施本文庫

なんのために冥想するのか?

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

こころの本来の姿

・こころは、存在欲・怯え・無知(貪瞋痴(とんじんち))という基礎エネルギーで働いています。

仏教はこころの科学ですから、こころについて明確に説明しています。こころというエネルギーを調べてみると、三つの衝動で動いていることがわかるのです。それは、存在欲と怯えと無知です。

・生きるとは、存在欲・怯え・無知というエネルギーを蓄えることです。

そこで、生きるということは、身体の仕事ではなくて、こころの仕事なのです。身体ではなく、こころが生きていきたいから、私たちは生きているのです。見たり聞いたりすることで、こころは基本衝動にエネルギーを蓄えます。いわゆる貪瞋痴に、さらに貪瞋痴のパワーを、エネルギーをずっとあげ続けているのです。生きるとは、ただそれだけのことです。貪瞋痴をどんどん貯金しよう、蓄えようと励んでいるだけなのです。

皆さんも誰だって、それをやっています。勉強すると、欲が増えます。あるいは怒りが増えるのです。仕事をするとは、欲を増やす、怒りを増やす行為です。あるいは、無知を増やす、行為なのです。料理や洗濯をすることでも、欲を増やし、怒りを増やし、無知を増やしているのです。映画を見たり、音楽を聴いたりしても同じことです。欲が生まれなかったら映画を見ません。恐怖映画でも、怖くならないと見る気にならないのです。恐怖映画とか、グロテスクな映画とか、バイオレンスな映画を通して、「もう嫌だ」という感じを得たいがために、わざわざ観に行くのです。集約すれば、生きるとは、存在欲・怯え・無知というエネルギーを蓄えることなのです。

・こころに「燃料切れ」はありません。

というわけで、こころに「燃料切れ」という事態はあり得ません。絶え間なく燃料が供給されている状態なのです。

・存在欲・怯え・無知を蓄えることが「生きること」になっているので、物質的・文化的な変化があっても、人間としては皆、昔から今まで、だらしない、恐ろしい存在なのです。

人類社会はものすごい文明を築いています。でも、人間を生命としてみたら、昔も今も全然変わっていません。生きるとはこころの仕事ですが、そのこころは貪瞋痴だけなのです。昔の人間も貪瞋痴で、江戸時代の日本人も貪瞋痴で、現代日本人も貪瞋痴です。

脳味噌の機能から説明

それから、脳の機能を説明します。脳とこころは一つではないが、現代人の知識世界では身体の機能の一環として、脳の機能もわかりやすく説明しているのです。脳を研究する人々は、こころとは脳の働きだと言っています。それは正しい結論ではないのですが、物質的なデータを重視する科学世界では仕方がないことでもあります。

・脳科学は人気のある学問になっています。

身体のことを説明している本よりは、脳の働きを説明する本のほうが、一般人も喜んで読んでいるようです。いまは脳の働きを調べる機械が開発されているので、新たな興味深い研究分野にもなっています。現代の脳科学は、昔の脳科学とはずいぶん違います。人の身体になんの悪影響も与えず、生きている脳をチェックすることができるようになっているのです。

・人間には、ものの理解はできるが、機能・働きの理解は難しいようです。

科学とは「もの」の理解なのです。触ったり、見たり、測ったりすることができる「もの」の研究なのです。しかし、働きがなければ、ものが存在するのだと発見することも不可能です。例えば、火は熱い。触ったら火傷します。その発見は、自分の身体に何か働きが入って、変化が起きたことなのです。
しかし、科学者はその働きを無視して、「火の熱さは何度か、火傷はどの程度か」と、もので理解するのです。人間には、機械やメーターが惹き起こすデータが必要です。機能を研究しないのです。

人間の知識はすべて、五根(眼耳鼻舌身)から入るデータに基づいたものです。五根に反応しないものを知る余地はないのです。ですから、「こころの働きを研究しよう。自己・自我とは何なのかと研究しよう」と思って、脳という物体・ものを調べることになるのです。
仏教の場合は、はじめから機能・働きの研究であって、ものの研究ではないのです。仏教では、物質について説明をする時でも、原子・電子など、ものの単語は使いません。定義する場合も、こころと物質を機能で定義するのです。

・こころの科学的な説明は、脳の説明になります。

例えば、人がものごとを見るとしましょう。科学者は、脳のなかで視覚が生まれる場所を割り出そうとします。脳細胞のなかで、電気信号がどこを行ったり来たりしているのかと調べるのです。働きを使って、「もの」を探しているのです。仏教の立場から見ると、逆さまのやり方に思えてしまいます。
仏教では、「働きがあるからものがあると推定するのだ」という立場なのです。「脳がある」とは、何か働きがあるから発見することです。
見る・聴く・嗅ぐ・考えるなどの働きを通して、脳のなかにそれぞれの仕事を司るモジュールがあるのだと、脳科学者がいうのです。脳科学者の立場は、モジュールがあるから働きがある。仏教の立場は、働きがあるからモジュールがあると推定する。
現代脳科学では、脳細胞の仕事は固定したものではなく、定まっていないといいます。見る機能を司るモジュールの神経細胞に何かトラブルが起きたら、その仕事は他の神経細胞にやらせることも可能なのです。ただし、それなりの訓練は必要です。

昔の脳科学では、例えて言えば「水はグラスで飲むことに決まっている」というような話です。しかし、水を飲みたければ、グラスでもカップでもお皿でもできます。手のひらで掬って飲むこともできます。蛇口に口をつけて、飲むこともできます。たいした訓練ではありませんが、ある程度訓練していないと、どんな器を使ってでも水を飲むことはできなくなるのです。
現代脳科学は、「神経細胞に定まった機能はないが、ある程度で役割分担しているのだ」という立場です。スプーンでも水は飲めるが、紙コップかグラスを選ぶことに決まっている、というような話です。

・脳の働きを学んでみても、冥想をする必要はわかります。

神経細胞には、ある程度の働きが自然法則によって与えられています。定まっているわけではないのです。それから、使わない、使えない、使うチャンスが起きない神経細胞もたくさんあります。進化論の立場から考えると、無駄・役に立たない・必要でないものが存続するわけがないのです。
ではなぜ、脳のなかに必要以上に神経細胞が溜まっているのでしょうか?使わない神経細胞も使うことができるならば、われわれは奇跡的に進化できることでしょう。仏教はそれを推薦しているのです。人間に、超人間になる道を教えているのです。
ですから、冥想とは、使われていない脳細胞に仕事ができるよう訓練を施すことです。併せて、使っている脳細胞にも失敗なく仕事できるように訓練することです。

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この施本のデータ

なんのために冥想するのか?
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2016年4月29日