施本文庫

お釈迦様のお見舞い

気づきと正知による覚りへの道  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

◆冥想の手引 主観の割り込み

生命は、無始なる過去からデータを捏造して誤知で認識してきたので、この習性はかなり手ごわいのです。気づきの実践を始めても、滑り台をすべるように簡単には進みません。始めたとたんに自分の主観がしつこく割り込みます。主観が割り込むたびに冥想実践はストップ。気づいたところで、また実況中継が始まるでしょう。そして一瞬の隙をついてまた主観が割り込んで、実践にストップをかける――。この繰り返しなので、冥想がやりづらくなるのです。

しかし本当は、冥想実践が苦しいというのは、あまりにもおかしな話なのです。
私たちはもっと難しいことを二十四時間やっています。喧嘩や料理や仕事などは、冥想よりずっと難しい。いろいろなことを考えなくてはいけないし、計画を立てなくてはいけないし、失敗を怖がらなくてはいけないし、人の批判・評価などを気にしなくてはいけないのです。

それに比べたら、いまの瞬間に何が起きているのかと確認することは、はるかに簡単なはずです。ただ確認するだけですからね。べつに苦行のようなことをやっているわけではないのです。だから冥想が難しいということは、論理的には成り立ちません。むしろものすごく簡単であるはずです。実際、お釈迦様や阿羅漢たちは、「これほど簡単な、楽な楽しみはない」と語っています。サティのある人が味わう喜びは、人間の世界でも天国でも味わえない、と。それくらい優れた楽なのです。

それなのに私たちがサティを実践しようとすると、地獄でグツグツ煮られるように感じてしまうのです。それは、やはり「誤知」が邪魔しているからです。自分で判断しようとしているのです。「痛み」というべきところを「痛い」と実況するのです。その時点で、もう冥想ではなくなって、かなり苦しくなってしまうのです。

つまり冥想が苦しいのは、自分の誤知が攻撃して、自分がいままで捏造してきた誤知の認識概念を大事に守ろうとするからです。言い換えるならば、「私の誤知を正しい認識だと認めてください」と叫んでいるようなものです。
冥想を始めたら、必ずこのようなことが起こると覚悟したほうがよいのです。だから私は、冥想が始まる前に、皆さんに「誤知」の問題を納得するように徹底的に教えているのです。そのときは極限に「一切の概念は嘘である」というところまで言います。「嘘」というのは極端な表現ですが、そこまで強調するのです。皆さんはそこまで言われて理解したつもりではいるが、いざ気づきの実践を始めると、頭の中で強烈に自分の思考をアピールしようとするのです。こころの中で自分が正しいと必死で踏ん張ってしまうのです。

それでもやっぱり、サティの実践が難しいというのは屁理屈です。難しいと思うことさえも捏造なのです。サティの実践には、何かを計画する必要もないし、失敗する恐れもない。ただ確認するだけの作業です。理論上、難しくなるはずがないのです。

ここで釈尊は、気づきと正知をもって「時間を過ごす(kālam āgameyya)」と指導しています。先にちょっと時間について触れましたが、本当は「時間」というものはないのです。時計や数字で計算する、時間という何かが存在するわけではないのです。
しかし、私たちは普通に時間を計算できるでしょう。本来は存在しないものなら、なぜ計算できるのでしょうか?

釈尊は「すべての現象は無常である」と説かれました。それが事実・真理です。何でも変化しつつ、変わりつつ、なのです。私たちはその変化の過程で起こる現象を数えて、それに勝手に「時間」とか名付けているのです。「私に肉体がある」というなら、「この肉体に関しては、時間という概念も成り立っている」ということです。
しかし生きていれば、瞬間瞬間、身体とこころが変化するのです。だから、その時その時で何が起きているのかを確認して知っておくべきです。それが気づきと正知をもって時間を過ごす、ということなのです。

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この施本のデータ

お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2008年5月