施本文庫

「宝経」法話 

Ratanasuttaṃ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第十二偈

Vanappagumbe yathā phussitagge
ワナッパグンベー、ヤター、プッスィタッゲー
Gimhānamāse paṭhamasmiṃ gimhe
ギンハーナマーセー、パタマスミン、ギンヘー
Tathūpamaṃ dhammavaraṃ adesayi
タトゥーパマン、ダンマワラン、アデーサイー
Nibbānagāmiṃ paramaṃ hitāya
ニッバーナガーミン、パラマン、ヒターヤ
Idam pi Buddhe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、ブッデー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

夏の最初の月(春)、
叢林の枝先に花咲き満てるが如く、
その如く、最高の利益となる
涅槃に導く尊き教法を説き給いし。
此は佛陀が勝宝たる由縁なり。
この真実により、幸いがあらんことを。

諸々の夏の[月の中の](gimhāna)最初の(paṭhamasmiṃ)夏の(gimhe)月において(māse)(春において)、
森の中の叢林の(vanappagumbe)[満開の]花をつけた梢のように(phussitagge)、その譬喩のとおり(tathūpamaṃ)、涅槃に導く(nibbāna gāmiṃ)最上の法を(dhamma varaṃ)最高の利益のために(paramaṃ hitāya)説き示された(adesayī)。
これも(idam pi)佛陀における(buddhe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

ブッダの教えは咲き誇る花々のように輝く

「夏の最初の月(春)に木々の先に一斉に花が咲くように、お釈迦さまは涅槃にいたる最高の教えを最高の利益のために説かれました。それゆえにブッダは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。」

この偈でブッダの徳を称えています。ブッダの徳を人間が知り尽くすことは不可能です。ブッダの能力はすべての生命の理解能力範囲を超えています。ですから、ブッダの徳を示すことはたいへん難しいのです。しかし、お釈迦さまは無量にある自分の徳・能力の中から、一つだけあえて示しているのです。それは「教示能力」です。先入見で固まって、貪瞋痴の衝動のみで生きている生命には、貪瞋痴を超えた真理は理解不可能です。それは例えて言えば水中に生活している魚に陸上の素晴らしさを教えるようなものです。陸上に水が溢れていないと聞いただけでも、魚さんは怯えて震えるでしょう。

お釈迦さまはこの不可能なことに挑戦しました。そして不可能を可能にしてみせたのです。人に知識があっても無くても、それに関係なく日常生活で使う一般的な単語を使って真理を説いたのです。誤解が起きないように、難しく感じられないように、こころが喜びに溢れるように、目が醒めるように、無知の闇が破れるように、教えたのです。未だかつて誰も発見できなかった幸福の道を老若男女、皆に平等に語ったのです。それは春先に花が咲き乱れるような教えであると、例えてあります。お釈迦さまは、究極の幸福である涅槃に至る道を解き明かしました。ブッダに無量の徳があるとしても、我々はこのブッダの一つの徳・能力のおかげで助かったのです。地獄に堕ちる道、苦難に陥る道が閉ざされたのです。これが真実です。仏説を理解する人のこころは、悪から解放されます。

しかし、なぜお釈迦さまの教示能力を簡単に萎れてしまう花に喩えたのでしょうか。それはブッダの教えも花のようにすぐ消えてしまう、という意味ではありません。花とは不思議な存在です。それぞれの花の形は完璧です。花をより美しくするために、別な花びらをつけたり、また花びらを取ってあげたりする必要はありません。そのまま完璧で美しいのです。ブッダの言葉は完璧です。言葉が達者な人はこの世で無数にいるが、ブッダほど言いたいアイデアを完璧に語れる人はいません。仏説の中で矛盾を見出すことはできないのです。ブッダの言葉は、より分かりやすく編集することも不可能です。教えが完全であることも、人類に幸福を与える事実です。

第十三偈

Varo varaññū varado varāharo
ワロー、ワナンニュー、ワラドー、ワラーハロー
Anuttaro dhammavaraṃ adesayi
アヌッタロー、ダンマワラン、アデーサイー
Idam pi Buddhe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、ブッデー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

