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ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

身体と心のバランスは業が関係していますか?

Q:身体と心についてうかがいたいです。身体の状態(病気、怪我)などに引きずられるように心の状態が悪くなってしまいます。それはやはり、業のメカニズムと関係しているのでしょうか。どうすればいつも心が穏やかな状態を保てるのでしょうか。

A:高度な冥想をしていない限り、我々は輪廻転生するときに、何か物質・身体を作ります。身体と心は、ものすごい腐れ縁のようなものです。心には最強・最大の力がありますが、我々はずっと肉体に依存して生きていて、心がその力を発揮するチャンスがまったくないのです。心は、身体がないと機能できないという誤解に陥っているのです。

皆さんもそうでしょう? 身体のどこかが機能しないことを考えただけでも、死ぬほど恐くなるでしょう。たとえば、目がなければ困る、耳がなかったら困る、舌の感覚がなくなったらどうしよう……。しかし、肉体はどうしても壊れるものです。身体がちょっとどうにかなっても心には本当は関係ないのですが、心はすごく臆病で、身体にムチャクチャ依存するのです。そんな、ムチャクチャ依存する愚かな心が身体を管理するのですから、身体もろくなことがありません。いろいろな人の身体を調べても、いろいろな欠点というか、欠陥があるのです。

必ず身体にはどこかちょっとおかしなところがあります。それは心の問題なのです。逆に、ほんの少しでも身体に何か変化が起きてしまうと、心がビックリして、興奮して怖くなって、驚きます。驚いてしまうと、その瞬間、驚いた影響が身体に入ります。そして、身体がさらに壊れます。いつでも悪循環になるのです。

ふつうは、肉体がいろいろ壊れたり怪我をしたりしても、だいたいすぐ治ります。肉体は業(kamma)の法則だけではなくて種(bīja)の法則によっても管理されていますから、壊れても何とかなります。肉体の種子の法則に任せておけば、治療しなくても治るのです。しかし、私たちは任せませんね。病気になったら「ああ大変だ、どうしよう、先生治してください」と興奮したりして、驚いて心を弱くするのです。すると、植物なら一週間で治すことが、心が肉体をいじることで二~三カ月間かかったりするのです。たとえば、病気になったら最初はびっくりして興奮していても、ずーっとそういう状態でいると、病気に慣れてしまいます。慣れると「あ、別に驚くことじゃないや」という気分になります。落ち着くのです。そこでやっと回復方向にいく。心と身体はそういう関係なのです。

ですから、あまりにも肉体を心配する人々は、早く病気になります。たとえば、女の子はけっこう身体のことを気にしますが、男の子はあまり身体のことを気にしないものです。遊ぶことがいちばん大事で、ケガしても別にかまわない。親が「このケガならちゃんと消毒して手当てしないと」というような傷をつくっても「べつにいいよ」と言うのです。実際、それでいいのです。すぐに治りますからね。

心で悩んだり心配したりすると、病気が持続することになります。ですからいつも、肉体は肉体の法則で、遺伝子の法則で、種子の法則で、もう何とかなるだろう、私は関係ないんだと思うことが早く治すコツなのです。「肉体が勝手に病気になった、知ったことではないよ」という調子でいると、けっこう早く治ります。いつでも心穏やかにしたければ、悩まず、妄想しないで、慈しみの気持ちで生きることです。そうすれば心が明るいのです。

慈しみの実践をしたら、だいたい7割ぐらいの病気は消えてしまうと思います。慈しみを実践する人にも病気がある場合は、それは業のプログラムですからどうにもなりません。「ああ、そうですか」と、それはそのまま受け取るしかないのです。それ以外の病気はほとんどないのです。慈しみを実践するとケガもしません。何となくガードになって身体を守ってくれます。「心が病気にならないように」というお釈迦様の言葉がありますから、毎日、慈しみを実践してください。そうすると心は明るくなると思います。

趣味が業におよぼす影響とは?

Q:写真を撮ることが好きで、趣味といってもいいと思います。しかし最近、それは執着なのではないかと考えるようになりました。写真を撮ることは行為として執着なのか、また、撮ることや写真を観た人が感じた結果によって、善業とも悪業ともなり得るのか、今、考えているところです。ご助言ございましたらお願いします。

A:写真に限らず、その趣味のやり方次第で、善業にも悪業にもなります。趣味を頑張るのはかまわないのですが、それで何を表現したいと思っているのか、が大事です。ただの時間つぶしなのか、何もないと人生がつまらないから趣味をもって面白くするために、というものなのか。

「人生を面白くするため」ということなら、そんなに善とも悪とも言えることではありません。つまらなく退屈でいるよりは、心を明るく活発にしたほうがいいですから、個人的な趣味で写真にかかわるのもいいでしょう。

あるいは写真で何か表現したいと思っている場合、その表現したいことによって善にもなるし悪にもなります。ですからそこを考えてください。

たとえば、同じ動物の写真を撮る場合でも、何を表現するのかで業が変わってくるのです。「動物はとても美しくかわいく生きている」ということを表現したいのか、「動物たちも人生は大変だ」ということを表現したいのか、などです。テレビで時おり、昆虫のサバイバルというか、どうやって交尾して相手を誘惑するのか、ドキュメンタリー番組で紹介したりします。その時に、観た人が「ああ、大変だなあ」とか「生命が誕生するというのは昆虫であってもかなり綿密な世界だなあ」とか、「生きるというのは誰でも同じだ」などというメッセージが伝わってくるとしたら、それはいいメッセージを伝えていることになります。ですから「善い」とは言えます。そのあたりを、個人的な趣味に関する場合は個人でしっかりする必要があるのです。ただ「欲」を表現したくて出すとしたら悪いことになってしまいます。

ですから、自分で決めるのです。まず趣味を持って明るく生きることにする。この質問者が写真を趣味にしているのは、明るく生きる手段としては別に善でも悪でもなく、どちらかと言えば「まあ、いいんじゃないかな」というほうに入ります。つまらなく生きているよりは、脳をちゃんと活発にしたほうが良いですからね。その先、「人に見てもらいたい」という側面については、「何を表現しているのか」ということが大事です。「あんた、すごいねえ」とか、褒められたくてやっているならば、あまりよろしくありません。それはただのエゴですね。自分では褒められたいとそんなに思わなくても「この写真を見て感動しました」とか言われるようなら、いいことかもしれません。そこらへんは個人で判断して、どうやっていくかを決めるべきでしょう。

なりたい仕事や歩むべき道は業と関係しますか?

