施本文庫

ブッダが幸せを説く

人の道は祈ることより知ることにある 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「ブッダ」とは何か

では、その「ブッダ」とは何でしょうか。

ブッダというのは、田中さん、中村さん、村山さん、というような感じで人を呼ぶための名前なのでしょうか。そうは考えにくいでしょう。普通の人は「まあ、ブッダというのは特別の人であって、確かに呼称かもしれないけれど田中さんや中村さんとは一緒にできないなあ」と考えるのではないでしょうか。

ブッダというのは、ある精神的な立場、位置なのです。ブッダは人の名前ではありません。ブッダ、つまりお釈迦さまは実在の人物ですから、きちんとした名前があります。日本的にいえば、ゴータマ・シッダッタで、姓がゴータマになります。ですから西洋的にいえば、シッダッタ・ゴータマということになります。

一般的には、サンスクリット語の発音で、ガウタマ・シッダールタと使われています。

 Gotama Siddhattha ゴータマ・シッダッタ(パーリ語)

 Gautama Siddhārtha ガウタマ・シッダールタ(サンスクリット語)です。

さて、ブッダというのは精神的なステータスというか、そういう位置を示す言葉なのです。ブッダというのは buddhi という言葉と関係があるのです。
buddhi とは intelligence あるいは knowledge のことで、わかりやすくいえば、智慧なのです。(サンスクリット語で、「知る」の意味で√budhu という語根から智慧に関わる buddhi / Buddha などの言葉が形成されるのです。)

ですからブッダとなると、智慧を完成した人、智慧の完成者、智慧の成就者という意味なのです。つまりブッダは、人間以外の何か神秘的な存在でも、神や仏のような目に見えない抽象的な存在でもありません。あくまでも私たちと同じ人間です。

「ブッダの教え」が宗教化した背景

仏教は、方法を教えて実践してみればこうなります、という教えです。ですから世間で役立っている医学、化学、物理学、などと同じような科学的アプローチができる教えとして見て、一向に構わないのです。
ただ、今から二千六百年前に、このような非常に現代的な視点を持つ傑出した人物が存在していたという事実には驚かされますが。

当時は現代と違って、核家族的な孤立社会ではなく、共同体的な大きな社会でした。そして現代よりもインチキな信仰や迷信などが非常にはびこっていた時代でした。その後、宗教哲学とかいろいろなものが発展しましたが科学的思想はそれほど発展しませんでした。そこで時代を経るうちに、ブッダの教えも一つの宗教というジャンルにくくられてしまい、今日まできてしまったのではないでしょうか。

私たちインド文化系の人間にとって、一芸に秀でた師や先生の教えを尊び、畏敬の念を抱くことは、当たり前のこととされています。現代の日本のようにいろいろ教えてもらっても学校を卒業すれば師弟の関係もそれでおしまい、というような義務感だけで結ばれている冷淡なものではありません。
一度でも何かを教えてもらった先生には、一生を通じて感謝の念を持ち続けるのです。

そういう私たちの文化圏の生き方、考え方ですから、どんな哲学を教えてもらっても、その教えてくれた人は結局、仙人のような存在になってしまうことになります。教えてくれた人を尊ぶという非常に慎み深い良い面もあるのですが、反面弊害ともいえる部分も否定できません。

例えば、インドには有名な星占い師がいます。決して偏見でいうわけではありませんが、占い師などがやっていることは大したことでもないでしょう。むしろ人の心をおびやかしたり、迷わせたりする害のほうが大きいので、迷信の類といえるのですが、そういう星占い師を未だに仙人として敬っている人も多いのです。日本などでは考えられないでしょうが、宗教者ではない占い師に対してさえ、やっぱり尊い教えを授けてくれたからと、お線香を焚いて、礼をして拝んでいるのです。これは現代のインドでもごく日常的に見られる風潮です。
そういう文化の環境下にある国ですから、仏教であれ他のことであれ、それが信仰や宗教になってしまうのは、やむをえない現象かもしれません。
といって、現在私たちが考えている新興宗教や、人を厳しく束縛して財産や自由を奪って、奴隷や動物扱いをするような宗教まがいのものや、あるいは教祖が「皆さん、来年は世紀末ですから毒を飲んで死になさい」といえば皆いっせいに自殺してしまう、といったカルト集団とも違うのです。

