施本文庫

ブッダが幸せを説く

人の道は祈ることより知ることにある 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

会社も世の中に貢献する存在であれ

皆さんが働く会社でもこの原則は当然当てはまります。会社というものは、この世の中に何か貢献する存在でなくてはなりません。ただ儲けろ儲けろでは、間違っているのです。
その会社に働く人々もまた、給料を稼ぐだけの目的で働いても意味がないし充実感も得られないのです。社会の人々を助けるために、何か自分のできること、会社の一部分となって才能なり能力を使ってできることを提供する、そしてその報酬として幾ばくかの収入を得ることはとてもいいことだし、充実感を得ることができるのです。
そういう原則さえ満たしていれば、社員の集合体である会社が利益を得ることもとてもいいことなのです。なぜならば、社員と同様、会社もまた生きていかなければ社会のお世話はできません。
ですから、生きていくための利益は必要であり、そこではじめて儲ける意義が生まれるのです。

そういうシステムが確立されたとなると、働く社員もうかうかしてなどいられません。真面目にきちんと働いていないと、世の中のため人々のために貢献できなくなってしまうのです。
これまでは、たとえば上司に叱られるとすぐに、「あの上司は実にいい加減だ、自分の主観で人をみて、気に入らないというだけで怒るけしからん上司だ。あんな上司を雇っている会社にもいろいろ問題がある」などと腹を立てていた部下も、考えを変えなくてはならなくなります。

「上司はやはり自分よりも仕事を知っているし、もっと大局からものごとを見ているから、怒られるのも自分が至らなかったからだろう、もっと真剣に仕事に取り組まねば」と考えを変えていくと、今度は上司に怒られてもかえってやる気が出てきて、明るくがんばることができるのです。

そうなると、その人が会社を辞めるときになっても、「ああ、自分は本当にいい仕事をしたなあ。いろいろな人の役に立てて、世の中にもある程度貢献できて、この会社で働けてよかった」というふうになるのです。
また、会社のほうも「この人は本当によく働いてくれた。この人のお陰で、うちの会社も社会に貢献できた。それで社員も充実し、会社も潤ってありがたい。心からご苦労様を言います」と感謝して、その人が辞めるのを惜しむのです。

定年になった人が、一日中家にいて何もやることがなくて、つまらない、退屈だと不平を言うのをよく耳にしますが、そういう人は可哀想ですね。会社を辞めた人が何もすることがないというのは、会社で働いていた頃から、これといった仕事をしていなかったのです。自分の働く意義や意味を見つけられぬまま、ただベルトコンベヤーに乗せられて、二十五年、三十年をむなしく過ごしてきたに違いありません。

本当に真剣に仕事をやってきたなら、たとえ退職してもやることはいくらでもみつかるのです。会社で身につけた能力や技能を活かす仕事につくこともできるだろうし、それとはまったく異なる趣味や特技を活かして、いろいろなこともできるでしょう。あるいは、定年になったのだから、これからは自分の好きな事をするのだといって、ボランティアをしてもいいし、家で孫にいろいろなことを教えて充足した余生を送ることもできるのです。

こういう人は、知識が豊富なだけでなく、人生でたくさんのことを学んでいますから、からだが動かなくなって死を考えるような年齢になっても、周りで面倒を見てくれる人や友人に、人生の先輩として何かと相談に乗ってあげることもできるのです。
ですから、死ぬ寸前まで充実して生きていくことができる。こういう人は本当の幸福を得ることができるのですね。

「神さまの計画」はあるか?

私が人生に目的を持てと言うのは、そういうことなのです。ところが普通の皆さんは勘違いをしているのです。「人生の目的」などというと、何かとてつもない目標とか、崇高な意味があるのではないかと考えてしまうのです。そのいちばん典型的な誤解は、「この世に私はなぜ生まれてきたのでしょう」とか、「私の一生はすべて神さまの御心のままです」などという形而上学的な概念を持ち出してくることです。

生まれつき足の不自由な子どもがここにいるとしましょう。そこに神父さんが通りかかった。子どものお母さんが神父さんに、「なぜ、私の子どもは生まれつき足が不自由なのでしょう」と訊ねたとします。すると神父さんは、「あなたのお子さんの足が不自由なのは、神さまに何かお考えがあって、必要があってのことなのです。きちんとした理由、意味のあることなのです」などと言うのです。
こんな理不尽な話がありますか。そういう神さまの意思ではなくて、私たちが現実の生活のなかではっきりと理解できる意義をそれぞれが考えてほしいのです。

神さまのご意思などという訳のわからない話でごまかしてはいけません。その子のお母さんが、「私はしっかり生きていかなければならないのです」という。「なぜですか?」と理由を聞くと、「私がしっかりと生きなければ、この子がダメになってしまうからです」。

それならよく理解でき、納得できるのです。お母さんはしっかり頑張って生きていかなければならない。そうしないとその子も生きていけなくなってしまうかもしれない。この子は、そうしたお母さんが、くよくよせず堂々と生きていく姿勢を見て、自分もまた生きていく気構えをしっかりと学んでいくのです。これなら生きていく目的、生きる意味がよくわかる。

神さまにいろいろな計画があって、そのために私たち人間をつくられたのだと言われても、誰もそんなことに実感はないでしょう。私たちを、そしてこの宇宙を創ったといわれるほどの頭のいい神さまなら、私たちをつくるときに契約書かプログラムをへその緒にでもつけて一緒に出してくれればいいものを、そういう証明書は一切なし。人生の課題を知っている人なら、そういう話に興味を持つ余裕などありません。

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ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日