施本文庫

ブッダが幸せを説く

人の道は祈ることより知ることにある 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人生は使い方を知らない道具の森

私たちは生きるために必要な道具を一応並べておくことはできます。しかし、それ以上の人生を知らないのです。私たちは道具ばかり作って道具のなかで混乱しているだけで、生きるということはやったことがないのです。
ですから、お釈迦さまは普通の人々に対してかなり辛らつに、こういう指摘をするのです。「あなた方はみんな、死んでいるのも同然です」(ye pamattā yathā matā)と。

つまり、みんな生きていることに気づいていないのですから、死んだ人と同じだというのです。ただ道具ばかり並べても、道具は何かをなすためにあるものですから、道具自体には何の意味もないのです。

ボールペンは何のためにありますか?書くためにあるのですね。ボールペンは道具であって、書くことによってボールペンに意味が出てくるのです。もし、この道具では書くことができないなら「ボールペン」である必要はどこにもないのです。洋服にしても同じことです。どれほど高価な服であろうと、どんなに流行の最先端を行く服であろうと、誰かがそれを着なくては、何の意味もないのです。洋服は、人間がそれを着ることによって初めて洋服としての、つまり道具としての機能を果たすことができるのです。

ところが、私たち人間は、人生における道具を集めることにはやっきになるけれど、それを使うことに関しては神経を使わないしまったく気にもしない。そこで人生がわからなくなっているのですね。

ボールペンの話に戻りますが、ボールペンで書くことでボールペンの仕事は終わったとします。問題は、その「書かれたもの」というのは一体どんなものなのかということです。書かれたものも、いってみれば道具ですね。誰かによって読まれるためにあるのですから、道具にちがいありません。誰にも読まれなければ、書く意味もないでしょう。人には見せずに自分の記録として書く、あるいは気を紛らわせるために書くのだという人もいるでしょうが、それにしても道具であることには違いないでしょう。
いずれにせよ、書かれたものは、読まれることによってはじめて「書かれたもの」という道具としての意味がでてくるのです。

私たちは読むという道具を使って何かをしなくてはならない。ここで考えて欲しいのは読んで何をするかということです。

世の中には、ただやたらに、ものを読む人が多いのです。分厚い本や文庫本に始まって、あらゆる雑誌、週刊誌、新聞はてはマンガ本までむさぼって読むのです。では呆れるほど読んだところで、その人の人生に何か役に立ったところはあるのかと問うてみると、恐らくあいまいな答えしか出てこないでしょう。役に立つどころか、分厚い本を読み終わると、内容をきれいに忘れてしまうことさえあります。また、感情的な本や、よく売れることだけをねらって書かれた無責任な本など、読んだところで却って混乱する場合もあります。

ここで主張したいのは、本あるいは書かれたものも道具であることです。道具ですので、読んだ結果が自分の人生設計に何か参考になる必要があるのです。
しかし現実は、自分の知識・能力を深めるためではなく、単なるひとつの娯楽として読書をしている人のほうが多いようです。このような場合も、道具の使い方が上手ではなかったといえるのです。

問われるのは道具よりもその使用法

別の例を出してみましょう。スポーツの世界を例にとっても、道具を道具としてしか使っていない、つまり道具に逆に使われているだけのような結果を指摘することができます。ウィンブルドンのテニスにしても、サッカーのワールドカップでも、あるいは野球のワールドシリーズ、柔道の世界選手権でも何でもいいのですが、あんなことは何でやるのでしょうか、やる意味があるのでしょうかと、疑問を呈したいのです。

それぞれのイベントをおこなうのに多額の資金を注入して、衛星放送までやって世界中が熱中しています。テニスにしてもサッカーにしても単に球をあっちへ打ったりこっちへ飛ばしたり、柔道だって相手の胸ぐらをつかんで、ただ相手を倒すことだけに一所懸命になっている。世界という冠をかざした選手権ともなると、もう二年前三年前から選手たちは練習して、練習して、練習して備えるのです。そのために人生の大切な若い時期を棒に振ってしまいます。私などは、時間とお金の無駄ではないかと思ってしまうのです。

