施本文庫

ブッダが幸せを説く

人の道は祈ることより知ることにある 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

どうすれば幸せになれるのか

このあいだ、下校途中の小学校の生徒たちと出会ったのです。大きな広っぱを歩いてくるのですが、ゆっくりゆっくり五、六歩行っては立ち止まり、今来た道を引き返してはまた何かを見つけてペチャクチャとおしゃべりをしている。学校から子どもたちの家まではわずか五分くらいの距離だと思うのですが、恐らく彼らは一時間以上もかかって帰るのではないでしょうか。車の駐車場があればそこで遊び始めたり、犬を見つけては追いかけてみたり、塀をくぐったり、水溜りがあってそこに葉っぱが引っかかっていたりすると、それで遊んでみたり、とにかく時間のかかること、かかること。

その子どもたちが私の姿を発見して、捕まえてしまったのです。私がちょっと日本語を話すと、もう珍しがって、いろいろと質問をしたり、衣を引っぱってみたり、年を訊ねたりして、もうキリがないのです。
そこで私は気がついたのですが、彼ら子どもたちは、思いっきり寄り道をして、すぐには家に帰りたくないのですね。家に帰るのをなるべく延ばして、できるだけ遅く帰るのです。まあ、小学一、二年生ですから、そういう行動そのものが、とても可愛いのですが、でもそれは、子どもだから許される寄り道ですね。
大のおとなは、自分の人生でそんな寄り道をしている暇はないのです。人間として私たちはどうすれば幸せになれるのか、どんなことをしたら不幸になってしまうのかというのが、今現在の重大問題ですから、この子どもたちのような寄り道は、もうできないはずなのです。
神さまがどうしたとか、戦争をどうしたらいいのか、世紀末に何か起きるのか、起きるとしたら、どんなことなのか、ハルマゲドンはいつ来るのか、などという話は、私たちの人生において何の関係もない話であり、むしろ余計なことではないですか。少しでも自分の人生に悩みや苦しみがある人は、正直にどのようにすれば自分が幸福になれるかということを考えたほうがいいと思います。仏教にとっても、その問題が最も大きなテーマなのです。

仏教の幸福論

さて、その幸福ということをしばらく考えてみることにしましょう。

仏教における幸福の定義は、皆さんがお考えになっていることとは、ちょっと違うかもしれません。前章でもそのことについては触れましたが、たとえば、人間というのは、お金があるからといって幸福にはならない。マイホームをつくったからといって幸福にはならない。自分の理想の結婚相手が見つかったからといって幸福にはならない。立派な会社に就職できたからといって幸福にはならないのです。

そのようなことを実現できても、悩む人は悩むし、困る人は困る。問題をつくる人は問題をつくる。人一倍勉強して一流大学に入っても、大学を卒業しないで中退する人もいる。あるいは、一流大学を卒業できて、立派な企業に入社しても、いろいろトラブルをつくるとか、辞めなくてはならないような事態に陥る人もいる。大好きな気に入った女性と結婚できても、喧嘩ばかりして離婚する人もいる。
ですから、今挙げたような条件では決して幸福になれるわけではないのです。

また、仏教ではこういう見方もできるのです。
もし、お金がたくさんあることが幸せの条件であるとすると、世の中にはお金のない人のほうが、お金に恵まれている人に比べて圧倒的に多いわけですから、幸福になれる人はごくわずかであり、残りのほとんどの人々は不幸になってしまうことになります。
また、一流会社に入ることが幸せであるといっても、一流といわれる会社に入社できるのは、ほんの一握りの人だけで、残りの大多数の人は小さな会社で仕事をしたり、会社にも入れずに何かをやって生活しているのですから、幸福を味わえる人は極めて少ないということになる。
健康なからだを持った人が幸福だとすると、数十年も生きていると、必ずからだのどこかに異常が出てくるから、大多数の人は幸福になれないということになってしまうのです。

わずか一握りの人間にだけ実現できるものは、人類の幸福にはなりません。幸福というものは、すべての人間に実現できなければ無意味です。
仏教はすべての人間に実現できる幸福を教えているのです。

例を出して考えてみましょう。
お金持ちが幸福であるとします。今、自分にはものすごくお金があって幸福である。自分の身の回りの世話をしてくれる人がたくさんいて、食事の世話もお手伝いさんがちゃんとしてくれて、なんと幸福だろう、と思うのです。今、自分にお金があるということは、世の中にあるお金の何パーセントかが自分のほうに流れてきているということですね。
ということは、自分のほうに流れてくるお金の分だけ、どこかでは減らされているということになります。自分の身の回りの面倒をみてくれる奥さんや子どもは、自分のために一所懸命尽くしてくれているわけですが、その分彼らは自分のことができなくなっている、つまり自分の幸福に対して、身の回りの世話をしてくれる人々は幸福ではないという図式になります。
ということは、自分以外の他人を不幸にすることによって、自分の幸福が成り立っているということになります。そういう幸福は罪であって、あってはならない、というのが仏教の幸福論の大原則です。
一人の人間が幸福になることによって、まわりの人間が不幸になることは、あってはならない。それは社会にとって迷惑なことなのです。そういう幸福はあってはならない。

本当の幸福の定義は、「私は幸福である、ゆえに私のまわりの人々もまた幸福である」ということなのです。

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ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日