科学の発展がもたらす危険な側面

面白いことに、そのような恐ろしい人殺しの宗教はその頃のインドにはなく、科学が発達した現代の世界に多いのです。日本も科学の発達した国ですから、現在では同じタイプの宗教があります。科学の最先端をいくアメリカなどには、そのような恐ろしいカルト宗教がいくらでもあります。一つ滅びてもまた新しいものができあがってくるのです。
それは科学の発達がもつ一方の弊害で、人間は心を見ることをまったくしなくなり、科学の発達に反比例して人間が愚かになっていくのですね。まったく不思議です。科学が発達すればするほど視野がどんどん狭くなってものごとが見えなくなって、その結果何もわからなくなっていくのです。

科学自体が悪いわけではありません。ただ、その科学一辺倒のなかで人間がどこか少しレールを脱線するというか、違うところに行ってしまうのです。それが現代人の抱えるひとつの問題なのです。
Specializationという英単語があります。特殊化、専門部門といった意味で使われていますが、現代社会ではものごとをきめ細かく分けて、専門化してその一部だけを勉強する傾向にあるのです。

からだのことを例にとってみても、病気になったら病院へ行って、「先生、病気になりましたので、治して下さい」とお願いしますね。私たちの実感としては、病気になるというのは、からだ全体が異常になる感じなのです。風邪をひいてもそのような感じでしょう。
しかし、病院へ行くと、いろいろな科に分かれていて、診察の段階から私たちを悩ませます。どこに行って診てもらったらいいのか迷ったすえに、ある科にいくと、そこで非常に局部的な治療をするのですね。心臓の先生は心臓以外のことをまったく気にしない。自分の専門分野である心臓は徹底的に治療し、それで治ったというかもしれませんが、からだを全体的にみると、患者の感覚としては、治っていないのです。患者としては治ったという実感が持てないので、「先生、まだあっちが痛い、こっちが痛い」と言いますよ。でも先生は心臓を診て、「あなたの心臓はもう大丈夫でしょう、ほかへ回ってください」と言う。それでほかへ行くと、「あなたの肺がよくない」と言ってその肺の専門家が、胸を開けて肺をいじったりするわけです。からだにとって、ものすごく残酷なことになるのです。患者である私たちの、生命として生きる自由さえ奪っているわけですから。

外科は外科のことしか知らない。内科は内科のことしか知らない。ということは、お医者さんが結局からだのことを知らないという大変な矛盾が起こる。自分の専門分野は詳細に知っているけれど、からだのことは知らないのです。自分の専門分野ではとてもうるさいことを言うのですが、ごく普通の他のことを訊くと、小学生がいうようなことを言っているのです。

からだの各部についての専門知識は持っていませんが、からだに関しては私たちのほうがはるかに智慧をもっています。科学の世界は、細部にわたって非常に発達していったのですが、肝心の全体が見えなくなっているのです。日本には「木を見て森を見ず」ということわざがあるでしょう。科学の世界ではそのとおりのことが起こっているのです。

こういう歪んだ現代社会の構造ですから、私たちは雨後の竹の子のように発生してくる新興宗教にも、充分に注意したほうがよいのです。よく見抜かなければ恐ろしいことになります。科学の犯した失敗と同じように、私たちの命そのものを奪ってしまいますから。

たしかに、迷信やインチキなものはあったかもしれないのですが、昔の宗教にはそこまでひどいものはありませんでした。キリスト教にしても、私たちが幸福な生き方を考えていけるよう、お互い助けあって仲良く平和に生きていくことを教えてきたのです。古い宗教には、それほどたちが悪い教えは一切なかったのです。現代のカルト宗教や新興宗教をみて多くの人々が宗教に反感を抱くのは当然といえるかもしれません。

でも私たちが勉強している「仏教」は、そういう現代の科学信仰によってもたらされたカルト的な宗教とは違います。明確にそれらの宗教とは、一線を画したものです。智慧の教えであり、智慧の実践法です。いわゆる「宗教」ではないということがよくおわかりいただけると思います。

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ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日