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仏道の八不思議

pahārāda suttaṃ お釈迦様の教えの特色

アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏道の八不思議

目的は唯ただひと一つ「解脱」

6. Evamevaṃ kho, pahārāda, ayaṃ dhammavinayo ekaraso, vimuttiraso.

大海が「塩」という一つの味であるように、この教えも「解脱」という一つの働き(目的)である。

[ 解 説 ]

お釈迦様の教えの目的は、唯ただひと一つ、「解脱」です。それだけなのです。仏教経典は、この目的に沿そって、しっかりと解脱のほうへ進んでいきます。途中で脱線することはありません。短い経典でも長い経典でも、最後には「解脱」で終わるのです。

パーリ文の中にrasa(ラサ)という言葉がありますが、rasa には二つの意味があります。一つは「味」、もう一つは「働き・機能」です。パハーラーダさんはrasa の一番目の意味の「味」を使って「塩という一つの味」と言っていますが、お釈迦様はrasa の二番目の意味を使ってvimuttiraso「解脱という一つの働き」と言っています。この場合は「味」ではなく「機能・働き」のことです。

お釈迦様の教えには「機能」があるのです。どういう機能かといいますと、「解脱に導く」という機能です。だから勉強するだけでも、心は知らないうちに成長し、解脱のほうへどんどん進んでいくのです。

お釈迦様の教えには、不思議な力があります。これは呪文やマントラのような力だと勘違いしている人もいますが、そういう類たぐいのものではなく、「教えに深い意味がある」ということです。教えの意味が理解できれば、たちまち心が清らかになるのです。たとえば、どうしようもなく悩んで落ち込んでいるとき、お釈迦様の言葉を一行だけでも読んでみると、その瞬間、電気を付けたようなかんじで心がパッと明るくなるでしょう。お釈迦様の言葉にはそのようなすごい力があるのです。これは呪文やマントラのようなものではなく、言葉の内容・意味の力です。「お釈迦様の言葉を変えたり入れ替えたりしてはならない」と言われるのは、そういう理わけ由なのです。変えてしまったら、「言葉の意味」が崩れてしまいますから。

仏教は完全な教えです。経典にはあらゆることが記されています。日々どう生きればいいか、仕事はどうすればいいか、お金の管理はどうすればいいか、など日常生活に役立つ教えから、政治、経済、教育などに役立つ教えがいろいろあります。

また、人間関係や心のやすらぎに関する教えもあります。最近、日本では多くの方が心のやすらぎを求めてカウンセラーのところに行っているようですが、仏教徒になったらカウンセラーに行く必要はなくなります。子育てのカウンセラーも、教育のカウンセラーも必要ありません。自分一人で問題を解決できるようになるのです。もし母親が仏教徒なら、完璧に子供を育てることができるでしょう。学校の問題も、教育の問題も、思春期の問題も、なんのことなく解決できるでしょう。その情報が仏教にはあるのです。ただ、項目として書いてあるわけではありません。「これから教育について語ります」とか「子育てについて語ります」「親子の問題について語ります」などとは書いてありません。でも、きちんと書いてはあるのです。たとえば、お釈迦様は比丘たちに「政治的な話は議論してはならない」と禁止されていますが、お釈迦様が政治家やリーダーたちに説法している内容を見ますと、いかにして国を正しく統治するかという政治の方法を教えているのがわかるのです。

それから、高度な知識や哲学、論理を学びたい方は、お釈迦様の教えをしっかり学ぶなら、もう誰もかなわない理性的な人になるでしょう。

超越した能力の話もあります。私たちは今感情に溺れて、情なさけない状態で生きていますが、人間はそんなものではなく、本当はすばらしい能力が備わっています。経典には神通力の話や、その能力の育て方なども記されているのです。