至善にして至善を知り、至善を与え、至善へ導く
無上士は、最上の至善たる教法を説き給いし。
此は佛陀が勝宝たる由縁なり。
この真実により、幸いがあらんことを。

すぐれた人が(varo)、すぐれたことを知る人が(varaññū)、すぐれたことを与える人が(varado)、すぐれたことをもたらす人が(varāharo)、
[そのような]無上の人が(anuttaro)すぐれた法を(dhamma varaṃ)説き示した(adesayī)。
これも(idam pi)佛陀における(buddhe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

唯一偉大なる言葉

「最勝の方が、勝れたものを知り、勝れたものを与え、勝れたものへ導く無上の法を説かれました。それゆえにブッダは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。」

この偈もブッダの特色を語っているところです。Vara(ワラ)という単語をいくつかのニュアンスで使用して、偈にしています。Varaは「優れた(勝れた)」という意味です。Varoは「優れた方」という意味で、ブッダを指します。Varaññū(ワランニュー)は「優れたことを知った方」という意味です。優れたこととは、解脱・涅槃のこと。Varado(ワラドー)は「優れたものを与える人」、皆に解脱への扉を開いたお釈迦さまのことです。Varāharo(ワラーハロー)とは「優れたものをもたらす人、運んでくる人」、涅槃という優れた境地を我々のためにもたらすので、お釈迦さまのことです。この四つの言葉で、ブッダを意味します。ブッダは世界のすべての知識に勝る、真理を語った方です。この真理が人類にこの上のない幸福をもたらすのです。

第十四偈

Khīṇaṃ purāṇaṃ navaṃ n’ atthi sambhavaṃ
キーナン、プラーナン、ナワン、ナッティ、サンワラン
Virattacittā āyatike bhavasmiṃ
ヴィラッタチッター、アーヤティケー、バワスミン
Te khīṇabījā avirūḷhichandā
テー、キーナビージャー、アヴィルーリッチャンダー
Nibbanti dhīrā yathāyaṃ padīpo
ニッバンティ、ディーラー、ヤターヤン、パディーポー
Idam pi Saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、サンゲー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

「古き[業]は尽き、新しき[業]は生ぜず」。再び生まるることに未練はない。
種子[業]が尽きた。貪欲を根絶やしにした。彼の賢者たちは、灯明の如く寂滅す。
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。この真実により、幸いがあらんことを。

古い(purāṇaṃ)[業]は尽き(khīṇaṃ)新しく(navaṃ)発生する(sambhavaṃ)[業]は存在しない(natthi)。
未来の(āyatike)生存に対して(bhavasmiṃ)心離貪したもの(viratta cittā)[となり]、[生存の]種子の尽きた(khīṇa bījā)[種子の]成長を欲しない(avirūḷhicchandā)、
かの(te)賢者たちは(dhīrā)この(yam)灯火(padīpo)のように(yathā)消える(nibbanti)。
これも(idam pi)僧団における(saṅghe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

完全たる自由(阿羅漢)

「過去の業は尽き、新たな業は生じない。生まれ変わりたいという思いはない。種がつき、すべての煩悩を捨て去った賢者たちは、死するとき、灯りのように消えていく。これもまたサンガにおける勝れた宝である。この真実によって幸せでありますように。」

第七番目の偈で、サンガの徳として阿羅漢に達した聖者のことが説かれています。それまでの偈では、預流果に達した弟子達のことを説明してきました。この経典の最後の偈というべき第十四番目の偈で、再び阿羅漢に達した聖者のことを説明します。阿羅漢のこころの中は、一般人に理解できるように語ることは難しいのです。それでも、この偈で何とか理解できるようにと説明しているようです。

阿羅漢に達した時点でいままで背負ってきた無量の過去の業はすべて無くなります。善業も悪業もすべて消えてしまうのです。輪廻転生して苦しみを再現するために必要な、業というエネルギーが消えてしまったのです。貪瞋痴が根絶されたので、阿羅漢の聖者が身体・言葉・考えるという三種類の行為をして生きていても、その行為は業になりません。ただの行為で終わります。来世はどうなるのか、という悩みは一切ない。輪廻に対して、生きていることに対して、まったく執着がないのです。阿羅漢は皆に説法したり冥想指導したり弟子を育てたり、仏教を次の世代にも伝えるために必要なことをなさったりするのです。ふつうの人はこのように献身的に努力すると、優れた徳を積むことになります。しかし阿羅漢の場合は、行為をしてもその行為に業としての果報をもたらす力がないのです。

