施本文庫

ブッダが幸せを説く

人の道は祈ることより知ることにある 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

誰でも社会に貢献できる

そういう道徳的なことをきちんと教えれば、子どもたちもそれぞれ納得して、学校に行って勉強することがとても大事なことだということを無理なく理解していくのです。
しかも、なぜ勉強しなければならないかが納得できれば、子どもたちの心にも強制されるというストレスがなくなりますから、勉強そのものが面白くなっていくのです。勉強が面白くなれば、どんどん勉強ができ、当然知識も増えていきます。
皆さんにもおぼえがあるでしょうが、勉強が苦手なのは試験でいい点数を取るためだけの、暗記が主流の勉強法になっているからです。本来、勉強というのは楽しいはずなのです。知らないことを知っていくということは人間にとってワクワクするような喜びであり、快感なのです。
テレビのクイズ番組に人気があるのは、知らないことを知っていく知識欲という知的本能を満たしてくれるからです。
ですから、勉強は強制ではなく自分の知的好奇心を満たすためのものであり、知識欲求を満たすことが世の中のためになるのだと納得したとき、面白く意味のあるものになっていくのです。

世の中で働くことも、自分や家族が食べるためだ、というのではあまりにもレベルが低すぎるのです。
社会を守り発展させていくために働くのです。能力のある人はどんどん活躍していけばいいし、それ程能力のない人でもそれなりに社会に貢献できることはいくらでもあるのです。

私が不思議に思うことは、これだけ世界一流の教育システムを発展させてきた日本でありながら、世界に通用する科学者が非常に少ないという事実です。
今の教育システムを考えればもっともっと世界に名を轟かせる科学者が輩出してもおかしくありません。本当ならそこらへんにゾロゾロ天才がいてもいいような誇るべき教育システムでしょう。
ところが、この教育システムは、両親や先生たちの利己主義とエゴによって破壊されてしまったのです。
それを如実に示すのが、みんな平等でなくてはいけないというおかしな理屈なのです。みんな同じような教育レベルを保たなければ民主主義の精神に支えられた教育ではないというのです。

小学三年生ならみんな等しく小学三年生のレベルにならなければならないなどと、いったいどんな理由で主張するのでしょうか。クラスのなかにすごい秀才がいて、小学三年生なのに高校生くらいの学力がある。そういうとき、この生徒は小学生のクラスをパスして高校に行かせてもいいではありませんか。
ついてくることができるのなら、積極的にそういうシステムを取り入れるべきでしょう。
どんどん優秀になって下さい、そして早くみんなのために役に立つ人になって下さい、と激励してあげることはどんなに素晴らしいことか。
最近になって、高校生を大学に飛び越し入学をさせるというシステムが生まれたようですが、もっともっと小学校のレベルからそういうことはやっていいと思うのです。
エジソンやアインシュタインや、日本でいえば松下幸之助さんですか、ああいう人物を世に送るためには今の教育システムを変えてもいいのではないでしょうか。

「大きな傘のような人間になりなさい」

私は仏教の世界で育ちましたから、小さい頃から教育は金儲けの手段ではなく、立派な人格をつくるためのものだと厳しく教えられていたのです。
ですから、「せっかく勉強するのだから、そのことで何か良いことができたらいいなあ」という感じで育ちました。私は一度として勉強がイヤだと思ったことはありません。面白くない教科書とか本などで居眠りするときもあるにはありましたが、それによって勉強が嫌いになることはありませんでした。
人生のあらゆる場面で人々の役に立つのだという気概が私をひたすら勉学の道へと駆り立てたのです。

そういうガンバリズムには母親の影響も大いにあったようです。母親は私に機会あるごとに、生きる目的を教えてくれました。

「自分のために生きるのではないよ。自分が堂々と立派な人間になるために生きているのです。小さな動物や植物を大きな傘の下で守ってあげるように、そんな大きな傘のような人間になりなさい」と小学校にいるときから聞かされつづけて育ったのです。

そういうふうに育てられた子どもは決して問題など起こしません。そういう子どもは、頼まれなくても家の手伝いはするし、他の人のためになることなどにもよく気がつきます。私も学校に行く前に早起きして、一日に必要な水を一人で汲みにいきました。小さい頃は母親がやっていたそのつらい仕事を、十歳くらいになったとき、私は進んでやるようにしたのです。大きな甕を背負って、手は痛いし、腰は痛いし、足はフラフラになるし大変な重労働だったのですが、がんばりました。自分の行為が母親の役に立っているということが、とても嬉しかったのです。

そういう私の行為を、母親は決して誉めてくれませんでした。私のほうも誉められたくてやったわけではありませんでしたから、何も言われなくてもなんとも思いませんでした。
それどころか、母親がそういう誉め言葉を言ってくれなかったお陰で、今でも私は人から誉めてもらっても舞い上がることなどありませんし、人から感謝の気持ちを期待して何かをするなどという気持ちもひとかけらもありません。

その仕事が、私にとってやる価値のあるものかどうか、そしてその仕事をやれば人のためになるかどうか、それだけが判断の基準となります。
やる価値があり、人のためになるとなったら、別に誉めてくれなくてもおだててくれなくても、水一杯くれなくても、私は喜んで仕事をするのです。
現在私は坊さんですから、そういう行為は当たり前としても、在家のときからこうした見返りを期待しない考え方でやってきました。これは、小さい頃の母親のしつけのお陰だといえるでしょう。
生きることに充実感を持つということは実にそういうことであり、幸福感を得るための基本的な原則といえるでしょう。

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ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日