それで終わりません。宇宙の話もあります。もし宇宙研究者たちが経典を少しでも読んで勉強してみれば、「我々はここまで知らない……」と驚くことでしょう。

大量にある経典を読むと、お釈迦様はさまざまな人にたいして、生きる上で必要なアドバイスを与えているのがわかります。科学者にも、経済学者にも、家庭の奥さんにも、若者にも、子供にも、仏教から学ぶべきものがあるのです。ですから仏教は堂々と「誰でも来てください。あなたの役に立つものがありますよ」とオープンにしているのです。これは現代風に言えば、ウィキペディアのようなものです。そこには無数の情報があるのです。でも、ウィキペディアのようにいろんな人が訂正したり付け加えたりする必要はありません。仏教はすでに完成しているのですから。

このように、仏教の教えには何でもありますが、結局は「一つしかない」とも言えます。そこがまた仏教の不思議なところです。政治や経済、宇宙などの話はついでにチラチラと言うだけで、仏教のメインテーマにはなりません。仏教の教えは一貫して「心を清らかにして解脱すること」にかぎるのです。いろんな話があるからといって、この目的からは微塵も脱線しません。どんな話も「解脱・涅槃」で終了します。これが仏教の不思議の一つなのです。

三十七の宝物

7. Ayaṃ dhammavinayo bahuratano aneka ratano.Seyyathidaṃ _ cattāro satipaṭṭhānā, cattāro sammappadhānā, cattāro iddhipādā, pañcindriyāni, pañca balāni, satta bojjhaxgā, ariyo aṭṭhaxgiko maggo.

大海に宝物がたくさんあるように、この教えにも様々な宝物がたくさんある。仏教に隠れている宝物とはどのようなものか。それはすなわち四念処、四正精進、四神足、五根、五力、七覚支、聖八正道である。

[ 解 説 ]

この偈では数字をおもしろく使っています。四、五、七、八と順番にもなっています。この経典は丸暗記する経典でしたから、私たちにとってはこのような数字のからくりがあったほうが覚えやすいのです。たとえば「七覚支」と覚えると、「覚支が七つある」ということはすぐにわかりますし、説法するときに一つ二つ落とすことはなくなるのです。

仏教は「四」は好きな数字です。四聖諦(四つの聖なる真理)ですからね。四聖諦は四つに決まっているのです。真理はいくつあったっけ……よくわからない……ということはありえません。「真理は四つ」と、数字といっしょに教えてあるのですから。

「四念処」というのは、心を清らかにし、解脱するための冥想です。これも身・受・心・法の四つにまとめてありますから覚えやすいですし、実践しやすいでしょう。身体(身)の冥想から始めて、感覚(受)の冥想に入り、心の冥想にも入って、なんのことなく真理(法)の冥想に進んでいきます。見事な組み立てになっているのです。

「四正精進」とは、四つの清らかな精進・努力のことで、仏教では努力は四つのみと教えています。この四つで、努力は完結するのです。四つとは、

  • 今やっている悪い行為をやめる努力
  • いままでやったことのない悪い行為を絶対これからもやらない努力
  • 今やっている善い行為を完成させる努力
  • いまだかつてやったことのない善い行為をする努力 

これら四つの項目を満たすことで、努力は完成します。世の中の人間の努力というのは、すべてこれら四つにまとめられるのです。

「四神足」とは欲神足・勤神足・心神足・観神足のこと。「五根」とは、信・精進・念・定・慧の五つの能力。「五力」とは、信・精進・念・定・慧の五つの力。「七覚支」とは、覚りに必要な七つの要素で、念・択法・精進・喜・軽安・定・捨の七つです。「聖八正道」とは、涅槃に至るための八つの実践項目で、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つです。

ここでリストアップした項目はすべて覚りに達するために必要な条件であり、この上なく貴重な宝物なのです。

仏教は「生きることの科学」

お釈迦様の教えはすべて立証して語っている具体的な事実です。

たとえば、恐竜のことをいろいろ研究している恐竜研究者たちは、恐竜を再現するために実物大の大きな模型を作っていますが、模型はその時代で本当にそのような恐竜だったか、事実は誰にもわかりません。最近は声まで再現していますが、本当にその声だったのでしょうか? 恐竜型ロボットもどこかで作っているようですが、それを見ると本当におもしろいですし、いきなりガーッと口を開けて飛び出してきますから、恐くなったりもします。迫力があり、子供たちは大変喜ぶでしょう。でも、あの声は本当にその恐竜の声なのか、事実は誰にもわからないのです。

