とは、「生きていきたい、死にたくない」という気持ちです。人は存在欲に気づかないので、現代人はこのような働きに「無意識」と名付けているのです。

「生命は環境に適応する働きによって進化したのだ」というのは、ダーウィンさんの考えです。「すべては神の意志によって起こるのだ」というキリスト教会の教説が凶暴だったために、”On the Origin of Species”(『種の起源』)という本でも徹底的には説明していないようです。それから、たくさんの科学者の方々が自由に進化論を解明しました。今では、誰もダーウィンさんが間違っていると言わないのです。
科学者に研究できるのは、当然、物質の変化です。ですから、自分にできる範囲で、発見したデータに基づいて語るのです。

ここで、私は仏教の立場から、ダーウィンさんの進化論にもう一つファクターを加えたいと思います。それは存在欲というファクターです。生命は、環境に適応する努力によって変化したのですが、「生きていきたい、死にたくない」という存在欲がこころの中で起きて、その変化を惹き起こしたのです。
要するに、悪い感情に対応する目的で、細胞たちが反応したのです。考えることのみがこころであると勘違いしている場合は、納得いかない意見かもしれません。考えなくても、こころは働くのです。

ですから、ダーウィンさんに失礼かもしれませんが、私は「進化はこころの管轄です」と言いたいのです。こころがなかったら進化はありません。例えば、富士山にはこころがないので進化しません。しかし、変化はします。無常です。富士山の周りに住んでいる無数の生命たちは、環境に応じて進化します。それは、生命には皆、こころがあるからなのです。

・冥想とは強制的こころの進化プログラムです。

進化論から冥想というテーマに戻りましょう。仏教的に言えば、地球上に現れた進化は、こころの影響があるからこそ起き続けている出来事なのです。こころに存在欲がある限り、様々な変化がこれからも自然に起こるのです。
しかし、自然の流れには気が狂うほど時間がかかります。単細胞の生命が人間になるまで、約四十億年かかったと言われています。人間がより完成に近づくまで、さらに四十億年かかるのだと言われたら、どう思われますか?私たちにとっては、進化とはなんの関係もない話になるでしょう。
さらに、「肉体的に弱まっている人間という種が、そこまで生き続けられるのか?」という問題もあります。

そこで、偉大なる革命者であるお釈迦さまの提案があります。それは、「強制的にこころを進化させましょう」ということです。「決して、自然の流れに任せてはいけない」という話です。強制的な進化によって、これ以上の進化は成り立たないと言える頂点まで、こころを進化させるのです。それはまた、二、三週間で達成できることだと強調されるのです。
自然の変化は、進化になるか退化になるか決まっていません。強制的な進化の場合は、まぎれもない進化なのです。強制的に退化させることは、成り立たない話です。その点で考えても、進化・成長を自然の流れに任すのは、危険であると理解できるはずです。

次の問題は、「そんな話が信じられますか?」ということです。お釈迦さまは四十五年の間、インドの各地方で、十万単位で数えられるほどの成功者を輩出したのです。それから、二千五百年の仏教の歴史もあります。「確実に成功する」という保証もしているのです。何かの宗教に引っかかって、存在すらしない魂の救済を一生期待して死ぬくらいなら、ブッダの道を二、三カ月間試してみて、結果が現れなかったらやめればいいのです。
しかし、説かれたとおりに実行して、結果が皆無だったという人は、一人もいません。最後まで進めなかった人々は、その理由もわかっています。方法に問題があったのではなく、自分のこころの状況に問題があったと知っているのです。ここまで確かな道は、たとえ科学の世界であっても存在しません。この「こころの強制的進化プログラム」とは、一般の言葉でいえば、「ブッダの冥想」なのです。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

この施本のデータ

なんのために冥想するのか?
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2016年4月29日