ウィンブルドンで、あるいはワールドカップで優勝したとしましょう。テニスやサッカーの一流選手になったからといって、いったいどうだというのですか。「私は世界中で有名になりました」とでも言うのですか。それがどうだというのですか。
たとえばいつも喧嘩ばかりしていた夫婦が、夫がサッカーのチャンピオンになって有名になったからといって、喧嘩をしなくなるのですか。喧嘩になりそうになったとき、「私はフランスでワールドカップのチャンピオンになったのだから」と言えば、奥さんは「ああそうでしたね。はい、わかりました、喧嘩はしません」などと答えるのでしょうか。あるいは、突然病気で倒れたとき、栄冠のトロフィーが病気を治してくれるのでしょうか。

誤解のないように言っておきますが、私はテニスやサッカーが嫌いだからという理由で言っているのではありません。柔道がいけない、野球がくだらないと言っているのでもありません。サッカーでもテニスでも、あるいはゴルフでもやりたければやればいいのです。

ただ、この場合に見えるのは、人生のために道具が使われているのではなく、道具のために人生が使われていることです。どんなことをやろうとも、人間は自分の人生を歩んでいくのですから、歩む以上はその道から何かを学ばなければ、やっている意味がないのです。テニスの選手であるならばテニスを通じて、テニスの試合のなかから人生を学ばなければならない。ゴルフの選手ならゴルフの試合のなかから人生を学ばなければ、何の意味もないということなのです。

特にスポーツを例に出したわけは、スポーツ世界で一流になった人、つまり優勝したり何かの賞をとった人々が、ただそれだけで終わってしまっているという現実を何度も目の当たりにするからです。スポーツの世界では一流の選手になったかもしれないが、人間としてみた場合にどうか、人生においても一流の生き方をしているかどうか。これはスポーツの世界だけでなく、皆さんにも当てはまることなのです。

つまり私たちは、人生を見ないで道具だけを見ている。上手にテニスだけやれば、サッカーだけやれば人格はどうでもいい、人生がどうなっても関係ないという感じで捉えているのですね。

それはおかしいし、非常に危険なことだ、とお釈迦さまの立場からいえるのです。道具を揃えるだけで、使わないなら、どんなに道具が揃ってもまったく意味がないのです。それは端的にいえば、世界最高級のとても高価な楽器を全部集めたとしても、一流の音楽家にはなれないという事と同じです。

問題の核心をもっと明確にしましょう。私たちは日常生活のなかでもいろいろなことをします。そのひとつひとつから、人生そのものを何か学ぶことができるはずなのです。生きているからこそ、いろいろな他の道具が必要になるのであって、生きていないなら道具など何もいらない。生きているからこそ結婚するのであり、生きているからこそ教育を受けるのであり、生きているからこそ経済活動をし、生きているからこそ服を着るのです。

大事なのは生きているということそれ自体であり、それ以外のことは価値がひとつ下なのです。いちばん上の価値は、まさに「生きる」ということなのです。

しかし、これまでみてきたように、私たち人間は、生きるという基本の絶対条件を捨ててしまって、他のこと、勉強しなくちゃならない、スポーツをしなくちゃならない、エアロビクスをしなくちゃならない、掃除をしなくちゃならない、とやることばかり考えている。そういうことに、とらわれてしまっている。もっと極端になると、そういうことに私はこれからの人生を賭けます、などと言うのです。
道具を集めることだけに奔走したり、道具に使われるだけの毎日をずっと続けて、それでいつの間にか人生を終えてしまうのです。そんな人生は猿以下です。生きるということを考えていないわけですから。

生きるということはいちばん大切なことで、そのために必要なことは、その下のこと、生きるための「道具」なのです。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23

この施本のデータ

ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日