仏教は、この恐竜の話のようにいい加減な話ではありません。すべて立証して教えています。恐竜の話は単なる人間の推測にすぎず、そうだったかもしれませんし、まったく違うかもしれません。事実はわからないのです。それとは違い、仏教は「生きることの科学」です。今ここで自分が生きている、その科学ですから、立証できるのは当たり前のことなのです。

世の中にはさまざまな哲学や思想、宗教がたくさんありますが、それらはだいたい妄想や推測、先入観であり、単なる概念である場合が多いのです。その中には、心を汚す教えや間違った道に陥らせる教え(たとえばテロリストをつくる教えなど)もありますし、反対に、まじめで丁寧で、いくらか心を制御することのできる教えもあります。でも、それらの教えも完全なものとは言えないのです。

一切の概念を破り、真理を発見し、ありのままに観ることのできる智慧をもたらす教えは、仏教だけです。教えを実践していくと煩悩がどんどん消えていき、やがて一切の概念が破れて、智慧が現れるでしょう。究極的には最終の解決策、いわゆる「解脱」が得られるのです。

心を完全に清らかにする道は、仏教以外、世の中にはありません。一切の苦しみを乗り越え、究極のやすらぎである解脱に達する方法は、仏教以外ほかにないのです。ただ、仏教の中でも部派仏教や宗派仏教になったりすると、それはなくなってしまいます。たとえば浄土真宗的な思想では「念仏を唱えれば救われる」と言っていますが、実際、念仏を唱えて本当に救われるのでしょうか? 人格が向上するのでしょうか? 心は完全に清らかになるのでしょうか? 題目を唱えることはどうでしょうか? 悪人にも題目を唱えることはできますが、唱えることで悪行為が完全にやめられるのでしょうか? 心は清らかになるのでしょうか?そのままなのです。

ですから「心を清らかにすること」に繋げていない教えや修行法は、お釈迦様の教えとは直接関係のない別の話になるのです。

「心を清らかにすること」にかかわる教えも、世の中にはときどきあります。でもそれらも残念ながらすべて不完全なのです。たとえば、イエズス様の言葉に「左の頬を殴られたら右の頬も出しなさい」という有名な教えがありますが、この一行だけを聞くと、なんとなく良い言葉のようにも聞こえますが、同時に疑問や反論もいろいろ出てくるでしょう。この教えで言いたいのは、いわゆる「仕返ししてはならない」ということで、別の言葉で言いますと「自分の怒りを制御しなさい」ということですが、イエズス様はそこまで言ってないのです。「右の頬も出しなさい」と、それで終わりです。「なんだそれ、やられっぱなしでいいのか……」と聞きたくもなるでしょう。説明がありません。だから教えは不完全なのです。

お釈迦様の場合は、証拠や理由をしっかり述べて教えています。「人に殴られたとき、もし自分が腹を立てて怒ってしまったら、その怒りによって自分の心が燃えて苦しみます。だから、自分の怒りを制御してください。怒りを制御することは、すばらしいことです。幸福への道です」と。他人を殴る人は自己管理ができずに怒りで燃えているのであり、そんな状況でも、あなたが落ち着いて、相手にたいし「どう、気がすんだ?」とニコッと笑うなら、あなたは立派な人なのです。

怒って殴り返すのは簡単ですが、自己制御は簡単ではないのです。

このように、世の中にある類似した諸々の教えと比較しますと、仏説は完全に語られていて異論を立てることができないということが理解できるでしょう。お釈迦様以外の人々の智慧の言葉も大事ではありますが、異論を立てることも簡単にできるのです。

しかし、仏説はできません。だからといって堅苦しい暗い教えかというと、そうではありません。すべて立証して語っている具体的で明るい教えです。普遍的な真理を説き、実践する人には必ずなんらかの心のやすらぎや幸福が得られる、正真正銘の本物の教えなのです。

