施本文庫

ブッダが幸せを説く

人の道は祈ることより知ることにある 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「願い」と「感謝」の登場

さて、大急ぎで歴史をみてきた後で、もう一度宗教の出発点に戻ってみましょう。恐怖、怖いと思う気持ちから「信じる心」がはじまったと述べてきましたが、では現代ではその怖いと思う気持ちは消えたのでしょうか。答えは否、消えていないのです。

私たちがいまだに宗教に求めているものは、やっぱり怖いから何とかして下さい、という単純な願いなのです。一方で、人間はいつでも怖い目にばかり遭っているかというと、そうでもなく、いいことも結構いっぱいあるのです。そこで今度は怖い目に遭わなかったのだから、「無事に成功しました。いい結果になりました。ありがとうございます」というように、神さまへの感謝の気持ちから祈ることになるのです。

つまり、宗教の祈りというものはよく考えてみると、「自分を守って下さい」という希求の面と、「ありがとうございます」という感謝の面の二点があると思うのです。祈りは、この二種類に絞っていいのではないでしょうか。

こういうふうに分析することを不謹慎だと思いますか。あるいは、もっと違う祈りもあると別の目的を指摘して下さる方はいらっしゃいますか。違う信仰、違う宗教の立場で、何か指摘していただけるのならぜひお聞きしたいと思います。
勿論、細密に、デリケートに分析すれば、祈りの性格も多種多様に分けなければならないとは思いますが、大胆に分類すればこの二種類にまとめられるといえるでしょう。

希求と感謝、このような意味で全ての人間が祈りの文化をもっているのです。「日本人は宗教に関心がない」とよく聞きますが、私から見れば宗教に対する関心度は外国とそれほど変わりません。
違うところは、宗教に対するアプローチの仕方です。外国では、宗教は個人の信仰ということで隠すのではなく、公に認めるのです。日本では個人の信仰は公に知られないように、できるだけ隠そうとします。「政教分離」制度は外国にも見られます。でもそれらの国々の政治家が何を信仰しているかは公に知られています。

隠すか公開するかというアプローチの仕方は違いますが、日本人も生活の節目や困ったときなどには、何かの形で祈ります。宗教あるいは祈りに対する関心は、全ての人間が持っていると思ったほうがよいと思います。

死への恐怖が創造した天国思想

ところで、人間はその誕生以来、様々な恐怖感を抱いてきました。中でも、病気への恐れは最も強いものであろうと思います。病気への恐怖は、その先に「死」への畏怖があるわけです。死ぬことを怖がる人のなかでも、一番怖がっている人は、死なないでいる人です。おかしな言い方ですが、わかりますね。死んでしまった人はもう恐怖もないわけで、自分以外の他人の死を知っている人が、もし自分が死んだらどうなるだろう、もっと生きていたいなあ、ということから死を恐れるわけです。

人間は、人の死、家族の死、知人の死という経験のなかで、死への儀式儀礼を考え出し、それが文化として発達してきました。国や民族によってその内容は違いますが、死に対する儀式儀礼のない国はありません。先進国、発展途上国は勿論のこと、アフリカやパプアニューギニアの森の奥深くに住む原始的な生活を営む民族でも、死者への儀式儀礼は必ず行います。それだけ人間は、「死ぬこと」がいちばん怖いのでしょう。怖かったからこそ、様々な文明の流れのなかで哲学が生まれ、「死」の定義、「死」の考え方を確立させようとしてきたのです。

そのいちばん典型的なものが、「死ねば天国というところに行って生まれ変わります」というものでしょう。「この世で死んでもあの世に生まれ変われるなら、死ぬこともそう恐れることもないのではないか」と、なんとなく納得していく。ところが、みんながみんな、天国というところに行けるわけではなく、行ける人と行けない人がいる、という区分けが出て来るのです。そこに善人と悪人という区別がうまれ、善人になって天国に行くという哲学も誕生するのです。

しかし、世の中にはそんなことを考えている暇人ばかりがいるわけではなく、今日一日のことを考えるだけで精一杯だという人もたくさんいるわけで、そういう人は天国行きの話には無関心なのです。

こういうところに、人間の宗教に対する関心の度合いもまた表れるのですが、いずれにせよ、「死ぬことが怖い」と思った瞬間に、そばに宗教という幽霊が寄り添っているのです。これまで考えてきたように、宗教というものは人間の歴史の始まりとともにあったわけですから、すべての人間の潜在意識に、組み込まれているのです。
今の自分の人生には、宗教は一切関係ないと思っている人々でも、自分は無宗教だと主張している人々でも、何かのきっかけでその過去の記憶が出てくれば、たちまち宗教という存在が身近なものとなって現われます。

例えば無神論者がいたとしましょう。その人があるとき突然具合が悪くなってお医者さんにみてもらったとします。お医者さんに「あなた、肝臓が大分悪くなっています。こんな状態になるまで放っておいて、もう手遅れです、治りません。あとせいぜい二ヶ月も生きられたらいいところでしょう」と言われたらどうなりますか。殆どの場合は、たちまち無神論者としての立場が崩れるのではないでしょうか。そして、その人の心に神さま仏さまが生まれてくるのです。

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ブッダが幸せを説く
人の道は祈ることより知ることにある 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日