Q:現在大学四年生で来年就職しなければなりません。しかし、とくにしたいこともなく自分はどうしたいのか、いくら考えてもわかりません。かといってしたくもない仕事をするような会社に入りたくはありません。これから先の道がまったく見えない状態です。どうしたら、自分はどうしたいのかがわかるでしょうか。自由に心落ち着いて生きていきたいです。もし、業(カルマ)の性質や前世などを理解できれば、少しは落ち着いて道を進めるのでしょうか。アドバイスをお願いいたします。

A:自分のことを考え過ぎなんですね。どの職業を選ぶか、どんな仕事に就くかなどについて、それほど大げさにとらえる必要はないと思います。

夢を見るのは自由ですが、あまりにも見過ぎるのは危険です。現実的に考えると、我々はその日その日で何とか生きてきただけなのです。たとえば、この方は大学四年生だと言いますが、まず大学に入学したときには一年生でしたから、そこでやるべきことをやりましたね。そして、二年生になったらその時やるべきことをやったでしょう。そうして四年生になった今、就職活動とかいろいろやらなければいけないことがあります。ですから、その日その日でやるべきことをやればいいのです。

いくつかの仕事を見つけて、「どれにしようかな」と迷って、決める時に、たとえば仕事の名前を紙に書いてトランプのようにシャッフルしてから、目をとじて「じゃあこちらにしましょう」と一枚ひいて決めてもかまわないと思います。それぐらい気楽でいいのです。仕事を選ぶのに、そんなに大胆な意味づけをしてはいけないのです。

何を基準に仕事を選ぶかといえば、できるだけ自分にとってやりやすい、単純な仕事を選ぶのも選択基準のひとつになりますね。それは「仕事はたいしたことではない」という意味ではありません。仕事はとても大事なことです。仕事があるからこそ、人間が生きていられるのです。それは「仕事をして給料をもらって生活する」という側面もありますが、大事なのは、「仕事そのものが人々を助けることである」というところなのです。ですから、皆さま方が真面目に仕事をしないと、世の中は成り立たないのです。

電車の運転手は、ものすごく面白くない仕事をやっています。もう、あれほどつまらないことをよくも何時間もできるものだと感心するほどです。しかし、そういう人々がものすごく真剣に仕事をするので、我々は死なずにすんでいるでしょう。世の中をちゃんと動かすためには、仕事という項目は欠かせないものなのです。

ですからどんな仕事でもかまいません。やる時は真面目にやって、「ああ、よく出来ました」と納得がいく、それぐらいのことで十分だと思います。ですから、あまり大胆に考えないで、自分なら簡単にやり遂げることができる、と思える仕事を選んだほうがよいのです。

私たち誰もがするべきことは、この質問に挙げられたような仕事ではなく、「日々、よりよい人間になること」なのです。我々は、生まれてから死ぬまで生きていなければいけません。ですから、何よりも、よりよい人間になることが一生の仕事なのです。大切なのは、どんな会社に入るかということではないのです。会社に入っても、ずーと居られるわけではありません。ですから、一生の仕事は「日々よりよい人間になること」だと理解して、収入を確保するために何とかしますよ、いうことで仕事を捉えればよいのです。

将来の夢をあまりにも考えたところで、現実にはその日その日で生きているだけの人生でしょう。私も同じですよ。こうやって日本に住んでいますが、そんなことは若い頃には想像もしていませんでした。私は、歳を取るまで大学で生きると思っていたのです。しかし結局はやめてしまいました。ま、そんなものですよ。嫌になってやめて、その日その日で生きていて、若い時には想像もできないことをやっているというわけです。

今も、その日その日でやるべきことをやって生きているだけです。たとえば「明日、講演会ですよ」となれば、前の晩は家でデータを探して繋げて繋げていって、スライドを作って、準備します。その日その日で生きているだけです。若い者も同じです。ただ、若い人たちには将来が長くありますから、認めたくないだけです。でも、将来がどれぐらいあるかなどということはわかったものではないでしょう。ですから、「あれはやりたくない」「これもどうかな」「自分には何が合っているかな」などと悩んでいるだけでは、時間がもったいないです。「私はどうすればいいか」ということだけを、その日その日で、さっさと、「こちらにするぞ」と気楽に選んだほうがいいと思います。

ですから大事なのは、どんな仕事を選ぶかではないのです。人生は仕事とは別にあります。よい人間になることは、どんな仕事を選んでもできると思います。いろいろ勉強したりして、自分の別な世界、自分の人格を向上する別なプログラムを進めていっていただきたいのです。それがずーっとやるべきプログラムであり、それを続ける上でも収入が必要ですから、それは何か仕事を選んでやればよろしいでしょう。会社を退職しても、元気で生きている限りはまた別の仕事が見つかると思います。そういうふうに気楽に考えたほうがいいと思います。

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この施本のデータ

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2012年