仏教は革命的な教え

仏教は革命的な教えです。でも、残念ながらこのことに気づいている人はほとんどいません。気づかないのは、私たちに智慧がないからです。私たちは勉強して知識は豊富にありますが、その内容を理解して本当に納得していないのです。だから誰でも「まだ足りない、まだ足りない……。もっと、もっと……」と欲張って知識を増やすだけ。たくさん知識がなくても、得た知識の意味をしっかり理解して、本当にそうなのかと納得することが一番大事なことです。もし仏教を真剣に学び、納得できたなら、仏教がいかに大胆革命的な教えかと驚くでしょう。

お釈迦様が2550年以上も前に「大発見しました」と言って最初の説法で説いた教えは、四つの聖なる真理、つまり四聖諦でした。四聖諦の第一番目は「生は苦である」という苦の真理です。

でも、現代の哲学者や宗教家たちは、いまだに「生とは何か?」と考え、いい加減な答えを出しているようです。たとえば、キリスト教では最初にアダムとイヴがいて人類が誕生した。そして二人が罪を犯したため、その罪を人類全体が負わなければならない、などと言っていますが、ここで理屈が完全に崩れているのがおわかりになると思います。アダムとイヴが罪を犯したからといって、なぜ人類全体が罪人になるのでしょうか? やはり、教えそのものがいい加減なのです。人間というのは誰でも不完全で、欠点だらけで、周りに誘惑されやすく、悪に陥りやすい。この現象をどう説明すればいいのか全くわからないから、このような物語を作って話すのです。

また、生命は親なしで無生物から自然発生した、と言う人もいます。原始時代、地球上に雷が落ちたり豪雨で嵐が吹き荒れたりなど激しい気候の変化があったとき、化学物質がゴチャゴチャしているところで、突然生命を構成するアミノ酸ができて生命が誕生した、などと言っていますが、この話もまだ仮説であり、証明されていないのです。

仏教は、生命や宇宙の最初の原因(起源)を探してはならない、と教えています。探すこと自体が間違いなのです。なぜなら、すべての現象世界は「因果法則」で成り立っているのだから。私たちは因果法則を知らないだけで、よく観察するなら「原因があって結果がある」ということが理解できるでしょう。原因があったから、結果が出るのです。そうすると、その結果がまた原因になり、その原因がまた結果になる……そうやって順々にたどっていくと、結局は糸の始まりが見つからないのです。たとえば「Bという結果は、Aが原因である」という場合、Bという出来事の前にはAという原因があり、そのAの前には、また何らかの原因があります。その原因の前には別の原因があり、またその原因の前にはまた別の原因がある……これが限りなく続いていくのです。

ですから仏教は、人類の最初はどうだったかとか、地球の生命はどうやって誕生したかという起源のことは思考しても結論に達しない、としています。宇宙は現れて消え、現れて消え……きりがなく回転し、その中で生命も現れて消え、現れて消え……限りなく回転しているのです。

そこで、宇宙の起源を知ったからといって、いま生きている私たちには何の影響もないでしょう。今の生き方を改良するためには、何の役にも立ちません。役に立たない知識を追うことは無意味なことです。宇宙の起源を知りました……だから何? ということになるのです。「起原」というものは、最初から発見できない、成り立たない概念です。科学者には、地球がいつどのように誕生したのかということを研究することはできるでしょう。科学的に何かを発見すると、いままであった間違った思考を直すことができますし、生命の誕生に関して、もし神話的なインチキ物語で一般の人々が脅されているとするならば、その恐怖感から人々を解放してあげることもできるでしょう。

でも実際には、宇宙も生命も際限なく現れて消えるものですから、起原というものはそもそも成り立たないのです。ですからお釈迦様は「生はどのように始まったか」ではなく、「生とは何か」という具体的な事実を見てください、と教えられました。よく観察するなら、「生は苦である」ということが発見できるでしょう。これは誰にも発見できなかった宇宙の普遍的な真理なのです。

生命を生かしているエネルギー

お釈迦様が発見された「四聖諦の苦」とは何でしょうか? 