例えば、世界で一番おいしい果物があるとしましょう。しかし、その果物の中に種がないならば、できるのはせいぜい、おいしく食べることだけです。阿羅漢の聖者の努力によって我々一般人はこの上のない幸福に達することができますが、阿羅漢の聖者にはただの行為で疲れるだけでしょう。見返りはありません。阿羅漢の聖者達は渇愛を根絶したので、輪廻の苦しみから炎のように消えてしまうのです。涅槃とは何かと知識で理解することは不可能ですから、輪廻の立場から語っています。「消えた炎は東西南北のどこに行ったのか」という問いは成り立たないのです。阿羅漢は輪廻転生という無限の苦しみから、炎のように消えるのです。

第十五偈~第十七偈

Yānīdha bhūtāni samāgatāni
ヤーニーダ、ブーターニ、サマーガターニ
Bhummāni vā yāni va antalikkhe
ブンマーニ、ワー、ヤーニ、ワ、アンタリッケー
Tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ
タターガタン、デーワマヌッサプージタン
Buddhaṃ namassāma suvatthi hotu
ブッダン、ナマッサーマ、スワッティ、ホートゥ

ここに集いし諸々の精霊は、
地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、
人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。
佛陀に礼拝奉る。幸いがあらんことを。

Yānīdha bhūtāni samāgatāni
ヤーニーダ、ブーターニ、サマーガターニ
Bhummāni vā yāni va antalikkhe
ブンマーニ、ワー、ヤーニ、ワ、アンタリッケー
Tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ
タターガタン、デーワマヌッサプージタン
Dhammaṃ namassāma suvatthi hotu
ダンマン、ナマッサーマ、スワッティ、ホートゥ

ここに集いし諸々の精霊は、
地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、
人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。
法(ダンマ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。

Yānīdha bhūtāni samāgatāni
ヤーニーダ、ブーターニ、サマーガターニ
Bhummāni vā yāni va antalikkhe
ブンマーニ、ワー、ヤーニ、ワ、アンタリッケー
Tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ
タターガタン、デーワマヌッサプージタン
Saṅghaṃ namassāma suvatthi hotu
サンガン、ナマッサーマ、スワッティ、ホートゥ

ここに集いし諸々の精霊は、
地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、
人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。
僧(サンガ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。

ここに(idha)集ってきた(samāgatāni)生き物たちは(bhūtāni)あるいは(vā)地にいるものたちも(bhummāni)あるいは(va)虚空において(antalikkhe)いるものたちも(yāni)、
諸々の天と人々によって供養された(deva manussa pūjitaṃ)如来を、(Tathāgataṃ)佛陀を(Buddhaṃ)…法を(Dhammaṃ)…僧団を(Saṅghaṃ) [私たちは]礼拝しましょう(namassāma)。幸いが(suvatthi)あれよ(hotu)。

霊たちの礼拝と祝福

「お釈迦さまの周りに説法を聴くために集まった地に棲む霊たち、空に棲む霊たち、皆そろって、『人間と神々に尊敬されるブッダに、ダンマに、サンガに、礼拝をいたしましょう』という言葉で三宝に礼をします。そして『幸せでありますように』と、皆にも霊たちが祝福するのです。」

宝経はこの十四番目の偈で終了です。第一の偈で宝経が始まった時、お釈迦さまは霊たちに「こころを込めて聴きなさい」と仰りました。霊たちが真面目にブッダの言葉を聴いたと理解しましょう。宝経の偈一つひとつの終わりに、仏教は生命の幸福を目指していること、期待していることを告げます。お釈迦さまの説法が終わったので、霊たち皆そろって、三宝に礼拝します。それからお釈迦さまの期待に沿って、人間に「幸せでありますように」と祝福するのです。いかなる生命であっても、悩んではならない、苦しんではならない、幸福に穏やかに生きて欲しい、というのが仏教の期待なのです。

おわりに

この経典を読んでみると、仏教の目的は、お釈迦さまが発見した真理を何としてでも発表したいということではないと理解できるはずです。仏教は、一切の生命の生きる苦しみを哀れんでいます。究極の幸福を発見したお釈迦さまは、すべての生命の幸福を目指してその真理を明かされました。仏教を学ぶ我々も、「生きとし生けるものが幸福でありますように」という気持ちをつねに念頭に置くべきです。これがすべての生命に幸福をもたらす確実な方法なのです。

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この施本のデータ

「宝経」法話 
Ratanasuttaṃ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月