厳密に言いますと、私たちは「苦」があるから生きています。生命が生かされているエネルギーは「苦」なのです。たとえばお腹がすいたとき、もし「気持ちいい」と思ったら何も食べないでしょうし、食べなければ死んでしまいます。お腹がすいたら苦しい..だから食べるのです。「食べたい、食べたい! 」というすごいエネルギーが湧いてきて、食べざるをえない状態になります。このように「苦しみ」が「食べたい」というエネルギーを生じさせているのです。

そこで、何かを食べようとして、もしそれに味がなかったりすると、今度は「おもしろくない、いやだ、まずい……」などと不満を感じるでしょう。味がないものは、お腹がすいていてもあまり食べる気にはなりません。これもまた苦しみです。それで調理法や味付けをいろいろ変えて、苦しみをなんとか消そうとするのです。

立っていると苦しいから座り、座っていると苦しいから立ちます。息を吸ったら苦しいから吐き、吐いたら苦しいから吸います。

家にいる時なぜテレビを付けるかというと、退屈だからです。退屈は苦しみでしょう。部屋にいるとき、楽しくて楽しくてたまらなかったら、テレビは付けません。つまらないから、付けるのです。

では、なぜテレビを消すのでしょうか? 番組がおもしろくないか、つまらなくなったからです。ほら、苦しいでしょう。ですから、テレビのスイッチを入れるのも苦しみがあるからですし、消すのも苦しみがあるからなのです。

外出するときにもテレビを消しますが、これも同じ苦しみが原因なのです。付けっぱなしで出かけることは不安材料になります。おもしろい番組を見ているとしましょう。でも、外出する時間になります。そのとき、「遅刻したら大変!」というちょっとした恐怖感が起こるのです。番組自体はおもしろいのに、「遅刻する」という恐怖感が優先してしまい、テレビを消さなければならないのです。このように調べると、人のいかなる行動についても、それらは苦しみがやっているという事実が発見できるでしょう。

このように、私たちは苦しみによって生かされています。食べるのも、運動するのも、おしゃれをするのも、結婚するのも、人間関係を築こうと頑張るのも、なんでもかんでも苦しみがやらせているのです。その苦しみは天にあるのではなく、私たちの身体に具体的にあります。「楽しいからごはんを食べる」というのは間違いで、それはその人の観察能力が乏しいだけ。ちゃんと客観的に観察するなら、「空腹という苦しみがあるから食べる」ということが発見できるでしょう。

今も皆さんは手足を動かしたり、首を傾けたり、髪の毛を触ったり、いろいろ身体を動かしているでしょう。それは苦しいからです。なんとなく気持ちが落ち着かないか、気分が良くないか、しっかりしていないから、動くのです。どんな小さな動きも、苦しみがやらせているのです。

そこで、他宗教が「生命を生かしているのは絶対神だ」と証拠もない概念を語っているのにたいし、仏教は「苦」という誰でも具体的に立証できる事実を教えています。この事実を知るだけでも、私たちはどれほど楽になるでしょうか。どうか神様助けてくださいとお祈りすることはなくなりますし、お金があったら幸せになるからガツガツ儲けるぞといった、あの途轍もない欲望も苦しみも一発で消えて、いきなり心が穏やかになるのです。

ですから、お釈迦様の教えというのはこの上ない宝物です。唯一の宝物なのです。金銀財宝などは心を汚すもので、宝物ではありません。仏教では宝石や財産を毒蛇に喩え、「触れるな」と教えています。皆さんは高級な宝石が手に入ったら楽しいでしょう。でも、楽しいどころではなく、大変なストレスの原因にもなります。その宝石のせいで執着ばかりして、心が汚れてしまい、不幸になる可能性が大いにあるのです。

これに対し、何の危険もない正真正銘の宝物というのは、お釈迦様の真理の言葉・教えです。これ以外どこを探しても、安全で真に価値のある宝物は他に見つけることはできないのです。

八種の偉大なる人格者

8. Ayaṃ dhammavinayo mahataṃ bhūtānaṃ āvāso. tatrime bhūtā. sotāpanno sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanno, sakadāgāmī sakadāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanno, anāgāmī anāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanno, arahā arahattāya paṭipanno.

大海には巨大な生命がいるように、この教えも偉大なる生命の住すみか処である。偉大なる生命とは、預流果に達した者、預流果に達する道を歩む者、一来果に達した者、一来果に達する道を歩む者、不還果に達したもの、不還果に達する道を歩むもの、阿羅漢果に達したもの、阿羅漢果に達する道を歩む者である。

[ 解 説 ]

海には巨大な生命がいるように、仏道には巨大な人格者がいます。その巨大な人格者、つまり偉大なる大おお物ものを、八種に分けています。これは仏教以外にはありません。

八種とは、預流道・預流果、一来道・一来果、不還道・不還果、阿羅漢道・阿羅漢果です。それぞれの語尾に「道」または「果」が付いていますが、「道」というのは原因のこと、「果」というのは結果のことで、たとえば預流道は預流果になるための原因である、という意味です。

仏教を学び、実践しようと決意した時点で、その人は他の人とは違い、大物であるということができます。理性的で科学的で、真理を発見しようではないか、心を清らかにしようではないか、と頑張っていますから、凡人のレベルを超えているのです。

そこで、修行して最初の覚りに成功したら「預流果」と呼ばれます。まだ煩悩はいくつか残っていますが、預流果というのは「流れに入った」という意味で、そのまま涅槃までまっすぐに流れて行くのです。預流果に覚ったら、聖者です。俗世間を乗り越え、聖なる世界(聖者の世界)に入っていますから、もう誰もかないません。だから「偉大なる人」と呼ばれるのです。迷信や神秘などはもうひとかけらもありません。

仏教で聖者とは誰かというと、この八種の人格者です。預流果から阿羅漢までが「聖なる弟子・聖者」と呼ばれるのです。これは他人に認めてもらって聖者に認定してもらうということではなく、自らが心を清らかにし、自らが達するものなのです。他の人から認定してもらう必要はまったくありません。

お釈迦様が涅槃に入られる前のこと、ある人がお釈迦様にこのような失礼な質問をしました。

「お釈迦様の教えには一番目の覚り、二番目の覚り、三番目の覚り、四番目の覚りの四つの段階がありますが、覚れるのは仏教だけですか?」

このとき、お釈迦様は高齢で身体が病気でしたから、なんの躊躇も遠慮もなく、このように答えられました。

「仏教と関係なく、四聖諦を発見して修行すれば、誰でも覚りに達します。覚りに達するには、四聖諦を発見しなければなりません。しかし私以外に四聖諦を説いている人は世の中にいません。だから一番目の聖者も、二番目の聖者も、三番目の聖者も、四番目の聖者も、仏教にいるのであって、他宗教にはいません」と。

お釈迦様は最後の最後、疲れていらっしゃったのでしょう。普通はこのように率直に、自分だけが真理を語っている、と言うことはありません。でも、この『パハーラーダ経』は涅槃に入られるよりもずっと前のお話ですから、「仏教には大物がいる」とそれだけ言って終わるのです。

おわりに

この経典は、「仏教とは」という自己紹介のような経典です。仏教はただ単に信仰するものでも、拝むものでも、祈るだけのものでもありません。人格が確実に向上する具体的で実践的な教えであり、試す・やってみる・実践する教えなのです。

実践するなら、この世ですぐに何らかの結果が現れます。死後、天国に行けますとか幸福になりますなどとは言いません。死後の世界の話ではなく、いま生きているこの世界で結果が現れるのです。戒律を一つ守っただけでも、善い結果が得られることが経験できるでしょう。

仏教に似た教えは世の中にはありません。これもはっきりしています。仏教は宗教とも言えませんし、科学とも言えませんし、哲学でもありません。日常生活の中で正しく生きることを教えていますが、日常論を語っているだけでもないのです。

これが仏教の不思議なところです。経典にはあらゆる教えが含まれつつも、その教えの一つ一つは「普遍的な真理」を説いているのであり、実践する人を確実に「解脱」へと導く「最高の幸福」を教えているのです。

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仏道の八不思議
pahārāda suttaṃ お釈迦様の教えの特色
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2011年5月11日
仏道の八不思議